[β]Zupai & Ravel
◆ラヴェル十八歳、王位を継承し二ヶ月が過ぎた頃、二十九歳のツパイとの初対面◆
王宮の東南、午前の清々しい陽光が窓辺から差し込む明るい一室。仰々しく頭を下げたツパイは、従者に指示された通り、広大な部屋を独り奥へと進んだ。南側には全面がガラス張りにされた温室のようなスペースがあり、その角には咲き乱れる花々に、水を灌ぐ『王』の背中があった。
「お初にお目に掛かります。ユングフラウと申します」
彼女が現れたことに気が付かないのか、なかなか振り返らない王に跪き、ツパイは静かに声を掛けた。その瞳は青みを帯びた黒髪に隠されていたが、敬意を表する為に頭を垂れたまま、王の応えと視線を合わせる許しを待った。
やがて全ての花を潤した王は、ゆっくりと振り向いた。ツパイの目の前まで音もなく進み、革の靴先が彼女の視界に入る。
「ツパイ=ヴェル=ユングフラウ。思った通り……いや、思った以上にバカ丁寧だね。いつでも顔を上げてくれて良かったのに」
少し嬉しそうで楽しそうな含みを持たせた台詞は、とても柔らかで優しかった。
ツパイ自身は「バカ」を付けられるほど丁寧だとは思いも寄らなかったが、自分を気に入らなかった訳ではないことに安堵し、その身を立てて王を見上げた。
歴代の王達と変わらずラヴェンダー色の髪を持ち、右眼に黒い瞳を宿した人懐こそうな姿。先代王が早世でない限り、これほど若い王が誕生することは珍しい故、まだその面差しは『王』というよりも『王子』といった雰囲気だ。
「この度はわたくしめなどをお召し上げくださいまして、誠に感謝を申し上げます」
ツパイは再び深々と礼を捧げた。彼女の自宅に伝令がやって来たのは四日前のことだ。どうして王が彼女を選んだのか、彼女にどんな仕事を与えようとしているのかは、面会の際に明かすと告げられた。お陰で此処までずっと胸を巡る困惑は止まらず、そして今が一番のピークであるに違いない。
「んー、僕は君を雇うつもりじゃないんだけどね。ああ、無償だって言っている訳じゃない。もちろんその都度報酬は支払うけれど……君は僕の家臣になる訳じゃない」
「それは一体どういう……?」
再び姿勢を戻しながら、言葉は途中で掻き消えてしまった。相対する王は満面の笑顔で、その向こうの景色は美しい花々が雫に濡れ、光を吸い込み、王に力を注いでいるかのように神々しく思えたからだ。
「まぁ、お茶でも飲みながら話そうよ。美味しいパンケーキでも焼くからさ」
「パン……ケーキ?」
手にした霧吹きを棚に戻し、王は目配せをしてツパイの前を通り過ぎた。その歩みに引っ張られたように、気付けば彼女もスラリとした背に続いていた。
◆ ◆ ◆
それからしばらくツパイを東のバルコニーで待たせ、王は単身西壁にある小さな扉に消えていった。
隣室に待たせている侍女にでも、調理の依頼をしているのかと思いきや、十五分経っても帰ってくる気配はない。何か良からぬ事態でも起きたのではと不安が募り、思い立って腰を上げた時、自身でトレイを運ぶ王の姿が現れた。
「あれ? ごめん、待ちくたびれちゃった?」
「い、いえ! とんでもございません。ですが王自らお運びになられるとは……どうぞ、わたくしが致しますのでっ」
ツパイは慌てて駆け寄り手を差し伸べた。が、
「自分で作った物くらい自分で運ぶよ。大体君はお客様なのだし。それにその小さい身体で運ばれたら、むしろ心配で見ていられない」
「あ……」
王は掲げられた手から逃げるようトレイを持ち上げ、意気揚々とバルコニーに向かってしまった。
唖然として立ち尽くしたツパイは刹那我に返り、自分も静々と席に戻った。確かに王よりずっと年上でありながら、肉体は時を止め、未だ十歳にも満たない容姿なのだ。けれどまさか王たる者が「自分で作った物」を振る舞われるとは──。
「我ながら結構良い出来だとは思うのだけど。……さ、遠慮なく召し上がれ?」
「は、はい。戴きます」
目の前に供された彩りの美しいデザートからは、焼き立ての小麦と甘い果実の良い匂いがした。
思えば王家の血を持ちながら、義眼師の家庭で育つという異色の経歴を持つ王であるのだから、この気さくな雰囲気も不思議なことでもないかも知れない。だがあくまでもマイペースを貫くその調子に、ツパイは少々戸惑っていた。特に王の周辺で起きた鮮烈な過去を辿るものなら、もっと屈折した性格に成長していても、いや、そう成長してしまった方がきっと自然であるに違いない。
「とても美味しゅうございます」
「君の口にも合って良かった」
ツパイは上手く空気の入った歯触りの良い生地と、ちょうど良く酸味の効いたベリーの瑞々しさに感嘆し、王はそれを満足そうに認めて、やっと自身も口を付けた。
「あの……失礼ですが、こちらのお部屋は……?」
それからフォークを二・三口進め、スッキリとした紅茶で一息を入れた頃、ツパイは恐る恐る王に問い掛けた。彼女が北の入り口から南の温室まで進んだ間も、東のこの開かれた空間へ移るまでも、見受けられた壁紙も調度も、全て女性らしい華やかな装飾が施されていたからだ。そしてこのバルコニーでさえも……可憐な蔓薔薇が欄干を伝い、今腰掛けている椅子もテーブルも、正直少女趣味としか言いようがない。
「ああ、さすがに僕の部屋じゃないよ。母がデリテリートに嫁ぐまで過ごした部屋。兄である先代王が母の為に残してくれたらしくてね、特に午前は明るくて気持ちが良いから、勝手に僕が使っているだけ。母は料理が好きだったから、隣に調理室も持っていて、僕にも色々と都合が良いものだから」
「はぁ……」
料理好きとはまた珍しい趣味の王だが、先代王の妹君であられた母親の育った部屋ならば、感慨深いものもあるのだろう。そうでなくとも王の母は──
「長らくお心を患われていらっしゃるとお聞きしておりますが、容態は快方に向かわれているのでしょうか?」
七年前の「あの事件」以降、心身を崩されたという噂は、国民にとっても周知の事実であった。
「いや、ずっと一進一退ってところかな。僕がこっちに来てしまったから、今は父が仕事を減らして看てくれているけれど……王って言うのも意外に執務が多くて、なかなか会いに行けないのが玉に瑕だね」
そう言って若い王は苦笑いをしたが、途端淡い微笑みに落ち着いて、同情を浮かべたツパイの口元に目を向けた。
「やっぱり、君で良いみたいだね」
「わたくしで……?」
「うん」と一つ朗らかに頷いた王は、ややあって手にしたフォークを皿に戻した。
「君には四日に一度、此処に赴いて僕の話し相手になってもらいたい。ただ君にとっては貴重な時間であるだろうし、僕もそんなに暇じゃないからほんの小一時間で構わない。王宮まで来るのが面倒なら、部屋を用意するから住んでくれても良いよ。王家の設備も自由に使ったら良い。君への報酬は一度の面会につき金貨五枚。悪くはない話だと思うけど……どうかな?」
王は両肘をテーブルに突き、絡めた指の上からツパイの見えない瞳を探った。
対するツパイ自身にも断る理由は見つからなかった。とりわけ王家の設備──図書室の書籍や文献を読み漁れるのは魅力的な条件だ。が、ただ語らうだけに金貨を頂くのは腑に落ちなかった。それも五枚も……それ程の報酬を頂く『仕事』であるとは、否、それ自体が『仕事』としてなされることには抵抗があった。
「喜んでお受けしたいお話ではありますが、お茶のお相手ごときに謝礼を頂く訳には参りません。もしラウル様が宜しければ、住み込みにて図書室の種別管理などを仰せつけください。さすればわたくしがこの部屋に出入りすることも、誰からも怪しまれず咎められることもなく、貴方様が家臣の信用を失うこともないと思われます」
「……なるほど」
王は感心したように目を見開いた。組んだ指をほどいて頬を包み、じっとツパイの鼻先を見詰める。四日に一度たった小一時間でも、恋人でも家臣でもない者が王の許へ足しげく通っているとなれば、城で働く者としては余り気持ちの良いことではないだろう。が、それなりの仕事を与えられていれば──ある程度の融通は効く筈だ。
「了解、それで頼むよ。ただお願いが幾つかある」
「お願い、ですか?」
王は再び微笑を宿し、スッと背筋を伸ばした。
「まずはその「ラウル様」はナシ。君は王宮で働いても、飽くまでも僕の家臣じゃない。『様』は要らない。それから悪いけどラウルでなくて、「ラヴェル」って呼んでくれる?」
「ラヴェル、ですか?」
「そう」
ニッコリと笑った王は、まるで子供のように喜びを瞳に乗せた。
「あともう一つは……気を悪くしないでほしいのだけど、僕は君の過去を調べた。で……多分その内僕は動き出すことになる。国民の為と──君の為に。ああ、気にしないで、もちろんそれは自分の為でもあるから。で、その時、君に背中を押してもらいたいんだ。それから……悪いけど、そうなったら僕について来てくれる?」
「は、い……」
何とか返事をしてみたものの、ツパイには依然理解が足りなかった。自分の過去を知って動き出すとはどういう意味なのか? 王は何を行なう為に、自分の後押しと同行が必要なのか──?
「君は……君も、今でも縛り付けられているのでしょ?」
「え……?」
王の細い左腕が伸び、ツパイの前髪をいきなり一束摘まんで上げてしまった。誰にも見せたことのない右眼が、王の切なそうな表情を直接捉えた。
「あっ……」
刹那慌てて瞳を伏せたが、その手を振り払うような所業も出来ず固まってしまう。
「三日間眠り続けることも、前髪で顔を隠すことも……やめないのはそういうことでしょ? ただ正直すぐに君を救えるとは、僕も思ってはいない。僕自身も縛り付けられたままだから。でも、いつか……僕は君を救うよ」
「……何故……?」
発した小さな声が引き金となり、王は彼女の髪を解放した。
「僕達は『似た者同士』みたいだから」
クスりと一つ笑った王は、おもむろに自分の左瞼から、『ラヴェンダー・ジュエル』を取り出し掌に乗せた。
「此処に、この『ラヴェンダー・ジュエル』に、我は誓う。ツパイ=ヴェル=ユングフラウ、汝の柵をいつの日か断ち切り、その身を自由にしてみせんと」
凛としたその宣言に、ジュエルは一瞬輝きを帯びた。薄紫の柔らかな光が二人を包み、やがて再び元の義眼となった。
「……ありがとうございます、『ラヴェル』」
王は手を翳しジュエルを瞼に戻した。途端投げ掛けられたお礼の言葉に、数秒キョトンとしてみせたが、すぐにその顔は満たされた笑みを刻んだ。
「さすが、呑み込みが早いね、『ツパ』」
「ツ、ツパ、ですか……?」
嬉しそうなラヴェルの首がコクンと大きく頷く。そしてその時、ツパイは少しだけ分かった気がした。
「やっぱり君で良いみたいだね」──ツパイがラヴェルのお眼鏡に叶った理由、それは──
──『自分』を受け入れてくれたから、だ。
自分の話に耳を傾け、その家族に言及し、我が身のことのように案じ、自分の希望に道筋を与えてくれた。
そんな当たり前のやり取りが、デリテリートでもアイフェンマイアでも殆どなされなかった特殊な日常に、光明を差し込むことが出来たのかも知れない、と。
「今日はちょっとだけ時間があるんだ。ツパ、紅茶のお代わりはどう?」
「それではお言葉に甘えさせていただきます。ですがラヴェル、今度は『僕』がお注ぎしますよ」
ツパイの敬語は変わらなかったが、もはやラヴェルを王とは扱わなかった。
この時をもって、彼女は彼の『友』となり、且つ『同志』となる。
けれどツパイがラヴェルの背を押し出す前に、再び凄惨な事件は起きてしまった。
そして──
柵から逃れられない縛り付けられた日々を、彼女は『今』も過ごしている──。
◆この文末の『今』がいつであるのかは、続編にて語られる予定です。
◇相変わらず瞳を見せないツパイも再び◇




