[2]決断
しばらくあたしの驚きの眼は、自分の手中に感じる重みの素と、『そいつ』の初めて見せる不思議な表情に釘付けになっていた。
が、それも数秒の内で、
「……あんた、相当イカレちゃってるの? それとも天然??」
余りに突拍子もない申し出に対して、とうとうあたしは憐みと嘆きの言葉を掛けていた。
「いいえ。真っ正直に真剣ですよ。そして……真実です」
やがてあたしの手首を掴んだ『そいつ』の手と逆の手が、金貨を握らせるように包み込んで、呆然と目が点になるあたしからゆっくりと離れていった。
「これから一ヶ月……自分と契約を結びませんか?」
「契約……?」
つい訝しげな声を上げてしまう。『なかったこと』にするのに『契約』って……もしかして『こいつ』悪魔とか??
……どうやら、こちらまで頭がおかしくなってしまったようだ……。
あたしはふぅと一つ疲れたように溜息を吐き出し、再び呆れた口調で続けた。
「あのねぇ、残念ながら時間は前にしか進まないのよ。どんな事もなかったことになんか出来る訳ないの。それに一ヶ月の契約って何よ。あ! まさかこの金貨もその報酬だって言うんじゃないわよね!?」
言いながら自身の台詞に慄いて、慌てて金貨を突き返そうと手を伸ばした。そうよ……幾ら飛行船の修理代と畑を駄目にした詫び料を含めたって、この金貨は多過ぎる。
「ああ、いえ……それは純粋に『お礼』です。お嬢様がご契約くだされば、その三倍はお支払い致しましょう」
「さ、三倍っ!?」
それだけ有ったら……『此処』を売らなくても、行けるかも知れない……!
「ちょ、ちょっと、あんた! は、話だけなら聞いてあげても宜しくってよっ」
あたしの唇はうわずりながら、既に目の裏には沢山の金貨が積み上げられていた──。
★ ★ ★
『こいつ』の話はこうだ。
『こいつ』はとある目的の為に旅をしていて、それはあと一ヶ月程で完了するらしい。契約とは、あたしの『腕』を買っての話で、その一ヶ月の同行を意味していた。
あたしの祖父は優れた飛行船技師だった。幼い頃に両親を失ったこともあって、あたしは祖父に育てられながら、見よう見まねで技術を学んだ。いつもは優しい祖父だったけれど、飛行船のことになるともっぱら厳しくて! 良くどなられたっけ……それもポックリ逝ってしまった一ヶ月前までのことなのだけど。
「んで? あんたの『とある目的』ってのは教えてもらえないの?」
あたしは招き入れたダイニングの木のテーブルに頬杖を突き、裏庭で採れたナッツを頬張りながら、目の前の『そいつ』に尋ねてみた。
「そうですね……出来れば、余り。現状お話し出来るのは、或る物を手に入れる為に向かっているということくらいですが、その或る物さえあれば……姫君の願いも叶いますよ」
黒いマントを脱ぎ、それを壁の取っ手に掛けた『そいつ』の服装は、淡いブルーグレーの長袖とパンツ。いわゆる技術系の『つなぎ』風だけれど、もう少しウエストが締まっていて、スタイルが悪くないことは垣間見られた。
「願いって『なかったこと』にするってこと? それじゃあ、あんたも何かを『なかったこと』にしたい訳?」
この『なかったこと』にする、を鼻から信じてはいないけれど、これを否定していたら話がちっとも進まないので、とにかくあたしは『こいつ』の言うことをスルーしないで進めていた。
『こいつ』はずっと淡い微笑を湛えたまま、あたしが供した紅茶に口を付けつつ、あたし、ならぬ『姫君』とやらに視線を戻す。
「そう……かも、知れませんね。自分はそれが手に入りさえすれば満足ですが。『なかったこと』にしたい何かが無いかと言えば、そうでもないと思われます」
「何かまどろっこしいわね」
湯気の向こうの笑顔に少し苛立ちを覚えた。何故『こいつ』はこんなに優雅で──心を見せないんだろう。
「お約束出来るのは、貴女様を絶対に危険な目には遭わせないこと。それから旅の間の快適な衣食住、そして……先にお話した報酬です」
ニッコリ弓なりに細められた目と口に、気付けばゴクリと唾を呑み込んでしまった。あれだけの金貨があれば──あたしは今秋から始まる技師の専門学校に入学出来る上、飛行船もきっと買える! この土地と我が家を売らずして!!
「約束はもう一つよ。今後一切決してあたしに手を出さないこと!! 以上を守ってくれるなら契約してあげてもいいわ。えっと……ああ……で、あんたの名前は?」
「ラヴェル、と申します、プリンセス。その追加事項もしかと」
『ラヴェル』はそっと椅子を引いて立ち上がり、淑女に対する礼を捧げた。あたしも少し照れ臭そうにテーブルを挟んでそれに続き、
「あたしはユスリハ。約束、守らなかったら承知しないからね!」
「御意に」
差し伸べたあたしの手が、ラヴェルのしなやかな掌で包まれた。
──契約完了! 旅が始まる!!