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すべての終焉

4.


帰りの新幹線の中でも、谷中先生は『本業』のほうの論文に追われていた。


僕は窓の外を見たり、スマホでSNSを眺めたり、居眠りしてスマホを落としかけたり、と繰り返し、全身にだるさを感じた。新幹線はトンネルが多い区域に差し掛かっており、トンネルを出入りするたびに何度も気圧が変わって、耳が重たくなった。


「伊東君」

S駅が近付き、列車が減速を始めたとき、谷中先生はパソコンを片づけながら改まって言った。

「来週も来てくれよ。待ってるから」


「あんまり期待しないでくださいよ」と、僕は言った。「僕、来月は夏休みを満喫したいですし」


「じゃあ10月からでいいからさ」


「前向きに考えておきます」


「今度、イベントのほうにも来てくれよ。研究室で毎月1回は何かやってるんだ。タコ焼きパーティーとか、ゲーム大会とかさ」


「はあ、そうですか」


「頼むよ。また来てくれよな。いつでもアポ無しで寄ってくれよ。俺は居るとは限んないけど、誰かは居るから」


「先生、別に僕は……」

僕が言いかけていた言葉は、デッキのほうから聞こえた甲高い悲鳴で遮られた。


僕と谷中先生の居る席は、デッキと車両を仕切る自動ドアの目の前だった。そのドアが開くと、現われた血塗れの男が、よろめいて通路に倒れ込み、その周りに大量の血が飛び散った。出血は続いているらしく、勢い良く床を濡らす血は谷中先生の靴にもべったりとついた。僕はとっさに椅子の上に足を引き上げた。


「おい、ゾンビだ! ゾンビだ!」デッキの奥に怒鳴り散らす若い男と、何度も悲鳴を繰り返す女が見えた。僕たちより後ろの席にいた乗客たちは、反対側のデッキに向かってバタバタと逃げ出した。


「押さないでください!」女の声が叫んだ。「押さないでください!」


「押してるのはお前だろ!」と男の声。


「子供がいるんです! 押さないでください! 子供がいるんです!」「やめろよ、もう死んでる、慌てないで」「うるさいですよあんた」「なにこれ?」「こっちも子供がいます!」


谷中先生は少しの間、倒れた血塗れの男を見下ろしていたが、意を決したように屈みこんで、もう事切れているかれの、着ていたポロシャツをまくった。


血にまみれた腹の一部がわずかに盛り上がっていて、中央にケーブルの差込口が見えた。


「逃げていたやつか」


「どうやって……」僕は座席の上に中腰で立ったまま、動けなかった。「関所を通ったんでしょうか?」


「いや、たぶん線路から辿ってきて、ホームに入ったんだろう。その後出られなくなって、『囚われた』と認識したんだな」


列車はもう、止まりかけていた。窓の外には見慣れたS駅のホームが見え、まだ何も知らない沢山の人々が、それぞれ自分の用事を抱えてせわしなく歩き回っていた。


「これ、どうなるんです?」

僕は、途方にくれて先生に尋ねた。


降り口には、パニックを起こした乗客が詰めかけて混沌としている。僕と先生のように座席に留まって様子をうかがっている乗客も何人か残っていたが、冷静なのはごく少数だった。


列車は無慈悲に予定通りに停止し、ドアが開いた。

人集りがホームへ飛び出して行く。


「とにかく、降りよう」谷中先生は血溜まりを大股で避けて、デッキへ出る。

僕も追った。

かれが『自爆』した現場は天井まで血しぶきが飛んでいた。


ホームは既に騒然としていた。

遅れて降り立った僕と谷中先生を、少なくはない人数の人々が、化け物でも見るような目で、険しく睨みつけた。

そう、いまや、ゾンビと人間の区別はほぼ不可能になっている。先ほどの『かれ』だって、爆発する直前までは人間と思われていたわけだ。


何度もニュースになった悪夢のような事件が、S駅でも繰り返されようとしていた。


「ゾンビ! ゾンビだ! 入られたぞ!」

改札階へと降りるための、ホーム中央の大きな階段に、逃げようとする人の群れがうねりながら押し掛ける。


「押さないで!」が、また始まった。「子供がいます!」「押すな! おい、押すな!」「子供がいるんです! 子供がいるんです!」「ダメです、やめて」「早くしろよ! なんでそこ止めてんだ!」「おい、てめえ! 何とか言えよ! てめえ、本当に人間か?」


「伊東君」谷中先生は僕のジャケットの肘あたりを引いた。「少しそっちで待とう」

谷中先生は、階段とは逆方向へ、人集りの切れ目を探して歩き出そうとした。


そのとき、怒号とともに階下から誰かが駆け上がってきて、人集りは激しく掻き乱されながら割れ、階段の片側の人々は将棋倒しになった。悲鳴。泣き声。駅員らしき人が拡声器で何か怒鳴り始める。


僕と谷中先生は、階段から駆け上がって逃げてきた一団に揉まれ、一瞬、身動きが取れなくなった。

次の瞬間、谷中先生の背中に何かが勢い良く飛びかかった。


刃物が見えた。それも、一度でなく。


人間なのか、それ以外のものなのか、分からなかった。


谷中先生は僕のほうへ倒れこむように一歩踏み出した。そのまま別な人間に突き飛ばされ、それをまた別な人間に押し返される。僕自身も、何度も誰かに背中を鋭く押された。


谷中先生は僕に鞄を押しつけながら、「そっちへ」と、掠れた声で言った。

支えた僕の手が血で染まった。


「そっちへ」谷中先生が目で示す前方には、駅弁を置いた売店がある。

カウンター向こうの店員は呆然として騒ぎを眺めていた。

誰かが、脇に置かれていた新聞のラックにぶつかり、ラックが倒れ、商品が飛び散った。


谷中先生は額に汗を浮かべながら、騒ぎと人集りを迂回し、店を回り込んだ。その裏側に小さなエレベータがあった。


谷中先生が拳を叩きつけるようにボタンを押すと、ボタンが血で汚れた。谷中先生は背中3箇所を刺されていた。灰色のジャケットが禍々しい色に染まり、その染みは恐ろしい勢いで広がっていく。


「先生」


「早く……早く……」谷中先生はエレベータのドアがゆっくりと開くのを、もどかしそうに睨み、僕を先に押し込んだ。


息切れがする。くらくらする。僕は先生の鞄をしっかりと抱きしめながら、エレベータの壁に背中を打ち付けた。鈍い痛みが走る。谷中先生は僕のあとに乗り込み、またもどかしそうに行先ボタンと『閉』のボタンを押した。


息が、苦しい。


「伊東君、大丈夫か」


「僕は大丈夫です。それより先生が……」


「俺が持つ。すまん、気づかなかった」谷中先生は鞄を僕から強引に取り返した。「伊東君すまん。大丈夫か。すまん。守ってやれなくて」


「何を言ってるんです」


エレベータが改札階に着き、ドアが開く。


広い通路が見え、その向こうに立っていた女がこちらを見て、指さしながら甲高く叫んだ。


それは、怪我をした人間を見る目ではなかった。

化け物を見る目だった。


まずい。


僕は床に崩れ込みそうになっている谷中先生を強く引っ張り、エレベータを飛び出した。


通路の向こうから、何人かが近づいてこようとしていた。目の血走った男達だ。

「ゾンビ! ゾンビだ! そこにいるぞ!」


「違います!」僕は怒鳴ろうとしたが、うまく声が出なかった。


「伊東君、そっち」先生が苦しそうに、すぐ先に見えるトイレを示した。


僕は先生を支えながらそちらへ向かった。


トイレの個室に逃げるか? いや、そこでは袋の鼠だ。ここのトイレの個室ドアは、天井との間に隙間がある。閉じこもったところで、上から攻撃されてしまうだろう。もはや話し合いが通じる段階とは思えない。


パニックを起こした集団に、何を言っても無駄だ。


僕と谷中先生は、男子トイレの入口前を突っ切り、多目的トイレの引き戸を開けた。自動で明かりがつく。僕は素早く戸を閉めて鍵を掛けた。


先生は喘ぎながら壁に背を預けて座り込み、鞄を自分の脇に置いた。


足音が近づいてきて、トイレのドアが激しく叩かれた。「開けろ! 開けろ! そこにいるのは分かってるんだ!」


「こっちは人間です」僕は叫ぼうとしたが、やはりうまく声が出なかった。喉を締め付けられたように苦しい。「ゾンビじゃない。怪我をしてます」


「開けろ!」

ドアが激しく揺さぶられた。鍵が外れるのではないかと、恐怖を感じた。

「開けろ! このやろう。なめてんじゃねえぞ。この人間の出来損ないが」


「違う……」


「伊東君」谷中先生が、座り込んだまま僕に向かって首を横に振った。「相手するな」


僕はゆっくりと、ドアから後ずさった。


外の男はしばらく聞くに耐えない言葉を吐きながらドアをゆすり続けたが、その後、何か別な騒ぎが始まったらしく、遠くからまた悲鳴と怒号が聞こえてきた。それが大きくなるにつれて、いつの間にか戸口の男の気配はなくなり、ドアは静かになった。


谷中先生はスマホを取り出し、すごく落ち着いた声で、理路整然と状況を話し始めた。かけている先は警察か消防署のようだった。


僕は洗面台に向かい、血に汚れた手を洗った。鏡を見ると、僕の服も相当汚れてしまっている。血が付いていない場所のほうが少ないくらいだ。これではふたりとも『爆発』を起こしたゾンビだと思われるのも無理はない。


洗面台がピンク色になり、見おろすと床も真っ赤な靴跡だらけだった。

僕はまた目眩がしてきて、便器の脇の大きな手すりを掴み、思わず床に座り込んだ。


「伊東君。すまん」谷中先生は電話を終えて、泣きそうな顔で僕を見た。「伊東君? 痛くないか? ……痛くないか?」


「痛いのは先生でしょう?」僕は笑っていいものか迷った。「へんなのに襲われましたね。あれは人間ですよね、きっと」


「ああ」谷中先生は溜息をついた。「人間だったかもしれないな。……ああ。いやなものだ。どうせならゾンビにやられたかったわ」


「笑えないですよ、先生」


「すまん」


外の騒ぎが、だんだん大きくなっていた。何者かの足音が駆けてきて、多目的トイレのドアを激しく揺さぶったが、またすぐに駆け去って行った。


僕たちと同じように、身の危険を感じてここに逃げ込もうとしたのかも知れない。そう思うと胸が痛んだ。だが、もう、敵も味方も区別がつかない。


「救急車が来るはずだ。少し時間が掛かるかもと言われた」谷中先生は、溜息をつきながら、ゆっくりと身体を横たえた。


「先生?」


「ごめん、起き上がってられない。君も無理をするな。ここで待とう。助けが必ず来るよ。……必ず来るからな」


「先生」僕は力を振り絞って立ち上がり、谷中先生のところまで行った。


谷中先生は目を閉じていた。顔に血の気が無い。紙のように白い。人の肌は……肌色は血の色なのだ。目の前が真っ暗になりそうな恐怖を感じた。


「先生」僕は先生の前に座り込み、その肩を思わずゆすった。


「聞こえてる」谷中先生は目を開けずに、弱々しく応えた。「伊東君、君は元気だなあ」


「何を言ってるんです、こんなときに」


先生の返事は無かった。


怖い。


ものすごく怖い。


失うのが、怖い。


「伊東君」谷中先生はすごく疲れたような声で、目を閉じたまま静かに言った。「もう、ゆすらないでくれ。君も休め」


「先生、起きて……」


「来週、ゼミに来てくれよ」と、先生は言った。


まだ言ってる。

少し笑いそうになる。


先生がここで死んでも、向山研究室のゼミは来週も開かれるのだろうか。どちらにしろ、先週預かったぶんの資料があるので、返却しに行かなければならない。

僕は来週や再来週や来月や、来年のことを思い浮かべた。


研究はどちらにせよ続く。ゾンビの騒ぎが終われば、次はAIがある。することは山ほどある。知らないことがまだ沢山ある。これから知らなければならないことが。先輩の名前も早く覚えて、ゲーム大会にも呼んでもらわないと。

向山先生にも聞きたいことが沢山ある。


ただ、もしそこに谷中先生が、来週から居なくなるのだとしたら、谷中先生がもうそこに居ないのだとしたら、僕にはその未来がまるで味気ないものにしか思えなかった。無機質で、ものすごくよそよそしい、色味のない景色しか思い浮かばなかった。


僕が魅入られたのは、化け物ではなかった。


僕をどうしようもなく引きずり込んでとらえたのは、人間だった。


それは苦しみながら闘い続けることを選んだ神白であり、取り返しのつかないものを奪われながら「後悔はない」と言い切ったトモ君であり、「打破する」と言って身軽に旅立っていったビィであり、そして、食事がとれなくなるほど追い詰められながら「世の中のため」と当然のように言った、谷中先生だった。


失いたくない。まだ失いたくない。

もう、奪われたくない。


僕はスマホを取った。手が、また、血で汚れてしまっていて、画面がうまく操作できない。電話の履歴を探す。早く。早く。


神白はすぐに出た。

「伊東君? 僕、今、手が……」


「神白。助けて」僕は無意識に言ってしまってから、そんなことが不可能だと気づいた。


「伊東君? どうしたの? どこ?」


「……いや、ただ、ちょっと話したかったから」


「何? ちょっと。どうしたの? 場所を言って」


「S駅。新幹線の改札階の、多目的トイレにいる。先生が倒れてる。刺された。ニュースになってない? ゾンビが爆発して、暴動が起きてる」


「は? え? 大丈夫? 大丈夫なの?」


「先生が駄目かも……救急車は呼んである」


「今すぐ、行く」と、神白は言った。


「君は来れないよ」僕は微笑んだ。「だって、改札の中だ。『関所』の内側だよ」


「馬鹿、今すぐ行く」神白は強い口調で言った。「僕は通行証を持ってる。何のために就職したと思ってるんだ。今行く。新幹線の改札内のトイレね。待ってろよ。今行く」


僕の返事を待たずに電話が切れた。こいつは、いつもそうだ。


なんだよ。

先に大人になりやがって。


馬鹿と言った、しかも。ああ、ムカつく。馬鹿に馬鹿って言われた。


そのうえ、僕を助けると言わんばかりじゃないか。

冗談じゃない。

あんなやつに助けられてたまるか。


谷中先生は、もうどれほど揺さぶっても返事をしなかった。

僕は谷中先生の鞄を引き寄せ、USBメモリを探した。

あんなこと言うからだぞ、先生。縁起でもないことを言うから。


涙が止まらない。






僕は戸口に座り込み、ドアのロックバーに手を掛けながら、無心になって待ち構えていた。人感センサに連動する明かりは、僕が動かなくなるとすぐに消灯してしまい、僕はもう、それをもう一度つけるために片手を振るのすら億劫だった。息苦しさは増していた。意識が闇に溶け出していく。何をしているのだろう。救急車はまだなのか。外のパニックは収まったのだろうか。


「伊東君、いるか?」

聞き慣れた声が耳に入り、考えるより先に手が動いた。


ロックが外れる。


神白が飛び込んできた。

「伊東君」


センサが反応し、明かりが戻る。眩しい白い光。眩しい。


「遅かったな」僕は笑った。


「ああ。ひどい」神白は僕の前に屈みこんだ。「大丈夫? 伊東君。大丈夫?」


「神白、知ってたか?」僕は笑いながら言った。「ゾンビには寿命があるんだ。3年だ。あと3年で全滅する。たぶんほとんどは1年か2年以内に死ぬ。もう追加で送られてもこない。終わったんだ、神白。もう何もしなくてもいいんだ。待っていればみんな居なくなるんだ」


「伊東君、何を……」


「もう君は闘わなくていいんだ」と、僕は言った。「収容センターもすぐ無くなる。働かせるのも、もう終わりだ。かれらの自我が証明された。僕と先生が終わらせてきた」


「伊東君」神白は、笑い出す直前のような顔をして、僕の両腕をしっかりとつかみ、それから真剣な目で僕の目をのぞきこんだ。

「僕の心配なんかしてる場合か! 自分のことを見ろよ。君は、刺されてるじゃないか」


「え?」

そのとき、初めて、僕は、神白の白いシャツを真っ赤に染めていく血が自分の血であることに気づいた。


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