[60]佳日
キスって、キスって……あの初めて逢った時のように!?
驚きの口元は開かれているのに何も発しなかった。ううん、発せなかったんだ。だって……ラヴェルはあたしに恋してるって言ったけれど、あたしは未だ何も彼に返せていない。答えられていない。そんな今……口づけを承諾出来る筈もなかった。
「……頬に、でいいから。やり遂げたご褒美に」
その追加で、止まった時が動き出した。そ、そうだよね……それなら──。
「そっ、それくらいなら……構わないけど……」
彼の掌から逃れるように、もう一度俯いて何とか答えた。……ん? でもご褒美なら、あたしがラヴェルの頬にしてあげるんじゃないの? それじゃあ褒美をもらうのはあたしにならないのかな??
「ありがとう。これから夕食までまた訓練を頑張るよ。ユーシィはもう少し休んでて」
「う、うん……」
改めて背を向けようとしたラヴェルの右眼が、今度はあたしの部屋の何かを捉えたらしい。去っていく筈の横顔が、フッと笑みを湛えて立ち止まった。
「買ってきたの? 髪染め」
ああ……その話か。ピンク色の小さな紙箱が、買い物袋から覗いていた。
「うん。でも今はやらないって決めたの。あたしも全てが終わった時のご褒美にね」
「そう……あの髪色が見られないのは残念だけど。先に嬉しいことが待っていると思えば、お互い励みになるね」
励み──それってあたしの頬にキスすることを言ってるの??
あたしはとうとう三度目の俯きで、上気した顔を戻せなくなってしまった。そんな小さなことが、彼の励みになると言うのだろうか? 彼は……。
ラヴェルは……そう言いながら、それ以上のことは望んでいないような気がした。以前『スティ』に告げた『触れる資格がないから』? いや……それとも──
──あの髪色が見られないのは残念だけど。
まさかそれ……永遠に、って意味ではないわよね? ウェスティとの闘いに、死を覚悟しての発言なんかじゃ、ないよね??
「あ……の」
「ん?」
赤らんだ頬は既に血の気が引いて青ざめていた。悲痛な面持ちを上げて、いつもの懐っこそうな笑顔に懇願する。
「し、死なないでよね……」
その時ラヴェルはこの上ない嬉しそうな顔をした。
「スティにはもう誰も絶対に殺させないよ。タラも、自分も」
「……うん。や、約束だよ」
満面の笑みは真摯で真剣な真顔に変わる。
「自分は二度と、ユーシィに嘘はつかないから」
その言葉に嘘はないように思えた。
「うん、じゃ、頑張って」
「ありがとう、ユーシィ」
ついに遠ざかる、ラヴェンダー色の髪。その背中はキリリとして、沢山の覚悟が詰まって見えた。そして感じる幾つもの消えていった命の重さ。それを背負ったラヴェルの後ろ姿は、力強くて、優しくて……手を伸ばせば未だ届く距離なのに、何かがあたしの邪魔をしている感じがした。
扉を閉めて机の前に立つ。
髪染めの箱と共に袋に入れられた、もう一つの品物を取り出し、あたしは息を呑んだ。
「使わずに済んだらいいのにな……」
『忘れ物』の入った引き出しにそれを移し、今度は大きく息を吐いた。
ミルモに一日も早く元気になってほしい。でも……ラヴェルが闘う日は遠ざかってほしい。
あたしの心の中で二つの望みが葛藤した。
それから夕食を作り終えるまでの時間、あたしは何度溜息をついたのだろう。それでも和やかで美味しい夕食と、まったりと流れる食後のひととき、明るい笑顔を絶やさなかった。
あたしもきっとやれるよね。
タラもラヴェルも、そしてあたしも……全てが終わったらみんなで笑おう。心の底から、一点の曇りもなく。
その時ちゃんと言えるといいな。
ラヴェルのことが大好きだって──彼の口づけが頬に触れた瞬間に──。




