[73]吐露
「うっ……」
あたしは小さく呻き声を上げて、霞む視界に目を凝らした。次第に鮮明になる色は美しく淡い碧。ああ、見えるのは空、だ……漂う小さな花々の匂いが、仰向けに倒れていることを気付かせてくれた。
「魔法で眠らせたのは、失敗だったか……自分が弱まるにつれ、解けてしまうことまで考えなかった……」
「え?」
左隣から聞こえる嗄れた声に、疑問を投げ掛け首を反らせる。あたしの鼻先には同じように、大地を背にしたラヴェルの横顔があった。
「な、何!? ねっ、何をしたの!?」
「……」
途端半身を起こして寄ったあたしの影に、ラヴェルは瞳だけは向けたけれど、何も言葉にしようとはしなかった。
「答えて! あなた一体何をしたのよっ!!」
詰め寄り、服のサイドを掴んで催促しても、ラヴェルは身じろぎもせず、いつもの柔らかい微笑を湛えるだけだ。でも──
何かがおかしい……ラヴェルの身体が……ラヴェルが、消えてしまいそうな……嫌な予感が辺りを取り巻いている──。
「あなたの……『なかったこと』にするって、こういうことなの……?」
あたしは彼の隣にしゃがみ込んで、両脇の布を握ったまま、ラヴェルの顔の真上から問い掛けた。
「全ては……このジュエルが根源だからね……。これさえなければ……全ては『なかったこと』になる……」
やっと応えた彼の声はとても苦しそうだった。
「な、に……言っているのよ? もう『なかったこと』になんかする必要ないじゃない!!」
そうよ……なのにどうして今更──?
「もちろん……亡くなった人達は還らない……でも、ジュエルが消えれば、テイルの息子も……ミルモと君の両親も……スティとザイーダに殺されたっていう、辛過ぎる記憶はなくなるよ」
「そんなの……! どうだっていいことだわっ、あたしもミルモもそれをちゃんと受け入れたじゃない! 受け留めて、それで一つ山を飛び越した……悲しみは時に人を強くするのよ? それはあなただって分かってるでしょ? 分かってあたしにミルモを任せてくれたんでしょ!? やめて……お願いだから、こんなの早く止めて!!」
「ユーシィ……」
あたしはラヴェルの両肩に手を置き揺さぶった。目の前に居るのに、触れているのに、ラヴェルが居なくなろうとしている気がする。
ラヴェルは一度にっこり瞳を細めて、震える右手をあたしの頬まで伸ばした。どうして? 何故いつもそんなに儚い笑顔を見せるの?
「初めに約束したね? あのキスも『なかったこと』にするって……ごめん、あの時自分はジュエルに願ったんだ……ユーシィが自分のことを好きにならないようにって。そんな願いの為のキスが、君にとってのファースト・キスなんて……嫌でしょ?」
「んなっ──!」
嘘、でしょ……? そんなこと、絶対、嘘、だ。だって、あたしは──!!
「だったら……こ、こうなる日を見越して、そんな魔法を掛けたって言うの!? なのに記憶から消えちゃうならって、あんなにあたしを抱き締めたの!? キスを迫ったの?? 恋してるって言ったのは何だったのよ!!」
「……嫌いな男から、しつこくされたら……もっと嫌いになると思ったから……」
「ええっ!?」
やっぱりこいつは朴念仁だ! あたしは触れられる度、あなたを意識していったのに……もっと……触れたいと思ったのに──!!
「あ~あっ、やっぱりラウルは可愛い弟ちゃんだったかー! 幾ら人との付き合いが薄かった人生でも、もう少し女心が分かると思ってたのにネ~エ? ユスリハちゃん?」
「タラ?」
その時ラヴェルの先の遠くから、呆れた声と起き上がる細い影が揺らいだ。立ち上がり近付き、ラヴェルを挟んで、あたしの向かい側にそっと寄り添う。
「まったく……気絶させられるなんてワタシも油断したわ。そんな本心のカケラもない願いなんて、ジュエルだって却下するに決まってるじゃな~い! 魔法が掛かっていないこと、ユスリハちゃんを見ていて分からなかったの?」
「タラ……?」
ラヴェルが不思議そうにタラの名を呼んだ。どうして……こんなことするの? ジュエルを消さなければならないの? 消す為にあなたが苦しまなければならないのよ!?
「あっ──?」
両肩に置いていた掌で、咄嗟に彼の両頬を包み込んだ。無理矢理あたしへ向けさせられて、驚きの声を上げたラヴェルの瞳は、まだタラの告げた言葉の意味も、あたしの真剣な眼差しも理解出来ていなそうに思えた。
「──ラヴェル」
「……ユーシィ……?」
本当は笑顔で名前を呼びたかったのに。きっと……とても怖い顔をしている。
ずっと知っていたんだ。気付いていた。名前を呼べなかったのは、喜んで弓なりになる、この眼に吸い込まれそうだったからだ……あなたを好きになってしまうのが怖かった。
「あたしは……あなたのことが……大好きよ。ラヴェルのことが……好きなの! だから……早く元に戻して!!」
言っちゃった……顔が熱い。その熱があたしの手を伝って、ラヴェルの頬を温かく染めた。
「ありがとう……ユーシィ」
一度離れていた彼の手が、再びあたしの頬へ戻ってきた。とても嬉しそうなラヴェルの顔。なのに──
「でも、ごめんね……もうこれは止められない」
そうしてまるで脱力するかのように、ラヴェルの腕が草の上に落ちた。
「タ、タラ!!」
「うーん……ゴメン。ワタシもこんなこと初めてで……ラウル、ウソついてるなら白状なさい? 自分でジュエルに願ったことが止められないなんてことないでショ?」
常に自信に満ちたタラの表情にも焦りの翳が帯びていた。どうしよう……このままじゃ……本当にラヴェルが消えてしまう。
「ラヴェル! ラヴェル!! どうして『なかったこと』にしようとしてるの!? お願い、教えて! 理由が分かれば、何か手立てが……やっとジュエルが自由になったのよ! あなただって自由になればいい!! あたしを……もう独りにしないでっ!!」
涙混じりの大声に、ラヴェルはまた嬉しそうな笑みを見せた。嫌だ……もう、離れたくないって思ったのに……どうして消えようとしてるのよ──。
「ジュエルが在る限り、自分は自由になれない……それにユーシィは……独りじゃないよ……タラやツパが協力してくれる……君には沢山の友達も居るし……自分なんか要らない筈だ……」
「バカなこと言わないで! あたしにはラヴェルが必要なの!! あなたが居なくてどうやって恋をしろって言うのよ!?」
「君の気持ちが分からなかった自分なんて……きっとこれから、君にはもっといい男が現れるよ……」
「バ、バカ──!!」
あたしは思わず彼の襟元に掴みかかっていた。横にはお手上げといった様子の、困った顔で溜息をつくタラ。誰か、お願い……彼を止めて──!
「……やはり、僕の予感が当たってしまいましたか」
瞬間、背後から聞こえた声に、タラとあたしは顔を向けていた。おそらく急いで駆けてきたのだろう。大きく肩を上下させ息を弾ませる、鼻先まで髪の流れるその姿は──。
「ツ、パ……」
そう名を呼んだラヴェルの面もまた、困ったように溜息をついていた──。




