[29]別人
「ユーシィ……」
知らない声があたしを呼ぶ。とても低い掠れた声。か細い視界から夕闇が見えた。いつの間にか眠っちゃったんだ。呼んだのはラヴェルなの? って、あんたしか居ないわよね。
長細いベンチチェストに預けていた身体が、突然物凄い力でひっくり返された。驚きの声も上げられぬまま、あたしは仰向けにされて、その上には顔の両側で手首を拘束する黒い影が見えた。
「ほぅ……予想より良い女に育ったじゃないか」
──!?
だ……誰?
悪意のある聞き覚えのない声に、あたしは聴覚以外の機能が麻痺した。昨夜ツパイの就寝中かその前に、強盗でも侵入したのだろうか? でも今の台詞……あたしを知っている素振りだ。
身体の芯から恐怖が湧き上がって、声も震えも出てこなかった。ただひたすら瞳だけは、圧し掛かる黒い人物を見出そうと闇を凝らす。どうしよう……ラヴェル、叫んだら聞こえるだろうか? あのカプセルまで少し距離があるし、扉も閉まっているから聞こえないかも知れない。
「ラっ──!!」
「『ウル』を呼んでも無駄だ。私がその『ウル』なのだから」
──ウル……?
それでも何とか唇を動かし、発しようとしたあいつの名は、知らない誰かの名に置き換えられて邪魔された。ウルって誰? 目の前の人??
「どうやら君には陰になって見えないようだな……親切に明かりを灯してやるんだ。感謝してくれよ……」
ひゅう、と口笛のような息の音が聞こえ、ポッと右眼の端に仄かな光が生まれた。その光源が照らす真上の人物は……薄紫色の髪の先を、相変わらず黒々とさせている──『ラヴェル』だった──。
「あ……あ……」
いつの間にか驚きが言葉になって洩れていた。ラヴェルだけど……ラヴェルじゃない? この声、この邪悪な嗤い……こんな姿、今まで見たこともない!
「ふっ……驚愕の表情もなかなか良いじゃないか。もっとそんな顔を見せてやろうか? ウル」
ラヴェルの右手があたしの手首から離れ、左手があたしの頭上で両手首を押さえつけた。自由になったあいつの右手人差指は、自由の利かないあたしの鎖骨真中を押し、そのまま胸元へと真っ直ぐ降りていった。
「いっ……ゃ──」
怖ろし過ぎて声が出ない──。
「いいねぇ、その恐怖。ゾクゾクするよ……そうだろ? ウル」
どういうこと……? 自分が『ウル』だと言いながら、『ウル』という誰かに問い掛けるような台詞を放つ……ラヴェルの中に別の人格が居るの? じゃあラヴェル本人は??
「愉しませてもらおうか──」
右手が器用にボタンを外し始めて、あたしは慌てて抗うように身体を左右へ振った。なのに脅威は止まらなくて、止め処なくて……耳の真下にあいつの顔が近付き、鼻先を首筋に撫でつけながらスウっと息を吸う。「そう、この香りだ……快感だねぇ」そんな嘲笑うような囁きが聞こえて……嫌だっ、助けて! ラヴェル、ラヴェル! もしいつもの人格が眠っているのなら、早く目を覚まして!!
「……や……めろ……!」
その時あたしの心の叫びが通じたように、普段のあいつの声が幽かに現れた。同時に襟元を開こうとする指先も直ちに止められた。
「ほぉ……まだそんな力が残っていたか」
再びの低い掠れた声。ラヴェルの肉体の中で二つの人格が会話をしているなんて……!
「あなたにとっても……大切な女性の筈だ……スティ」
スティ?
そう呼ばれた余裕のある忌々しい音声に対して、ラヴェルの本来の声は著しく苦しそうだった。どういうこと? 大切って誰のこと??
「そうさ……この世で一番欲しい女だ。が、その前にお前に味わわせてやろうと言うのじゃないか……私に感謝したらどうだ?」
その台詞と共に、再び右手が動き出した。露わになったデコルテが、ラヴェルの大きな掌に一瞬触れられ、けれど抵抗を試みたあいつの力で今一度持ち上げられた。
「こんなに心地良いのに。どうしてお前は触れない? ウル」
「……これ以上……彼女に触れる資格なんて……ないからだ……スティ、あなたも」
「──ふん。面白い」
鼻に掛かった最後の言葉が吐き出された後、急にいつものラヴェルが戻ってきた。もちろんこんな行為の後に、あのにこやかな笑顔が返された訳じゃない。でも瞬間気付く。この雰囲気、本物のあいつだ。
「ごめん……本当に。本当にごめん……」
──涙?
両腕が解放され、チェストの上で脱力したままのあたしの頬に、一雫水玉が落ちてきた。
それから疲れたように立ち上がったラヴェルは、髪で顔を隠しながら後ろを向き、数歩進んだ先の壁を拳で一発叩いた。
「タラ……早く来てくれ!」
そんな祈りの叫びを窓の向こうへ吐き出しながら──。
■そしてついに!? あの方、登場です♪




