[43]接吻
「最後に一つだけ」とツパイはゆっくり念を押した。ピータンは再び眠そうに瞼が閉じようとしている。
『ウェスティに……唇だけは許さないでください』
「えぇ!?」
いきなりの意外な発言に、大きな驚きの声がピータンを上下に浮かび上がらせた。
「そ、そんなこと……も、もちろんしないってば!」
あたしはつい頬を赤らめて、激しく左右に首を振った。幾らこの十年憧れてきた相手だからと言って、そう簡単にキスなんてしない。……あーでも……前科があったな……ラヴェルからの急襲。いきなり襲われたら、避けられる自信は正直ない。
『余りお話したくないことですが、実はジュエルの力を得た者のキスには、他人を操る力があります。ほんの僅かな時間ではありますし、一人に対してたった一度だけですが……でももし貴女が口づけをされた後、ウェスティの魔法によって求婚を承諾してしまえば、それが心からの望みでなくても契約完了となってしまうのです。ですからどうか口づけだけは何とか回避してください』
「操る……」
そして「余りお話したくないこと」というツパイの言い出しに、あたしはほんの少し衝撃を受けた。ラヴェルも……もしかしてそのつもりでキスしたのだろうか? あの時あいつの契約に即答して、直ちに旅が始まったのは、あたしも操られたからなんだろうか?
「うん……気を付けるわ。ありがとう、ツパイ、本当に。そして……明日の朝、目覚めたツパイに会えるのを……楽しみにしている自分も、ちゃんといるから」
あたしは心の中に出来た小さな靄を奥底にしまって、ニッコリと笑ってみせた。それは今は考えることじゃない。それは……それも、きっといつか分かるから。
『僕も元気なユスリハに会えるのを楽しみにしています。では……ピータン、ラヴェルの為にも頑張るのですよ』
初めて掛けられたツパイの励ましに、ピータンは嬉しそうに飛膜を揺らした。
『どうか笑顔を忘れないでください。ご両親の為にも、貴女自身の為にも──』
「うん、ありがと」
ちゃんと見極めてみせる。どちらが真実なのか。
そして最後にツパイは言った。
『おやすみなさい』
そうね。あたしも少しだけ眠ろう。ツパイに同じ挨拶を返して、あたしはピータンを懐に抱え、ベッドにしばし横になった──。
★ ★ ★
浅い眠りの中であたしの心は、得ることの出来た沢山のピースを並べ始めた。
でも全ては嘘であってほしいと願っていた。両親の死、ウェスティの全て、タラさんとツパイの過去、そしてラヴェルの辛い生い立ちも……全てが嘘ならば、あたしは此処に居る筈もないのに。
ウェスティの口から聞けば、きっと全ては否定される。けれど今度はラヴェルが『悪』となるのだろう。敵対している二人。でも元を辿れば従兄弟同士なのだ……そんなのって……哀し過ぎる。
どちらが本当なのだろう? そう言えば……金貨の出所を訊くの忘れちゃったな……。ツパイの長い物語は、作り話とは思えなかった。それとも所々が嘘なのだろうか? 出来れば……自分が嘘だと思いたい部分だけ、嘘であって欲しかった。
やがてまどろみが深い水底に落ちてゆき、横たわった身体は静かな揺らぎを受け流した。夢から覚めた時、あたしはウェスティと対峙出来るだろうか? いや……まだ無理な気がする……それでなくとも以前ラヴェルに言われたっけ──「ユーシィはすぐ顔に出ちゃうから」──そんなあたしが隠し通せるのだろうか?
けれど『脅威』は既に近付いていた。二度のノックに思わず飛び起きてしまう。取り急ぎの返事をして、布団の中にピータンを隠した。テーブルの上の食い散らかされたフルーツを慌てて片付け、それでも見えないように扉を少しだけ開いた。
「起こしてしまったかな? 気分はどうだい? 夕食の誘いに来たのだが」
目の前の長身から優しい声が降り注ぐ。それは心配そうに遠慮がちで、やっぱり彼が『殺戮者』だなんて信じることは出来なかった。
「は、はい……少し楽に。でも……フルーツを戴いた所為か空腹は余り……」
つい俯きがちに答えていた。顔を見られたら嘘がバレてしまいそうだ。身体の前に垂らした両手をキュッと握り締め、思わずラヴェンダー・ジュエルに祈っていた──どうかあたしの声を震わせないで! と──。
「そう……もう少し眠るかい? 先刻寝着を渡し忘れてしまったから、これを着て休むと良い。そのドレスでは落ち着かないだろう」
そうして後ろ手に抱えていた布包みを渡された。こんなに良くしてくれるのに……本当にウェスティが、あのザイーダという化け物を使って、あたしの両親を殺したの?
「ありがとう……ございます。明日にはきっと、元気になりますから」
「楽しみにしているよ」
下を向いていてもウェスティが微笑んだことは感じ取れた。寝癖で乱れた髪を整えてくれるように、ゆっくり頭を撫で踵を返すウェスティ。その後ろ姿に淋しさを感じて、そして或ることを思い出してふと呼び止めていた。
「あ、あのっ……」
「? 何だい?」
そうだ……明朝じゃ間に合わないんだった!
「えー、えっと……もし夜中に目が覚めたら、あのテラスへ出ても良いですか?」
途端口を突いて出た言葉はそんな問い掛けだった。
「ああ……大丈夫だよ。ではあのテーブルの傍にソファとランプを設えておこう。今の時期は夜風も気持ち良いに違いないね」
「ありがとうございます、ウェスティ」
にこやかな笑顔と小さく手を振り返し、再び歩き出した背中を見送った。にこやかな──ぎこちなくなかっただろうか? そして──テラスに出たあたしを、彼は追い掛けてくるだろうか──?




