[α] *
◆旅を終えて七年後、タラ三十四歳の初夏◆
南フランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の首府──マルセイユ。
地中海リヨン湾を臨むこのフランス最大の港湾都市に、タラが降り立ったのはもう六日前の夕暮れのことだ。
旅慣れた彼女は港に近い手頃な宿を見つけ、「商売」の出来るシーサイドの広場もすぐに探し当てた。翌朝からその一角にスペースを借り、順調に一日数件から十数件の仕事をこなしている。
この日もドライな空気の中を、潮の香りを含んだ風の通り抜ける木々の下、大きなパラソルで強い陽をよけて、自分の「店」を開いていた。
白っぽいキューブ煉瓦の敷き詰められた広場は楕円形で、その長手の両端に公園を抜ける通りが続いている。気温の高くなり始めたこの時期、観光客を狙ったジェラート屋や、フランスパンのサンドイッチ屋台、貝で作ったアクセサリー・ショップ、水晶を使う占い師など、タラの他にも沢山の出店が並び、カラフルなパラソルの下には結構なお客の山が出来ていた。
「メルシー ボクー」
タラはテーブルに広げたカードをまとめながら、二十代半ばといった女性の笑顔にお礼を言った。どうやら彼女の「結果」は満足の行くものだったらしい。嬉しそうに帰るその後ろ姿に手を振り、真ん前のカフェ・スタンドでちょっと一息でも入れようかと、鞄を手に取ったその時だった。
「僕も占ってもらえるかな?」
長い影が腰掛けたままのタラを包み込んだ。見上げれば背の高い青年が、興味深そうに彼女を見下ろしている。タラよりも幾つか年下のようだ。鞄をひとまず隣のチェアに戻し、タラはテーブルに両肘を突いて、困ったように首を傾げてみせた。
「タロット・カードを操る魔女にでも見えちゃったかしら?」
「え?」
軽く驚いたような声を上げた青年は、先程までお客の女性が座っていた足元の席に腰を下ろした。
ヘーゼルナッツ色のサラサラな髪と、ブルーグリーンの鮮やかな瞳が印象的だ。その目を丸くしてひたすらタラを見下ろす表情は、同じように困った様子にも見える。タラは片付けたカードをしなやかに広げてみせた。その指先に惹きつけられたように、青年の視線は右から左へと流れ、全てを目に焼き付けた。
「占いならお隣さんヨ。タロットではなくて、水晶みたいだけど。ワタシはカラーセラピスト。残念ながらアナタの未来は占えないわ」
そう言ってカードを綺麗に重ね、左隣の出店へ鼻先を合わせた。青年の顔も釣られたように美麗な横顔を見せる。
「ああ、失礼。てっきり占い師かと……カラーセラピストって、何をするの?」
タラはタラで、てっきり占いを求めてやって来たのだと思っていた青年が、こちらの商売に興味を示したのは意外だった。カードをしまおうとする手を戻し、
「今アナタに必要な『色』を教えてあげるだけ。このカードはその道具なの」
もう一度テーブルに並べ、お客に向ける微笑みを刻んだ。
印刷された色は全て違っている。この中から二枚、出来るだけ無意識に、インスピレーションに身を傾けて選ぶこと、更にそのお代もしっかり忘れずに伝えてみせたが、青年は迷うことなく紙幣をタラに手渡した。
「面白そうだね。でも僕が選びたい色はこの中にはない」
「え?」
カードを見下ろしていた二人の瞳が上がり、刹那かち合う。不思議そうに瞬かせたタラの翠色の眼には、食い入るように自分を見詰める青年の笑顔が映り込んだ。
「僕が欲しいのは、君が首に巻いているショールの薄紫と」
彼は右手の人差し指で彼女の首元を指し示し、更に、
「その綺麗なオレンジ・レッド」
それは少し上へ移動して、タラの口先で留まった。
「あら、ヤダ。これは困ったわネ……」
寄り目で指先を捉えたタラは、それから背もたれまで顔を遠ざけ、小さく溜息を洩らした。
「カード以外の物に目が行っちゃうなんて、カラーセラピスト失格だわ」
唇と同じ色の爪先が、おもむろにカードを集め始める。気付けば二人の表情は、再び困り顔に戻っていた。
「えっと……ゴメン。僕、いけないこと言っちゃった?」
「いいえ、謝らなければならないのはこっちの方ヨ。まだまだ未熟者な証拠ってこと。アナタの所為ではないから心配しないで。でも、ゴメンナサイ、ちょっと今日はこれで閉店にするわネ」
タラは既に戴いていたお代を返し、パラソルの下で立ち上がった。慌てて青年もそれに続いたが、彼の身長はタラより高く、パラソルの端に頭が掠ってしまう。
「おっと……でもどうか自信をなくさないで。そのショール、とても綺麗だと思っただけだから」
一歩を下がり、パラソルの外へ出た青年の耽美な微笑が、眩しい陽に照らされた。
「ありがとう。気に入ったのなら、お詫びに差し上げるわ」
首からショールをほどいたタラも日向に出て、丁寧に折り畳み、それを差し出した。薄紫──【彩りの民】であるハイデンベルクのラヴェンダー染め。
「いや……君だって気に入って使っているんだろ?」
「大丈夫ヨ。これなら幾らでも手に入るから。良かったら使ってあげてちょうだい。少なくとも「今のアナタ」には必要な色の筈だから」
「ありがとう。大切にするよ」
遠慮がちに掌を見せていた彼の両手が、お礼を言いながら受け取って、タラは少しだけホッとした気がしていた。数日前から「心此処に無い」ことには自身でも気付いている。だからこそこんなことが起きたに違いない。そう意気消沈していたのは確かだった。
「明日も此処に居るの?」
青年はそう問い掛けながら広場をぐるりと見渡した。周りの出店は依然盛況で楽しそうな賑わいだ。
「どうかしら。気ままな旅商売だから」
「僕は明日もまた会える気がしているけどね」
「え?」
今一度かち合った瞳の先は、やはり不思議そうな彼女の眼差しと、自信あり気な彼の面差しだった。
──これって新手の口説き文句なのかしら??
これまでも幾つも誘いをかわしてきたタラだが、「以前会ったことがありませんか?」という問い掛けならともかく、未来を予測しての宣言は珍しい。とは言え、もう三十路も半ばとなった自分に、興味を抱く若者などそうは居まい。タラは青年の言葉を受け流すことにした。
「それじゃ、ワタシは行くわネ」
「ショール、本当にありがとう。また明日!」
青年は手にした薄紫を大切そうに掲げ、笑顔で手を振り踵を返した。
──明日なんて誰にも分からないわヨー。
心の声で返事をしたタラは、鞄を手に取り逆方向へ歩き出す。先程示した水晶占いの店先を通り過ぎようとした時、占い師の老婆がそっと声を掛けた。
「お前さん、本当にあの若者と再会することになるよ」
「え?」
もう今日何度目か知れない驚きの声を上げて振り向いた。けれど席には誰の姿もおらず、ただテーブルの上の水晶が陽に晒されて輝いていた──。




