[45]救出
「ピータン??」
拍子抜けした驚きを含む質問が横から聞こえた。あたしは咄嗟に顔を逸らせる。涙が触れたら気付かれてしまう。
「えっと~あー知りません? ずっと東の国の卵の加工食品……な、何だか急に食べたくなってぇ」
どう考えてもおかしいだろう。あたしも自分自身、まさかそんな言い訳が現れるとは思わなかった。それでも右肩の方から押し殺すような笑いが聞こえてきて、ひとまずホッと息をついた──が!
「まさかジュエルに欺かれるとはな……私も随分油断したものだ」
サッと上げられたウェスティの顔。その左眼は険しく細められていて、口の端は悔しそうに歪んでいた。いきなり顎の先が痛い程の力で抑えつけられる。両手首はあの夜のように、頭上で拘束されていた。
「あっ……ウェス──」
「もう言い訳は無用だ。君が私を愛せなくたって構わないのだよ。私は自分のように悪にまみれた子が欲しいのだから」
──!?
心の奥底から打ち震えるほど怖ろしいと感じていた。そうだ……あのザイーダという化け物の黄ばんだ色と同じ左眼──。
あたしの瞳は十年前の、あの恐怖から逃れるようには閉じられなかった。そんな身動きの取れない唇に、近付いてくる嘲笑うかのような口元。どうしよう……これでキスされたら操られ、花嫁の契約を交わしてしまう。
「ぐっ──何だっ!」
けれどそれを阻むように、ウェスティの顔面に何かが覆い被さった。何か──ピータン!?
「ふざけたことをっ……待て! ユーシィ!!」
彼がピータンと格闘している間に、出来た隙間から身体をすり抜かせ、あたしは立ち上がり天幕の方へ逃げた。ああ……バカだ……こっちは城への出入口とは真逆で行き止まりで、在るのはずっと真下の森だけなのに!
「私から逃げられるなんて思わない方が良い……これは運命なのだよ……さぁおいで、私の花嫁」
あたしは天幕を吊るす柱の向こうで振り返った。何もかもが袋小路だった。踵の後ろにはもう足場がない。口づけを受け入れたら──あたしに未来はない!
「お願い……助けて……」
「好い声で啼くじゃないか。助けだなんて……これも助けであるのに。どうして受け入れない?」
違う……こんなの望んでいない!!
あたしは柱にすがりつきながら、にじり寄るウェスティに怯え身をすくめた。もう……ダメなの? ちゃんと「ピータン」と叫んだのに、ラヴェルは来てくれないの!?
「おまたせ、ユーシィ」
ついに観念と瞼を伏せようとしたその時、頭の上から懐かしい声が聞こえた。慌てて空を仰げば、柱の真上に、マントをたなびかせるあいつが居た!!
「あ──」
「ウル? まさかこんなに早く現れるとはな」
天幕の真下に居るウェスティにはラヴェルの姿は見えていない。そっと隣に降りてきた彼は、あたしを強く抱き寄せ、淡い微笑を鋭い目つきに変えてウェスティを睨みつけた。
「彼女はあなたの花嫁じゃない、スティ」
「そうかな? ジュエルが彼女を選んだのだ。ジュエルの花嫁は──私の花嫁だよ」
歩み寄りながら発する彼の言葉は自信に満ちていた。おもむろに自分の髪に手を寄せ、数本を引き抜く。それにフッと息を吹き掛けたと思うや……それは……あの化け物に変わった!!
「ザイーダぁ……ウルを殺せ! ユーシィは生け捕りだ……もちろん傷つけるなよ」
聞こえたのは昨夜の低い掠れた声。聞こえてきたのは──ウェスティの唇。
「あっ、ああっ」
嫌だ……あの黒い毛むくじゃらも、あの黄色い眼も……!
コワイ、こわい──!!
「ごめん、ユーシィ。嫌な物を見せた……行くよ、自分にちゃんと掴まってて!」
「え……?」
腰に回されたラヴェルの腕が更にあたしを包み込んだ。ザイーダが襲いかかる寸前、あたしごと背後へ倒れ込んで、眼下の森へ……落ちる!? 気流は上昇して味方をしてくれるつもりはないらしく、重力に操られるしか他なかった。見えるのは抱き締めるラヴェルの首元だけ……このままじゃ枝にバウンドしても地面に叩きつけられて死ぬしかない。なのに後を追うように飛び降りてきたピータンが、あたしとラヴェルの間に滑り込み──。
「おまちどうサマ~! どぅお~スリリングな夜のフライトは!?」
急に落下が引き止められ、と共に降ってきた相変わらずの明るい声に、思わず瞳をパチクリさせた。自分の上を占めるラヴェルの真上には白い大きな何かがあって、そのまた上から聞こえたのは、そう……タラさんの声。
「ユーシィ、身体を反転させられる?」
「う、うん」
ラヴェルのお願いに宙に浮いた身体を百八十度、つまり彼に背を向ける方向へ回転させた。視界は下方向に森が見えるけれど、もはやそれは城内ではない。
「自分が支えるから心配しなくていい。目の前のバーを握って」
「うん……」
あたしは言われた通り、眼の上に映った水平の金属棒に手を伸ばした。これ、タラさんが乗ってきたグライダーの操縦席下だ。飛び降りたあたし達は木々に触れる手前で、グライダーに救われたのだと察した。
ラヴェルの右手はそのバーの端を掴み、左手は胸の下であたしを支えていた。少しだけ顔を傾げ、ラヴェルの表情を探る。それに気付かないのか敢えて流しているのか、真っ直ぐ前を捉える彼の視線はこちらに向けられることはなかった。
黒いマントに包み込まれた、風になびく白いドレス。
嘘であれば良かったこと全ては……全て真実だった。
あたしのこの十年は何だったの? ウェスティへの憧れは? お礼を言う日を夢見て頑張ってきたことは? そして……あたしの目指す楽園は? ──もし受け入れていれば、それは地獄、だった。
瞳の表面に浮かんだ涙は頬を伝わずに、自分の真後ろへ飛ばされてゆく。
やがて満月に寄り添うように浮かんだ飛行船が見えた。無事だったんだ、飛行船も!
「これにてフルムーン遊覧飛行は終了デース! お疲れ様でしたー!!」
開かれたハッチへ淀みなく吸い寄せられるグライダー。格好良く飛び降りたタラさんの元気の良い一言と、あたしを優しく降り立たせたラヴェルの、少し遠慮がちな幽かな微笑み。
そして──。
「おかえり、ユーシィ」
目の前に差し出されたあいつの掌に、グッと口元を引き結んだ。
「……た、ただいま……ラっ──」
ごめん、またあたしはあんたの名前を聞かせてあげられない。
雪崩れ込んだラヴェルの胸の中で、返事は嗚咽に変わってしまったから──。
◆第五章◆選ぶべきは・・・どっち!? ──完──




