血まみれの合宿所
3.
神白は毎日何かしているようだった。
僕がおきると彼は大抵、もう出掛けていた。
僕は枕の下に入れておいた全財産の封筒をポケットに突っ込み、カードキーを持って部屋を出る。
古い旅館の趣きが残る、時代がかった建物だが、経営は全国チェーンに買い取られていた。
内装や備品も、老朽化したものから順にビジネスホテルのそれに替えられ、どこか統一感のない、つぎはぎの雰囲気がある宿だ。
エレベータの脇にあるコーヒーサーバから一杯汲み、立ったまま飲む。このコーヒーが美味しいのかまずいのか、僕には分からなかった。
食べるものは毎日、弁当やパンだった。地元の者がコンビニと呼んでいる店があり、そこでほとんどのものが買えたが、どう考えてもそれはもともと乾物屋だった。営業は朝9時から夜6時で、店主の体調によって少し早まったり遅れたりした。
昨日と変わりばえのないおにぎりを買って、道端の錆びついたベンチで朝食をとっていると、山の方向から風が吹きだした。冷たくはないが、鳥肌が立ってくる、湿った風だ。
空っぽな気分だった。嬉しくも、悲しくもなく、おにぎりは美味くなく、不味くもなかった。ただそれは毎日、数百円分の代金と引き換えに手に入って、僕の財産はそのぶんだけ確実に減っていった。
この暮らしが永遠に続かないことは分かっている。
しかし、ここを打開しても、何か状況が良くなるとはとても思えなかった。
「ゾンビ」たちが道を歩いてきた。試走の頻度は日に日に増している。
ヤツラが襲来するたびに、街の建物は赤く塗られたり青く塗られたり、白く塗られたりした。
相変わらずデタラメな歩き方だったが、少しずつ進み方の効率は上がっていた。目の前を通るとき「おい」と声をかけると、何体かは反射的にこちらを振り向いた。しかし、無表情のまま再び顔を戻し、進軍を続ける。
胸の真ん中あたりがぐっと押されるような、強い不快感がのぼってくる。
みんなこれをおかしいと思わないのだろうか。
不愉快な日常の一部として受け入れ、こころを動かさないことが、大人の対応なのだろうか。
ビィとはあれきり、連絡が取れなかった。それに、連絡を付けようとも思わなかった。
神白はたまにビィと会っているふしがあったが、何も言ってこない。僕からも何も聞かなかった。
受験勉強だけは、不思議と続いていた。むしろ、それしかすることが思いつかないので、普通の暮らしをしていたときよりもずっと捗った。
持ってきた電子辞書にはびっくりするほど様々な機能があり、ほとんどすべての教科について何かしらのトレーニングをすることができた。
もう、これらの知識は、死ぬまで使うこともないかも知れない。死ぬまでというのも、思ったほど長くはなく、来月には僕の命運は尽きるのかも知れない。
それでも僕は手を動かし、ボタンを操作し続けた。
「お勉強してたの?」
いつもこの時間帯にこの道を通る老婆が、目を細めて僕を見た。
「あ、はあ」
「うーん、えらいねえ」
老婆は昨日とまったく同じ抑揚で言い、まったく同じように頷きながら通り過ぎて行った。
おそらくこのゾンビ騒ぎがなくても、このばあさんはずっとこんな感じなのだろう。雑で、適当で、断絶された世界。世の中は、僕が思っていたようなものとは、まったく違っている。
「2行目」
数学の問題に手こずって夢中になっているうちに、いつの間にか若い女が目の前にきて、僕の書いているものを覗き込んでいた。
「面白いね、これ。電子手帳なの?」
顔を上げると、ちょっとここらへんでは滅多に見られないような美人が立っていた。
足首が見える長さのピチッとしたジーンズに、奇妙な顔がプリントされたTシャツを着ている。長い髪を頭の上で複雑な形に纏めて、その真ん中に金属のかんざしのようなものをさしていた。
「タッチペンで書けるんです」
とだけ、僕は言った。
「2行目の変形はできないよ」
と、女は言った。
声に聞き覚えがある気がして、僕は一瞬考え込んでしまった。
よく見ると、先日、土産物屋で店番をしていた大学生だった。
あの時の野暮な感じとまったく印象が違う。服装や髪型だけでこんなに変わるものだろうか。
「工学部なの?」
と、僕は聞いた。
「そうだよ」
「人型のロボット作ってるの? T大?」
僕はこの地域で一番有名な大学の名を挙げた。
「そうだよ」
僕は何か言おうとしたが、言葉にならず、なんとなく溜め息をついてしまった。
「何だよ。T大受けるの?」
と、女が聞いた。
「さあ。そのつもりだったけど、今はよく分からない」
「どうして?」
「親がふたりとも行方不明だし、僕自身、親からは行方不明者だと思われてる」
「大変だね。関所難民てやつなのかな」
「いろいろタイミングが悪くて」
僕は母の失踪から始まった神白との長旅を、かいつまんで説明した。
女はちょっとだけ目を見開いて聞いていた。それから、
「なんだかな。君は若いから世間知らずなんだろうけど、そのツレの男も適当というか、雑なのか、馬鹿なのか……」
呆れたという感情をまったく隠さない声色だった。
「まあ神白が馬鹿なのは知ってるけど」
「知ってるようには見えないな。なぜそんな理不尽な目にあってる状況で、この町に滞在してて、毎日町の人とすれ違っているのに、君たちは何も言わないわけ? 少なくとも私が大学関係者だってことは前回店に来た時に知ってるよね? どこにいるのかわからない知り合いを探す前に、目の前の私に事情を話そうとは思わなかった?」
「なんで? あなたが何かしてくれるってこと?」
「M県に帰りたいなら力になれると思うよ。知っての通り、T大学はM県にあるからね」
僕は知らず、口を半開きにして女をじっと見上げてしまった。
普通の時なら、ここまで間抜けな顔はしなかったかもしれない。
しかし僕は、本当に長旅と様々な悩みごとのために疲れ切り、いためつけられていた。
油断すれば泣いてしまいそうだった。
「なぜ話さなかったの。私がM県への通行証をいくつか余分に用意できることは、この辺りの人ならみんな知ってる。先週も大学のコネで一人通したばかりだ。君たちね、ここは砂漠のど真ん中と違うんだよ。目の前に人家があるのに、ここで飢え死にするつもりだったの? 見知らぬ人に事情を話そうという発想はなかった?」
「なかったといえば……まあ、なかったよ」
僕はしぶしぶ認めた。
「待ってて、君と君のツレの2人分、取れるか確認してくる。君の分はC県にも行けるようにできないか聞いてくるから。お父さんはC県なんだよね?」
「あ、はあ」
「泊まってるのはそこの『旧旅館』だよね? 角のところの。後で連絡するよ」
女はふわっと片手を振って去って行った。
僕は画面の数式の2行目以降をすべて消した。
しかし、どう書き直せばいいのか思い浮かばなかった。
「なんなんだよ……」
まったくの八つ当たりだが、僕はバチンと音を立てて電子辞書をたたんだ。
立ち上がると足元がふらついた。
宿に帰ると、珍しく神白も早く帰っていた。
僕は土産物屋の女が言ったことを伝えた。
「ほんとですか? それならラッキーだ」と神白は言った。
「君は何してたの?」
「まあなんとなく、コネづくり。畑を手伝ったり、例の合宿所を見学に行ったり」
「ビィに会った?」
僕はずっと聞かずにいたことを聞いた。
「何度か見かけたけど、話せなかった。異様な雰囲気です。合宿所全体が。何を隠しているんだか」
「何をって、ゾンビ以外に何かあるの?」
「さあ、何だか。あそこまで大っぴらにヤツラを歩かせてるわりには、どうにも含みのある態度で」
僕はあの女が、なぜ周りの人にすぐ助けを求めなかったのかと憤っていたことを伝えた。
「どうなるか分からないでしょう。僕たちはゾンビを動かしてる側の人間の関係者なんですから。だから僕としては、畑の手伝いでもして信用を作るしかなかったんです。
……ところで、彼女をどうしますかね」
「ビィのこと? もう置いていこうよ」
僕がそう言うと、神白はこちらを一秒ほど見つめた。
「伊東君がそれで良ければ」
「何度も言うけど、僕の女じゃないんだよ」
「その点は分からないけど、ここで別れたら二度と会えないと思いますよ」
「まあね……」
だからなんだと言うのか、と僕は心の中でつぶやいた。
そんなふうに思ってはいけないのだろうけど、しかし、僕がこれ以上、ビィの人生の当事者であり続けることはほとんど不可能に思えた。
「考えてみれば、どんな子なのかもよく知らないし」
僕がそう言うと、神白はそれ以上何も言わなかった。
※
夕方ごろ、フロントから部屋の電話に連絡が入り、ロビーに来客があると告げられた。
行ってみると昼間の女が、スーツと普段着の中間のような服装で待っていた。
「通行証はすぐ取れそうです」
女は僕たち2人にそれぞれ申込書のようなものを差し出した。
「必要事項を書いてください。通行理由のところだけど、あなた、神白さんは、うちの大学の今野研究室というところの研究補助員という肩書きにするんで、災害救助用ロボットのテスト走行、と。
そして伊東さんは研究生、つまり非正規の学生となります。項目3の、『同一生計家族の居住地』というところに、C県のお父さんの住所を書いてください。それでM県からC県までの県境をすべてパスできるようになるので」
紙質は粗く、実に簡素な用紙だった。
「いいんですか?」と神白が言った。「そちらの研究室のことなんて何も知らないのに」
「まあ、目をつけられたところで、今野先生は怖いものなんてないから」と女は言った。
「何かとてつもない腐敗に加担してる気分ですよ」
神白は言われた通りに空欄を埋めながら、そう言った。
僕たちが書き終わると、女はそれをクリアファイルにはさんだ。「できあがったら届けに来るよ。荷物をまとめておいていいよ、今週中にはできると思う」
女は足早に去ってしまい、僕と神白はぼんやりとその背中を見送った。
「あの人はなんなんだろう」と僕は言った。
「まあ何にせよ、使えるものは使わないと」
僕たちは部屋に戻り、荷造りを始めることにした。
少しの間の借り暮らしのつもりが、いつの間にか持ち物が増え、部屋中に散らばっていた。
野宿のときにはひとつのリュックに収まっていたものが、今となってはまったく上手く収まらない。格闘した末、服を小さくたたみ直そうとしてもう一度出してみると、部屋は荷造りを始める前よりも更に散らかってしまった。
「伊東君、こういうの苦手?」神白が笑った。
「苦手じゃないけどさ……」
僕は言い返したが、我ながらこの部屋の現状ではまったく説得力がないと思った。
結局、よれよれになったジャケットを2つ処分することに決め、何とか残りを詰め込んだ。
その夜、僕はなぜか寝付けなかった。何となく部屋の空気がこもっている気がして、胸が重苦しい。それに、さほど暑くもないのに汗が止まらず、布団がじっとりと湿っていった。
突然、神白がむくりと起き上がった。アラームが鳴ったわけでもないのに、まるで誰かに呼ばれたかのように、暗がりの中でいそいそと上着を羽織り、靴下を履き、部屋を出て行く。
ドアが閉まった後、僕は3秒考えてから、追いかけることにした。
神白が気づかないようなら声を掛けずに後をつけようと思っていたが、宿を出てすぐ彼は振り返った。
「伊東君も来る?」
さほど驚いた様子もなく、神白はそう言った。
「どこへ行くの?」
「怖いものを見に」
怖いものと言ったって、ゾンビが真っ昼間に往来を歩き回るような時代だ。
「夜じゃないと見えないの?」
「そんな気がするんだよね」と神白は大真面目に言った。
神白は通りをしばらく行ってから、二股に分かれた小道のうち細い方へと進んだ。
街灯の灯りが届かなくなり、神白はペンライトを取り出して足元を照らした。
昔の舗装がかろうじて残っているだけの山道に、両側から木々が迫っている。森が、人に切り取られた土地を取り返そうとしているかのようだ。
空気は冷たく、ひどく湿っている。草むらから響く虫の声は控えめで、現実味に乏しかった。
道は緩やかに登りながらなんどもカーブを繰り返していた。
僕は神白について行くのが精一杯で、どれくらい進んでいるのか見当もつかなかった。
やがて、急に辺りが明るくなったような気がして、顔を上げると白い四角い建物があった。
玄関を照らす白い明かりが、僕たちの顔に降り注いだ。
合宿所か何かのようだった。
今世紀の初期に建てられた感じの、中途半端な新しさがあった。
神白は慣れた様子で明かりの真下に入り、インターホンを鳴らした。
「はい」と男の声が応えた。
神白ははきはきした口調で、「あの、馬場ショウコの知り合いの者ですが」
「あの、部外者の方はお入れできないんですが……」
「分かってます。手紙を渡していただきたいんです。僕たち、馬場の親友なんですが、明日でこの土地を離れることになりました。状況的にもうお会いできないと思われるので」
「はあ……」相手は迷惑そうな声色を隠さなかった。
しかし、1分ほど間があって、入口の引き戸が拳ひとつぶんだけ開いた。
相手は手紙だけ受け取って引っ込むつもりだったようだが、神白は戸の開いた隙間にすかさず右膝を打ち込んで、文字通り突破した。
「ちょっ……!」
僕も神白の後ろから入り込んだ。
突き飛ばされた男は尻餅をつき、目と口をまん丸に開けていた。
思ったよりも非常事態に弱いようだ。
意外な気がしたが、考えてみれば神白のように実力行使に出る侵入者は今までいなかっただろう。
中はやはり合宿所で、玄関から真っ直ぐに長い廊下が通っていた。
廊下の床には複数のケーブルや電源コードのようなものが這い、よく分からない機材や誰かの鞄などが無造作に転がっていた。
「待ってください! 困ります!」
男は甲高く叫んだが、追いすがっては来なかった。腰が抜けたのかもしれない。
神白と僕は走って、廊下の突き当たりの部屋へ飛び込んだ。
パーティションが林立して、部屋の全体像は分かりづらかった。
急に、魚市場のような生臭いにおいが襲ってきた。
床にはブルーシートが雑に敷き詰められていた。パーティションにもそれぞれ、防水用と思われるビニール袋が掛けられ、その端は耐水テープで留めてあった。
神白はパーティションの下をくぐり抜け、部屋の中央に向かった。僕は何も考えず追った。
騒ぎの中心はすぐに見つかった。ひときわ沢山のブルーシートが敷かれており、7、8人の若者がレインコートを着て立っていた。
その向こうに、男が膝をつき、ほとんど倒れこみそうな姿勢で大量の血を吐いていた。
僕にはそう思えたのだが、そもそも男なのかどうかはよく分からなかった。血しぶきで顔が全く見えない。
それに、血を吐いているように見えたのも、気のせいだったのかも知れない。
どこかから大量に出血し、それが顔を伝い顎を伝って床に落ち続けていたが、傷口がどこなのかは分からなかった。
「何か用ですか?」
レインコートのひとりが神白を振り返って、迷惑そうに聞いた。
「あんたらは何をしてるんだ?」と神白は言い返した。
「何もしてませんよ。ただ見ている」
「どういうことだ」
「これは僕らが作ったんじゃないんですよ。分かってるでしょ? これはこういう『仕様』なんですよ。敵に囚われたことに気づくと、自爆する」
仕様、敵、自爆……耳障りな言葉が頭の中で意味と繋がり、認識された瞬間、僕はようやく、ヤツラが探究心から作られたロボットではなく、この形を目指して製造された兵器であることを理解した。