10.心
最初の練習は、割と順調だった。
指揮者の心の声が聞こえる。そのため、指揮者の思い通りの演奏が出来ていた。
今回の練習は、最初に指揮者と二人である程度方向性を確認した後、オーケストラと合わせる予定だ。
今日は、初めてオーケストラと合わせる日。
ありさは、練習スタジオに入った。
メンバーは、すでに準備を終えている。
軽い挨拶をすませ、早速演奏が始まった。
今回も、初回の練習にしては順調だ。
指揮者の声。そしてオーケストラのメンバーの声が聞こえてくる。
大きな問題も無く、最初の合わせ練習は終わった。
(舞浜ありさ、かわえー)
(飲みに誘ったら、来てくれるかな)
みんなが片づけをしてる中、そんな声が聞こえてきた。
その声に気付いて顔を上げると、管楽器の二人の男性がゆっくりとこちらに向かってくる。
(うお。なんかこっち見てる?)
(やっぱ可愛いな)
ありさは、急いで片づけを済ませ、足早にその場から逃げ出した。
控えめに後ろを除き見ると、二人の男性は、残念そうな表情でこちらを見送っていた。
急ぎ帰ってきたありさは、椅子に座り大きく息をついた。
きっと不振に思われたに違いない。
これからも、あんなことが起こるのだろうか。
聴く人が満足する演奏がしたくて望んだ力。
だが、それ以外の部分では大きな悩みの種となっていた。
(ここは、少し早めに弾いてくれないかしら)
(舞浜さんの演奏、気持ちいい)
(私のパートをもっと聴かせたい)
オーケストラメンバーの、そんな心の声に応える。
あれから、なるべく演奏以外でメンバーとも関わらないように、練習が終わったら早めに片付けて帰るようにしていた。
練習の開始前は、一人で個室に篭っている。
そんな形の合わせ練習だったが、何度か繰り返して、なんとか演奏も形になってきた。
そして、いよいよコンサートの本番となった。
みんなの緊張感も高まっている。うわついたことを考えている余裕がある者もいない。
本番前の最後の練習を終えたありさは、コンサート用のドレスに着替え控え室にいた。
青みがかった白いドレス。襟元には、青紫のコサージュが添えてある。
まるで、雨の中で静かに佇む花のように美しい。
見るものは、誰もが目を奪われるだろう。
しかし、その表情には、どこか儚げな印象を覗かせている。
これまでの練習と日々の生活の中、人の心が読めるストレスで、ありさは疲れきっていた。
それでも、その生活は、ひとまず今日で終わる。
今は、この演奏に集中しよう。
誰の声も聞こえてこないよう、一人きりの控え室で静かに集中を高めていた。
そして、コンサートは始まった。
今日のプログラムは、まずオーケストラでの演奏から始まる。
ありさのピアノとの共演は、この後だ。
会場は満席。オーケストラの人気もあるが、前回のありさの評判によるところが大きい。
最初の曲を楽しみつつも、次の曲を心待ちにしている。
あの日の演奏は、動画サイトなどでも拡散されていた。
なにがあれほどの演奏をさせたのか。
ぜひそれを生で聴いてみたい。
そんな人ばかりだ。
やがて、プログラム最初の演奏が終わりを迎えた。
いよいよ、ありさの出番がやってくる。
控え室で集中していたありさは、スタッフに呼ばれて控え室を出た。
舞台袖に差し掛かったところで、最初の演奏を終えたオーケストラのメンバーとすれ違った。
演奏する曲によって楽器の種類や数が変わるため、メンバーが入れ替わるのだ。
何人かとすれ違う途中、皆励ますような表情でありさを見ている。
(舞浜さんのドレス姿、可愛すぎ!抱きてー)
ふと、耳にそんな声が入ってきた。誰かの心の声だ。
ありさは、とっさに後ろを振り返る。
その様子に、周りのメンバーは、少し驚いた表情だ。
心の声を発したであろう男性も、何事かといった顔でありさを見ている。
そんな状況で、ありさはなにも出来ない。
悲しいような、くやしいような表情で、ありさは踵を返し、また舞台へと向かった。
先ほどまで高めた集中力は、今はもうない。
男性にも悪気はなく、まさか自分の心の声など聞こえているとは思わないだろう。
しかし、その心無い一言、いや、心の声が、ありさの緊張の糸を断ち切ってしまった。
言葉の中身はそれほどのものではない。
だが、これまでの日常の中で絶え間なく聞こえてくる誰かの心の声に、ありさのストレスは限界だった。
舞台にライトが照らされ、その中にありさが踏み出す。
(舞浜ありさかわいー!)
(ドレスえろっ!)
客席の人々は、皆が拍手で迎える。
(前のコンサートは、たまたまよかっただけでしょ)
(あー、彼氏いんのかな?)
誰しもが、期待に満ちた表情で演奏が始まるのを待っている。
ありさは、ピアノの椅子にゆっくりと腰を降ろした。その表情は虚ろだ。
指揮者が腕を上げ、準備が整う。
その腕がゆったり振り下ろされると共に、演奏は始まった。