[3]変貌
「ねぇ、ちょっと。あんたって……もしかして二重人格?」
あたしは乗り込んだ飛行船のゴンドラ上階で、真ん中に陣取る白いテーブルに頬杖を突きぼやいていた。
あれから早速旅支度をしたけれど、家庭菜園はほぼ壊滅状態であるし、花壇の植物はきっと自然に生き延びるだろう。幾つかの着回し出来る衣服と日用品を鞄に詰め込み、戸閉めだけはしっかりとした。隣家、とは言い難い程の遠く離れた仲良いおばさん夫婦は、ちょうど出掛けて留守にしていたので、『夏休み中は親戚宅に滞在します』とメモを挟むことにして。って……まぁ、親戚なんて居ないけどね。
「二重人格? まさか。自分はもちろん自分だけさ」
そうして小一時間程度のあっさりとした準備と旅立ちを済ませ、「半硬式飛行船なんて今時珍しいわよねぇ~」なんて感心しながら辺りを見回している内に、ラヴェルは進行方向左脇のキッチンにて何やら調理を始めたのだけど、
「ユーシィ、ランチは何がいい? あのスープと合うのはやっぱりパスタかな?」
……ちょいと馴れ馴れしいのではないですか? ラヴェルさん……。
さっきまでのバカ丁寧で優美だった執事風口調はすっかり消え去っていた。相変わらずにこやかな笑顔は変わらないけれど、まったく……それも“ユーシィ”って……。
飛行船が離陸した途端現れたこの調子に、あたしはいささか戸惑い、そしてその呼び名はやめてと何度も喰らいついたが、どうしてなのか受け入れられなかった。あたしを“ユーシィ”と呼んで良い人は、後にも先にも『あの人』だけなのに──。
呆れながら席に着いてすぐ、差し出されたミルクたっぷりの珈琲をすすりながら、この異様な展開に頭を巡らせてみる。もしかしてあの雰囲気はあたしを攪乱する為の策略だったのかも知れない。自分には害はありませんよ~なんて、此処に引き入れる為の罠だったのかも知れない!? てか、元々いきなりキスした確信犯なのに、あたしは熟慮もしないで契約するなんて……明らかにお金に目が眩んだバカ女ではないか!?
いや……最後にこちらから提示した「手は出さない」という約束にも、こいつは応じたのだ。例え破られたとしても、いざとなったら股間を思いきり蹴り上げて逃げればいいことだし……? あ! 逃げるって何処に!? 此処は飛行船内で、空の上だった……!!
「ユーシィ? 聞いてる? 返事がないなら、もうパスタ茹でちゃうよ?」
まるで再びのキスかと思うほどの近さの、眼前に降ってきたラヴェルの顔に突如慄いた。思わず上半身をのけ反らせたが、バランスを崩しかけたその背をすぐさま左手で支えられる。視界には鼻先三センチの距離に能天気な微笑み……こいつ「手は出さない」って本当かなぁ……。
「な、何でもいいわよー。あのスープ、具沢山だからパンだけでも構わないわよ」
ちなみに『あのスープ』とは、あたしが朝食用に作っていた物で、ラヴェルはもったいないからと鍋ごと此処へ持ち込んだのだ。
「残念ながら小麦を切らしていてね。パンはしばらく作っていないんだ。パスタなら乾麺があるから……じゃ、それで決まりだね」
決まりと言うより、他に選択の余地がないのでしょ。
呆れながらも一つ頷いてみせると、満足したようにキッチンへ戻り、その後ろ姿は二束のパスタを握り締めていた。これから一ヶ月、時には陸に降りることもあるのだろうけれど、こいつとこの密室で二人きりなんて──やはり浅はか過ぎただろうか?
それでもそれを即決させるだけの力が、あの金貨の量にはあった。育ての親である祖父を失い、何の援助も持たない自分が今後を生きていく為には、飛行船整備しか能のないあたしには、技師になるより他に道がないのだ。その資格を取るには一年専門学校に通わなければならない。卒業しても半年の実践を経なければ国家試験を受けられない。そこまで……あたしには生活費と入学費用と学費、それだけのお金を捻出する必要があった。そして──あたしの『夢』はその先に在る。
「おまたせ、ユーシィ。おいで、ピータン!」
「え? ピータン??」
ぼんやり自分の先に思いを馳せている内に、目の前のテーブルからトマトの良い匂いが漂ってきた。見下ろした先には見覚えのあるポトフと、赤いソースのかかったパスタに飲み物、そしてあの契約時にあたしが摘まんでいたナッツがあった。そう言えばあたしが支度をしている間に、こいつはナッツの樹の場所を尋ねて、収穫するんだと出掛けていたっけ。
『ピータン』って確かずっと東の国の、卵の加工食品じゃなかった? なんて記憶を辿っている内に、自分の遠く右側の棚から何か小さな物が飛んできた気がした。あたしはさっとその方向へ顔を寄せたけれど、それは既に正面に坐したラヴェルの肩に留まっていて……
「え! モ、モモンガ!?」
黒々としたつぶらな瞳が愛らしい薄灰色のモモンガが、鼻をヒクヒクさせながらこちらを見詰めていた。
「か、可愛い~!」
思わず叫んで胸の前で両手を合わせてしまった。ラヴェルの指先に顔を撫でられた『ピータン』は、嬉しそうに目を細めている。……って、名付けのセンス、悪過ぎないか?
「飛行船の外は煙が充満していたから、とりあえず此処に残していたんだ。元々夜行性だけど、日中も動けるように躾けてあるのに、今まで出てこなかったのは……どうも君に警戒していたみたいだね」
「えぇ~あたし、危害なんて加えたりしないのに……。ね! あたしにも触らせてもらえるかな?」
そう言って恐る恐る手を伸ばしてみたけれど、
「……時間が掛かりそうだね。多分この子、もう気付いたみたいだ」
「一体何に気付いたのよ?」
あんなに無垢な表情だったピータンが、一転牙をむくようにあたしに威嚇を示したので、ラヴェルがそれを諌めながら言った言葉とは──
「ご主人様が、君に恋してるってことに」
「はぁっ!?」
こんな可愛い小動物を手懐けるラヴェルなら、意外に無害なのでは? と思ったあたしの願望は、即座に悉く砕け散っていた──。