[8]回想 〈Y&W〉
ゆらり、ゆらり、
揺れて、揺れる。
飛行船の穏やかで小刻みな振動が、何かを思い出させていた。
ううん、違う。この一日に沢山のことを思い出し過ぎて、あたしの脳はきっとパンクをした。
だから夢が全てを整理しようと、あたしの脳内をパタパタと動かしているのだ。まるで散らばったパズルを並べ直すかのように。
おじいちゃんは依頼された修理に出掛けていた。父さんは休業日で家庭菜園を耕していて、母さんは……洗濯でもしていたのかな。八歳のあたしは何をしていたのだろう? 二人から少し離れた所で独り遊んでいたのは確かだ。
麗らかな良い天気だった筈なのに、急に低く暗い雲が立ち込めて、冷たい風がシュウシュウと音を立てた。音と共に何かがやって来た。毛むくじゃらで黒くて大きな……黄色い眼と、鋭い爪と牙。
あっと言う間に父さんを、母さんを、引き倒して切り裂き砕いた。叫びすらも間に合わなかった数秒のオワリ。染められていく紅い視界。黒と赤と──黄色い眼。
あの赤が血の海だと気付くのに、八歳という年齢はもう十分な成長だった。そしてこれから自分にも訪れる、抗いようのない死への恐怖も。
コワイ、こわい、でも動けない。
それでも何とか瞼は閉じた。暗闇の中で聞こえたのはおぞましい呻き。それが長く連なって、やがて消え去った後に、あたしの瞼は押し上げられることを切望した。暗黒と沈黙から逃れたかったから。たとえそうすることが『死』に導かれることであったとしても──。
「もう大丈夫だよ、お嬢さん」
けれど開かれた先にあったのは、しなやかで力強い『生』だった。
「あ……」
目の前にあったのは血に濡れた両親の遺骸などではなく、血の通った生きている人。
漆黒の流れるような長い髪は、化け物の黒い塊とは明らかに違っていた。
優しい薄紫色の宝石のような瞳。温かな微笑みがあたしを包み込んで、そして本当に包まれたのだ。二度と見てはならない物を全て隠すように抱き留めて、あたしを安全な所へ隠してくれた。
「そう……おじいさんが居るんだね? それまで此処に隠れていられる? 私があの化け物を退治したから、もう危険はないけれど。でも君にはあの庭を見せたくないんだ。だからおじいさんが帰ってくるまで此処にいて。お嬢さんの名前は何て言うの?」
あたしは掠れた小さな声で、何とか答えていた。「ユスリハ。ユスリハ=ミュールレイン」だって。
「ユスリハ……良い名前だ。でも親愛の印として……そうだな、ユーシィって呼んでいい? 君は気丈で聡明なお嬢さんだね」
大きくてスラりとした指と手が、あたしの小さな頬に触れた。まだ八歳のあたしでも、彼が美しいことは感じ取れて、刹那触れられた肌は上気して火照っていた。
「ユーシィ、いつか西へおいで……君の楽園を見せてあげるから」
繊細な指先が離れながら立ち上がり、彼は去っていってしまった。あたしを隠す物置の扉の向こう側へ。あの暗い雲は何処かに消えてしまったように、扉の向こうは眩しくて。その後ろ姿を神々しく、溢れる光が彼を象っていた。長身と広い背と長い黒髪。それが『あの人』──あたしのウエストの全て──。
夕暮れ、少し寒くなった頃にやっと帰ってきた祖父は、血眼になってあたしを探してくれた。眠りかけていた物置の中で、急に抱き締められて驚いたっけ。
あの化け物は何だったのだろう。祖父が戻った時にはもう居なかった。黒い屍骸すらも跡形もなく。
おじいちゃんに抱かれて、ようやく泣けたんだ。
あれからあたしの幸せな日々は三分の二が凍りついた。父さんと母さんとおじいちゃんで占められていたあたしの幸せ。その三分の二が。
それでも時々それは半分に戻る。ウエストのあの綺麗な瞳を思い出す時。あたしを慈しむように、向けられた潤んだ色、揺れる眼、震える睫。
なのに──。
どうしてあの眼は揺るがないのだろう?
ラヴェルの右の、漆黒の瞳は──。