神白の本音
3.
雨が降っている。
真夜中の雨だ。
レポートは終わっていなかったが、僕は諦めてそこまでで区切った。
カーテンを少しだけ開ける。雫が窓の外を伝っている。
濡れたくないな、と反射的に思ってしまい、僕は去年の野宿でついた癖がこんなところにまだ残っていたことを知る。
あの一時期は雨に降られるたびに、濡れながら屋根のある場所を探していた。空に雲が増えてくると、今夜の寝床をどうしようか、と悩んだ。見極めを間違えてずぶ濡れになったとき、数田はちょっと嬉しそうな顔で「伊東君の金で宿に入ろう」と言ったものだ。神白は必ず、「すみません」と言った。もっと早く宿に入る決断をすべきだった、という意味での謝罪だったのだろうが、なんとなく「雨を降らせてすみません」くらいなニュアンスに聞こえてくることがあって、おかしかった。しまいには数田まで、「じゃあ雨を止ませてくれ」と返すのだった。
清水先輩の撮った動画は数日の間にサークル内を一周した。神白が笑いながら土下座したとき、相当面白かったはずなのだが、動画で見返すとさほどでもない。なんと言うか、この画面の向こう側の連中だけが楽しいんだろうな、という、冷めた疎外感をおぼえる。「向こう側の連中」には、僕自身も含まれているのに。
「コントかよ」と塚田さんは鼻で笑った。他の人達の反応もだいたいそんな感じだった。乗ってくるときは全力だが、飽きるのも早い。これは、このサークルに、もしくは、この大学に特有な空気感なんだろうか?
雨音を聞きながら、僕はもう一度、あのパチンコ屋の跡地で起きたこと、起こっていること、これから起こりそうなことを慎重に順番に振り返った。
それから、去年の長旅でよく知っているはずの神白の性格と、もらった手紙のことを考えた。
試験や自動車教習の日程も考え合わせると、自由に動ける日はかなり少ない。
行くなら、もう行かなければ。
翌日は木曜だったが、僕は級友たちに『代返』を頼んで、S町方向へ向かう電車に乗った。
車で行くよりも遥かに時間と手間は掛かったが、2度の乗り換えの末、駅から温泉施設へのシャトルバスを捕まえて、昼過ぎには『セントラル・プラザS』にたどり着くことができた。
前夜の雨のせいで、駐車場跡地はますます悲惨な現場になっていた。はっきり言って、もう一歩も踏み入れたくない感じだ。長靴で来るべきだったのかもしれない。
「また来たの」玄関から坊主頭の青年が顔を出し、迷惑そうに言った。
「神白いる?」
「いるけど」
「2階?」
「うん」
「じゃあもう、そっちから上がるね」
僕は外付けの非常階段のほうを指した。
坊主頭は「うん」と「ふん」の中間くらいの生返事で、興味もなさそうにまた建物内へ引っ込んだ。
2階は、立体駐車場になっていた。屋根があるが、壁はほぼ無い。建物の裏手に樹々の生い茂る急斜面が迫っており、この巨大なベランダのような形の2階からは、確かにその『森』をよく見渡せた。
神白は手すりに身を乗り出すように預けて、じっと森を観察していた。
今日はバンダナをつけていない。Tシャツはよく分からないピンク色で、クタクタになったジーンズを履いていた。
「いたよ」
神白は僕の足音を仲間の誰かと思い込んだのか、振り返らずに言った。
「いたけど、駄目だね、たぶん獲れない」
「神白」
「え?」
神白は振り向いて、一呼吸置いてから笑った。
「何してるの? あれ? 伊東君だよね?」
「なんだそれ」僕は吹き出した。「僕は伊東だけど」
「いや、偽物かと思った。ああ、びっくりした。来てたの」
「今来たんだ」
「先輩は?」
「今日は置いて来た」
「なんだよ、残念だなあ」神白はまた手すりに乗り出して森を眺め始めた。
「残念って何」と僕は言った。
「楽しかったのに、あの先輩」
「また来るって言ってたよ。今度は温泉に入るって」
「ああ、あそこいいですよ。露天風呂、広くて」
「神白、こっちを見ろ」と僕は言った。
「僕、今、忙しいんですけど」
「僕はもっと忙しいんだよ。今日は本当は講義が5コマあったんだ」
「大変そうですねー」神白はものすごい棒読みで返事をした。
「こら」僕は神白の背中をどついてやろうかと思った。「なぜ手紙を出した? 僕に用なんじゃなかったの?」
「えっと……近況を知らせとこうと思って」神白は背を向けたまま言った。「それに、伊東君の近況も知りたかった。お母さん、見つかった?」
「ああ、僕が帰ったら、もう帰ってた。道路の封鎖に巻き込まれたとかで」
「それは良かった。ずっと心配してた」
「嘘つけ。ずっと忘れてたの間違いだろう」
「いや、そんなことはないよ」と神白は言った。「ただ、連絡取れるとはあんまり思ってなかったんだ。君は中国へ行くと言ってたから」
「ああ……。彼女には、捨てられた。付いて来るなってさ。恋人になるのも、お断りだって」
「ショウコさんらしいね」と神白は言った。
「ちょっとさ、人がふられた話をしてんのに、返しが雑すぎない?」
「伊東君くらいのイケメンでも、ふられることがあるんだね」神白はまるで本気にしていない口調で、「けど女は星の数ほどいるさ。次へ行こう」
「まったく心のこもってない慰めをありがとう。お前を殴りたいよ」
「なに、伊東君、僕に恋愛相談しに来たの? それは人選ミスというものだ」
「誰が相談するか」と僕は言った。「相談があるのは、神白のほうだろう」
「そうかなあ」神白はまだ、森を見ていた。
僕は腕時計を見た。5分間待って、彼が何も言わなかったら帰ろうと思った。
本音を言いたがらない奴に口を割らせる技術など、僕には無い。だから単純に黙っていた。
何かの修行なのかと思うほど、気まずい時間が2分間続いた。
5分も耐えられそうにないな、と思い始めたとき、神白はようやく「あの」と口を開いた。
「伊東君」神白は森のほうを眺めたまま、「僕ね……怖い。怖いよ」
押し殺すような声だった。
「ヤツラが怖い。今、世の中で、起きていることも」
僕は黙っていた。
「トモ君のことを……」神白はそこで言葉を切って、しばらく何も言わなかった。
森から降りて来た風がこちらに吹き付けている。
空気は新鮮で、甘い。風にうねりながら揺れる緑色は目に鮮やかで、ところどころ日光を反射して輝いて見える。
特に用事が無くても、ずっと眺めていたい景色だった。
「トモ君を傷つけた。一生歩けなくした」神白は声を詰まらせるようにして続けた。「許せない。僕じゃなく。僕じゃないもの、僕より大事なものを奪われた。怖い。……許せない。自分が許せないんだ」
「あのさ、その話じゃなくてさ」僕はなるべく控えめに言った。
「その話じゃない?」神白は急に振り返った。「僕、これより大事な話は無いかと思ったんだけど」
「じゃなくて、『アキちゃん』の話をしにきたんだ。トモ君のことはほっとけ。あいつは幸せそうにしてたよ。僕がS駅で見た限りではね」
神白は黙って、すごく不思議なものを見るような目で僕を眺めた。
ああ、この人本当に、馬鹿なんだな。
数田が世話を焼くわけだ。
世話を焼きたくなるような『隙』がある。
「あのさ、神白がもし……今、ここで困っているなら、僕に」
僕は、途中で自分が何を言っているかわからなくなった。
「……手伝えることがないか、聞きにきたんだけど」
「手伝う?」神白の顔に、すごく微かに、何かの表情がよぎった。それは一瞬だけだった。
「君、帰れなくなってない? ここから」
「そんなことはないよ」と神白は言った。
「わかった。じゃあ僕の用事は終わった。今日はもう帰る」
「ゆっくりしてったらいいのに」と神白は少し笑った。
「いや、なんでこんな所でゆっくりしなきゃいけないの。自分ちでゆっくりするよ。マジで馬鹿なんじゃないの」
「わかった、わかったって」
「神白、僕は本当にもう帰るよ。そしてもう、8月までここには来れない。忙しいからね。先輩とまた来るかもしれないけど、温泉に入りにね。いちいち君のために時間は取れないよ」
「僕は君の彼女か何かなんですか?」
「あと、僕はAmazonじゃないんだよ。注文伝票みたいな手紙を送ってこないで。Amazonで買えよ」
「一回くらい、いいじゃないの」神白はちょっと笑いかけてから、急に真顔になって、「あのさ、ねえ……トモ君は、なんで僕の自警団を横取りしたんだろう」
「ああ……」
なるほど。
『帰れない』じゃなくて、『帰りたくない』のほうか。
「横取りされたの? 謀反じゃなくて?」
「裏から煽ったのはトモ君だ。実は、そうじゃないかとは思ってた。S駅であいつとあいつらが一緒にいるのを見て、やっぱりそうだったとわかった」
「まあ、兄弟の持ってるものって、取りたくなるものなんじゃないの」と僕は言った。「もしくは、君が兄貴づらをするからウザくなったとか」
「でも、兄貴だもの」神白は苦笑いした。
「というか、本人に聞かなかったの? 派遣で働いてる間は家にいたんでしょ?」
「向こうは入退院繰り返してたし。そうでない時も、僕が顔合わせないようにしてたから」
「ああ、それ……ひとつ屋根の下でやられるとキツイやつ。僕もやられたことある」
「伊東君、兄弟いたの?」と神白は言った。
「うーん……そっか。言ってないか」僕は溜息をついた。「僕の妹は、死んだんだ」
神白は、僕のほうが申し訳なくなるくらい、戸惑った顔をした。
「ごめん」と神白は言った。「僕、すごく無神経なことを……」
「そんなでもないよ」
「そうか、だからあのとき、彼女と墓地に……。ごめん。本当にごめん」
「え、何、君が殺したのか?」
「知ろうとしなかった」と、神白は言った。
「それはお互い様だ」
神白はしばらくの間、僕の足元の辺りへと目を落として黙っていた。
「僕、ほんとに帰るよ。ほんとに忙しいんだ」と、僕は言った。
「慌ただしいですね。これだけの用事で来たの?」
「君がスマホの料金払わないからだろ。メールで済むことなのに、世話の焼ける」
「すいません」神白はニヤニヤ笑った。「親に交渉したんだけど、ダメで」
「働けよ」
僕は本日いちばん大きな溜息をついた。
「世の中の人はね、みんな働くか学ぶかしてるんだよ。いい歳してなんで親に払わせようとしてんの。中学生か」
「いや、うん、まあ」神白はまだニヤニヤ笑ったまま、「これが終わったらまた働きますよ」
「アキちゃん……」
「何、リューイチ君」神白は面白半分な口調で返した。
「トモ君は心配していたよ、去年。アキちゃんのこと、恨んでいないよ。あと、君のことを弟だと言っていた」
「まあ、言いたきゃ言わせとくさ」と神白は言った。「僕が兄だという事実は変えられない」
「トモ君は生きてるんだ。結構楽しそうだったよ、彼はあれで。君も、もうゾンビのことは忘れろよ。くだらんことしてないで、早く帰って来て。僕はもう迎えに来ないからな」
「くだらんこと、と言ったな」神白は腕組みをして手すりにもたれ、しばらく僕を眺め回した。「……まあ考えておくよ。ありがとう。伊東君、もう帰っていいよ」
「……また、そういう、嫌味」
「君が言ったことじゃん?」神白は楽しそうだった。
あるいは、嬉しそう、と言うべきか。
「わかったよ、あの時はごめん。また来るよ」
僕は歩き出した。
「ああ、やだなあ。伊東君が素直だと不気味だ。明日世界が終わるのかも」
神白は非常階段の降り口まで付いて来たが、そこで立ち止まり、
「僕が出て行くと万が一『守る会』に出くわした時、揉めるから。ここで」
「何度も聞いて申し訳ないけど、君たちは何をやってるわけ? 虚しくならない?」
「いや、とても楽しいですよ」と神白は言った。「伊東君もやってみればわかる」
「わかりたくないよ」
帰りのシャトルバスがなかなか来なかったので、僕は温泉施設の周りをブラブラと歩き回って、スマホで景色の写真を撮ったりして過ごした。
高原のふもとの初夏は、ものすごく静かで、平和だった。
化物がどこかにいるとしても、森から出て来ないのなら、そっとしておいても良い気がした。
もちろん、僕自身、その考えは欺瞞でしかないとわかっていたが。




