[62]記憶 *
横になったベッドの上から、ぼんやりと天井を眺める。視界の端から茜色が見えた。もう……夕方か。食事の支度をしなくちゃ。
あれからあたしはとぼとぼと、アイガーと共に東へ進んだ。門を抜けて海岸沿いを歩く。相変わらずの強い太陽に照らされて、波間は宝石を散りばめたように輝いていた。
頭の中ではぐるぐると、ミルモとのやり取りが駆け巡っていた。どうしたら彼女は心を開いてくれるだろうか? どうしたら真相を話せるだろうか? ラヴェンダー畑には……どうしたら一緒に行くことが出来る?
そうしている内に、島へと架けられた橋のたもとに辿り着いた。その先を見やれば、意外に近い丘のような小島。北面であるこちら側の斜面に、うっすらと淡い紫の一角が見える。きっとラヴェンダー畑だ。こんなに暑い夏の最中、涼しい島影だからこそ咲いていられるのだろう。
どうしようかな……。
一向に橋へと踏み出さないあたしの足元で、アイガーが「行こうよ」と促すように見上げていた。
「ねぇ、アイガー。今一人で行って、あたしに何が分かる?」
クゥ~ンと一声、困った声が返ってきた。
「ごめん。そんなこと考えても仕方ないよね。島の入口まで、ちょっと行ってみようか?」
その言葉で先頭を切った振られる尻尾に誘われ、あたしは真っ直ぐな美しい橋を海風になびかれながら渡り始めた。
海水の冷たさを含んだ気持ち良い潮の匂い、欄干の隙間から底まで見通せそうな透明な水面が見える。時々小さな魚の群れが掠めていった。綺麗な濃い碧色の背びれ。
「此処を登っていくのかな?」
ついに渡りきった先に人幅分の小道があった。眼で辿った方角にピタリとラヴェンダー色が映る。明日、ミルモと此処へ来たい。一緒にあの爽やかな香りに包まれたら、心穏やかに話せないだろうか?
「お嬢ちゃん、観光客かい?」
そんな想いに耽り突っ立っているあたしに、目の前から声が掛けられた。背の低い気の良さそうな笑顔のおじさん。大きな籠を背負って、その中には……ラヴェンダーの花束が沢山積まれていた。
「あ、いえ。旅をしてはいるのですが、用がありましてこの街に」
それでも明らかに視線はおじさんの背中に向かっていて、やっぱりお上りさんに見えたに違いない。
「ラヴェンダー、お好きなのかい?」
その興味津々な瞳に気付き、おじさんは「よっこらしょ」と一声、あたしの前に籠を降ろし中身を見せてくれた。
「わぁ~これだけ集まるとさすがに薫り高いですね! 母が昔これで香水を作っていたんです。すっかり忘れていたけど……思い出しました!」
そうだ……確かにこの鼻をくすぐる芳香、母さんは香水を作りながら、部屋中に焚き込めて、あたしをこの色と香りで包み込んだ!!
「ラヴェンダーに良い想い出がありそうだね」
ふふふと笑い、見上げる優しい眼差し。ハッとしたあたしは声にならないまま口を開けていた。そうよ……良い想い出。『ずっと優しいママ』だったお義母さんとの間に、ミルモにだって良い想い出がある筈!
「あの……おじさん。あのラヴェンダー畑はおじさんの物ですか?」
地面に置いた籠はそのままに、しゃがみ込んだ身体を持ち上げ、おじさんはあたしの指差す方向へ顔を向けた。
「ああ、そうだよ。綺麗だろう?」
「は、はい! あの……明日、そのラヴェンダーを少し分けていただけませんか? お代はちゃんとお支払しますから……このくらいの時間にいらっしゃいますか?」
明日──何とかミルモを説き伏せて来てみよう。やっぱり、此処でこの香りに包まれて心穏やかに話をしたら、ミルモも良い想い出を取り戻すかも知れない。あたしの話す真実にも耳を傾けてくれるかも知れない。
「もう季節も終わるからね……この籠みたいに房が完全な物は少ないけれど、多少見てくれの悪い物なら幾らでもタダで譲ってあげるよ。またこの時間に畑へおいでなさい」
「本当ですかっ!?」
有難い申し出に満面の笑顔を返すや、おじさんもそれを受け取ったみたいに、益々皺の寄った目尻を細めてくれた。
「ありがとうございます!!」
あたしは元気にお礼を言い、必ず来ますと約束して戻り……部屋で休んで小一時間、昨日のように今に到る訳で……。
でも、本当に上手く行くのだろうか?
あんなに意欲満々だった心の滾りは、帰宅した途端に萎んでいた。
「とにかくやってみるしかないっての!」
勢い良くベッドから飛び起き、首を左右に振った。気持ちを切り替えなくちゃ! 瞳に力を込めてリビングの扉を颯爽と開き……あれ? 今日はタラが作ってくれるの? キッチンには可愛いフリルのエプロンをした、スラリと高い背中が見えた。
「あらん~ユスリハちゃん、おはよ?」
いえ……横にはなってましたが、眠ってはいませんから。
「夕食当番に指名されちゃったんですか??」
バーカウンターのような高い椅子に着き、あたしは頬杖を突いて好奇心を寄せた。
「ヤ~ネ~、ワタシだってたまにはやるのヨー、ユスリハちゃんのように花嫁修業しておかないと腕が鈍るしネ」
「誰が花嫁修業ですか……」
相変わらずのツッコミに心がくすぐられた気がした。
「ユーシィ、寝グセついてるよ」
結い上げた髪がふと後ろから撫でられた──ラヴェル、居たんだ。
「明日、一緒に行こうか? ミルモの所に」
「え?」
続けて訊かれた言葉に驚いて、隣に立った姿を見上げる。
「だ、大丈夫! それにその変な髪色見たら、ミルモ驚いちゃうからっ」
慌てたあたしはつい語気を強めて拒絶していた。心配してくれてるのに……余計なお世話だと言わんばかりの噛みつきようだ。
「変な髪色……??」
前髪を一束指で摘まんだ寄り目のラヴェル。あたしはその拗ねたような表情に、ついプッと吹き出していた。
「ラウル、心配は無用みたいヨ? ユスリハちゃん、ちゃんと笑う余裕があるから」
「あ……」
やっぱり。タラも心配してくれていた。
「明日にはツパも起きる。きっと良い知恵を貸してくれるから、あんまり思い詰めないようにね」
「うん……ありがと」
あたしは二人へ素直にお礼を言えていた。
ミルモが心開けば、戦闘が始まる。あたしは常にそのことを懸念していた。同時にタラもラヴェルも自分の使命に向けて前進しながら、あたしのことを気遣ってくれている。
きっと……仲間だから。家族だから。
「タラ~今夜のメニューはなぁに?」
あたしはニッコリ笑って問い掛けた。明日の英気をこの楽しい時間から得る為に──。




