[72]帰巣
昏倒したかのように横たわったウェスティの唇が、ほんの少しだけ動いた気がした。片足を引き摺った創痍のタラが、そこから零れる言葉を聞き出そうとたどたどしく近付いた。
ウェスティのザイーダを想像させる黄色い眼は、もう存在していなかった。以前のようなジュエルと同じ薄紫の色。衣服のあらゆる部分が紅く濡れていて、息遣いは荒く、紐のほどけた長い黒髪が青い草の上に広がった。
彼はどうしてあたしの飛び込んだ背中に剣を突き刺さず、ピータンやアイガーの不意打ちにも気付かなかったのだろう? きっと彼なら対処出来た筈なのに。見通せた筈なのに。
ジュエルが邪魔をしたのだろうか? それとも……ウェスティ自身が望んだ? 本当は彼もこんなバカげたこと、もうやめたかったのかも知れない。もう……訊ねることも難しいように思えるけれど。
「……ティーナ……」
目の前にしゃがみ込んだタラに、ウェスティの命消えかかる瞳は、何とか焦点を合わせたようだった。そして現れた懐かしい呼び名。ティーナ──けれどタラは何も答えなかった。諦めたように瞳を逸らしたウェスティは、自分を嘲けるような嗤いの空気を吐き出し……やがて事切れた。
「バカ……」
タラもまたそんな色を含んだ言葉を呟き、大きく一つ肩を波立たせた。ウェスティの瞼を優しく閉じ、その右手が行く当てを失ったみたいに宙に留まる。彼女の背後に立つあたし達には見えなかったけれど、タラは幽かに泣いている気がした。
「死んでもワタシを引き止めようとするなんて。まったく……やっぱりアナタは愚かヨ、スティ」
揺らぐ声には愛情が見え隠れした。最後に呼んだ『スティ』という呼び掛けも、半生を共にした彼への哀悼の言葉だったのかも知れない。
「さぁて! ラウル、ジュエルがお待ちかねヨ」
「ああ……」
気を取り直すようにタラが元気な声を上げた。ずっとしがみつかれたままのラヴェルが決まりの悪そうに頷いて、あたしは慌ててその腕を放した。
ラヴェルはソードを地面に突き刺し、タラの隣へ腰を降ろした。ウェスティの右眼からジュエルをそっと抉り出す。その瞬間喜びを伝えるように、ジュエルが鮮やかな光を放った。涙と血に汚れた表面が、磨かれたような美しさを取り戻し、ラヴェルは自分の義眼を外して、ジュエルを左眼に差し込んだ。
その瞬間、今までに決して見せたことのない荘厳な輝きが辺りを包み込んだ! 光から柔らかく漂う……ラヴェンダーの薫り。
「ラウル……」
隣に座すタラの横顔が、ラヴェルの姿を目にしながら呟く。何処か畏敬の念を含んだような、少し掠れた声だった。
「これを当てにしてたんだろうけど……タラも無茶するね」
そうして涼しげなラヴェルの横顔はクスりと笑い、懐から以前ツパイが手渡した小袋を取り出した──ミルモの為に残しておいた癒しの薬粉──ラヴェルはタラの傍に落ちていた短剣で軽く指の腹を傷付け、其処から滴る血液とそれを合わせて、タラの爛れたようなフランベルジェの傷口に優しく塗り付けた。
「さすがジュエルの力は違うわネー、もう痛みがなくなった!」
「傷もその内消えるよ。あとは大丈夫?」
その問いに「エエ」と頷くタラ。元の位置に戻ったこちら側の頬が、ふとラヴェルの右手で包み込まれた。
「アラ……なぁに? もしかして前にお願いした『お礼のキス』でもホッペにくれるの?」
「そうだよ。今までありがとう、タラ」
「どういたしまして」
ラヴェルの鼻先がタラの向こう側の頬に近付いていった。重なる二人のシルエットがやけに美しく感じられて、あたしは瞬間顔を逸らしていた。違う……きっと、あたしはタラに妬いたんだ。
数秒経った頃だろうか? 背けたことで二人の許へ向けられた右耳に、何かが倒れたような葉擦れの音が草地から響いてきた。
「タラ……?」
ウェスティの遺骸に並ぶようタラは横たわりピクりともしない。その横で悠然と立ち上がったラヴェルの背中は、いつになく凛としていた。風が巻き起こる。黒いマントがたなびき、その上のラヴェンダー色の髪から毛先の黒みが、風に攫われるように消えていった。
「タラに……何をしたの?」
あたしは不思議と恐怖を感じ、発した疑問は震えていた。足先が遠ざかろうと、つい後ずさりをした。
「大丈夫だよ……ちょっと眠ってもらっただけ」
振り向いたラヴェルの面差しは、今までの彼とは全く違っていた。力強い瞳から発せられるみなぎるエネルギー、弓なりに上がる口角には自信が満ち溢れ、これこそがジュエルの力を得た本来の宿主の姿なのだろうか?
「約束したね……ご褒美の、頬にキス」
真っ直ぐあたしへ歩みを進める颯爽とした足取りと言葉に、あたしは一瞬ギクりとした。何……これ? 凄く、嫌だ……キスなんて、しないでほしい──!
その時あたしは思い出した。ツパイが最後に言った言葉。
『ラヴェルから目を離さないでください。少し……気になることがあるのです』
これがツパイの気になることなの!?
「あ、あの……約束したけど……それは後のお楽しみってことで~」
あたしはおずおずと、次第に足早に──ラヴェルに身体を向けたまま、遠く離れようと下がり続けた。でもどうやったって、普通に前進するラヴェルの方が速いに決まっている。結局追いつかれて、彼の長く細い腕が腰に絡みついた。
「えと、あのっ、や、やっぱり後にして──」
「ごめん、もうこれ以上時間は取りたくないんだ。最後のお願いだから──」
──最後!?
うなじが逆側の掌で抑え込まれる。ラヴェルの唇があたしの右頬に近付いてきて──
「ラ……ヴェ……?」
触れた途端、其処からラヴェンダーの強い香気が現れ、まるであたしの鼻腔から脳に到達し麻痺させたようだった。意識が……遠のく──
「ユーシィ、今まで本当にありがとう。……『なかったこと』にする、時間の始まりだよ──」
哀しそうで嬉しそうなラヴェルの眼差しを、重い瞼が隠していく。
ああ……ずっと言われていなかったから、そんなこと、すっかり忘れていた……。
『なかったこと』
ラヴェル……一体、何をしようというの──!?




