避難所と別れ
3.
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8/1 13:42
龍一へ
お母さんは、ひなん所にいます
次の帰宅は
8/5
12:30
予定は未定
ひなん者番号100333271
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その下には町内会の集会所になっている多目的ホールの住所と、簡単な道順が書いてあった。
「お兄ちゃんのママらしいね」
冷蔵庫に貼られたメモを見ながら、ビィは言った。
「賢そうだし、お兄ちゃんに似てそう」
家の様子はほとんど変わっていなかった。ただ、ダイニングテーブルの上に、日持ちのする食料品や日用消耗品のストックが大量に積み上がっていた。それぞれ、一部開封されたものもあれば、業務用サイズで箱ごと新品のものもあり、また、何処かからバラバラに掻き集めて空袋に詰めたようなものもあった。いずれも母が少しずつ手に入れては持ち帰ってきたものなのだろう。
僕はメモを見つめて溜息をつきながら、全身の力が抜けていくのを感じた。
母が無事だったことを、神白には伝えておきたかった、と思った。
一瞬、今から追いかけたら間に合わないか、と考えてしまい、僕は自分の執着心にびっくりした。
「ここに行ってみる?」ビィは住所を指して聞いた。
「いや、まず食べよう」
僕は積み上がった食料品の中から、すぐ食べられるものを探した。
乾パン、スナック菓子、チョコレート、シーチキンの缶詰、などと奇妙な組み合わせの食事になったが、僕もビィもかなりの勢いで食べた。空腹を満たせるというだけのことでも、相当の充実感があって、食べているうちにすっかり気持ちが落ち着いてきた。
テレビをつけると、しばらくぶりに見るローカル放送ではグルメバラエティのようなものをやっていた。市内の個人経営らしい食堂が映っていて、アナウンサーと芸人の組み合わせで4人の男女が、ベタなギャグを言い合いながら丼を食べている。画面下部には、この撮影が今年の1月に行われたものであるという断り書きが入っていて、今現在はここで同じような食事を期待できない、ということを暗に念押しされているように感じた。
食べてしばらく休んでから、僕とビィは「避難所」に向かった。
空は少し曇り始めていた。この地域の夏にはありがちな、湿っぽく冷えた風が吹いている。肌寒いような気がするのに、湿気が多すぎて暑苦しい。空気の汚さ、どこかしらから聞こえ続ける車の音にもうんざりした。今までいたB山中の町が静かすぎたのだ。
多目的ホールは確かに避難所になっていた。入口前の駐車場にはスタッフ用と思われる簡易テントが設置され、受付のようなものも置かれていた。しかし、そのテーブルについている若い女は何をするというわけでもなくぼんやりとしており、大抵の人間はその前を素通りして自由に出入りしているようだった。
僕も他の通行人に習って、勝手にホールへ入った。
ホールの3分の2ほどの床が、ブルーシートで覆われていた。そこが寝泊まりできる区画のようだった。避難者は30組ほどだろうか。もともと大きなホールではないので、この程度の人数でも相当ごった返していた。
ブルーシートの上には避難者が各自で持ち込んだと思われる間仕切り、ダンボール、小道具やインテリアの類が並び、かなり本格的に「部屋」を建設している人もいれば、寝袋ひとつで無頓着という人もおり、だいぶ混沌とした眺めだった。
数秒見渡していると、こちらに手を振る母が見つかった。僕はブルーシートの端で靴を脱ぎ、避難者たちがそれぞれ確保している区画の隙間をなんとか抜けながら、そちらへ向かった。
母は「寝袋ひとつ」派のようで、区画には最低限の生活用品しかなかった。あとは、編みかけのマフラーのようなものを膝に置いていた。ふだん手芸をするような母ではないが、ここにいると暇なのだろう。
「よく来たね。おかえり」と、母は言った。
「あ、うん、ただいま」
僕はちょっとぼんやりして答えた。
「何とかなってた? ごめんね、道路の封鎖に巻き込まれちゃって。何度か家に帰ったんだけど、居ないみたいだから、どっかで何とかしてるんだろうなあとは思ってたけど」
「まあ、どっかで何とかしてたよ……」僕は少し笑ってしまった。
「大丈夫? ご飯食べてた?」
「うん、さっき家に着いて、台所のもの、もらったよ」
「ああ、あれね、食べててね。まだまだ増える予定だから」
「父さんと連絡ついてる?」と、僕は聞いた。
「付かない。手紙が届かなくなったね。まあどっかで何とかしてるでしょ、あっちも」
「僕、父さんのところへ行こうとして……それで」僕は急に胸がいっぱいになってしまい、言葉に詰まった。
「うん」母は僕を見つめて頷いた。「ごめん。ありがとう。行ってくれたんだね」
「F県までしか行けなかった。関所が……通れなくて、今までずっとF県にいた」
「お疲れ様」と母は言った。
僕はその場に立ったまま泣いてしまった。
「大変だったでしょう」母は寝袋の上に僕を座らせた。
なにぶん、まったくプライバシーの無い場所なので、僕の涙も1分とは続かなかった。周りの視線を感じる。
「ごめん、余計なことさせちゃったね。ずっとひとりでFにいたの?」
「友達と……」僕はそこでようやく、ビィが付いて来ていないことに気付いた。
ホールに入る直前までは、確かに一緒にいたはずなのだが。
「それならまあ、ひとりぼっちよりはだいぶ良かったわね」と母は言った。「苦労かけちゃったね。疲れたでしょう」
「もうあの家には住めないの?」
と、僕は聞いた。
「あ、そんなことないよ。お母さんはさ、ほら、喘息持ちでしょう。発作が出ちゃって、色々探し回ったんだけど、結局ここにいると一番並ばずに食事と薬がもらえるから、しばらくここにいることにしたの」
どうも、流通の混乱は医薬品にまで及んでいるようだった。病院で処方箋を貰っても調剤薬局でそれが出ない、などということが増えているらしい。
この避難所はたまたま、近くに大病院があることや、避難所開設に関わった医師たちの手回しが早かったことで、避難者たちの常用薬をある程度確保できている。
ただ、原則は家に帰宅できない人のための場所なので、家のある母はいつお咎めを受けて追い出されるか分からない状態らしい。
「うちに帰れない人がそんなにいるの?」
「うん、ほら、Y県から来たっきり、それこそ関所を越えられなかったり、あとは、家に放火されたとかも多いみたい」
相変わらず、そうした嫌がらせ風のテロも収まっていないわけだ。いつまでこんなことが続くのだろう。
とくに理由が無ければ家で休んだほうが良い、と母に説得され、僕は帰宅することにした。
「お金はまだある? 持ってってたよね?」
「あの、2……」
「ここで金額は言わないで」母は口の前に両手の人差し指でバツを作った。「残ってるのね。そしたらそれで何とかしておいて。あと足りなくなる前に補充はするから」
「うん」
「体調良くなったら、お母さんも戻るよ」
「お大事に」
「アリガトー」母は友達みたいな仕草で手を振った。「気をつけてね。戸締りしてね。野菜食べてねー」
「はいはい……」
ビィはホールの外で待っていた。僕が出てくると、片手をあげた。
「一緒に来て良かったのに」
「いや、まあそれは、また今度で」とビィは言った。「お母さん大丈夫だった?」
「喘息の発作が出たって。まあいつものことなんだけど」
「ええ? じゃあこんなゴミゴミしたところに居ない方がいいんじゃないの」
「けど、ここ以外だとなかなか薬が手に入らないって」
「うーん、ひどいなあ……」
ビィは珍しくかなり深刻な顔でそう言った。
「まあ、並ぶのが面倒だってことだと思うけど」
「そうね、でもさ、並ばないと自分の健康が買えないなんて、まったく意味のわからないことだよ」
その後は、台所のストックを消費しながら、何とも言えず落ち着かない日々を過ごした。
市役所へ行ってみると、それなりに待たされはしたが、パスポートは作ることができた。
ビィは市内の中央郵便局まで行って、局留めという形で手紙をやりとりし、中国でのプロジェクトの関係者と連絡をつけていた。とはいえ、いったん手紙を出してから向こうの返事が来るまでに相当なタイムラグがあるので、ほとんどの日は暇そうだった。
母は数日おきに何かを持ち帰ってきて、台所に積み上げ、また避難所へと戻っていった。母が来る時間帯、ビィはたいてい「店を開拓しに」出掛けていて、ふたりを引きあわせる機会が無かった。女の子を泊めていることを恐る恐る報告すると、母はぱっと目を輝かせて、「あら彼女? そりゃいいわね。よろしく言っといてね」と言った。
僕は母に、ここをまた離れるつもりであることを言い出せなかった。
母が無事だった以上は、ここに留まって今後の生活を確保すべきなのかも知れない、とも考えた。
迷っているということを、ビィにも言い出せなかった。それが何よりもつらかった。
何もかも誰かに話して、重荷をすべて下ろしてしまいたかった。
でも、ビィの立場から出てくる言葉と、母の立場から出てくる言葉、今はどちらも聞きたくなかった。言われればますます気持ちが揺れ、まともな決断をできなくなりそうだった。
神白に会って話したい、と思いそうになって、僕はそのたびに強くそれを打ち消した。何かを「考えないように」することは、考え続けるよりもずっと困難だった。
帰宅してから15日目、高校から手紙が来た。どうやら、先月頃バラバラに発送された3通が、遅延しまくった末、まとめてようやく着いたようだった。
1通目は、各大学と連携を取り合って今年度の入試を例年どおり遂行できるように調整しているという連絡だった。
2通目は、任意の課外授業という形で授業を再開するという報せ。
3通目には、初回の課外授業の様子、参加した生徒達からの反響などが記され、合わせて今後の時間割予定表が入っていた。
「時代が変わっても知識の価値は変わりません。伊東君に再び会える日を心待ちにしております。」
時間割表の端に、担任からの書き込みがあった。ふだんこんなことを言ったり書いたりするタイプの担任ではなかったので、僕は思わず笑った。
現在登校していない生徒全員に同じ文言を書き送っているのだろうけど、きちんと手書きで、名前入りで声を掛けてもらえたことが、意外にも嬉しかった。
「いいことあった?」
夕食のレトルトカレーを食べているとき、ビィが食卓の向かいから聞いた。
「そう見える?」
「うん、今日は顔が明るいよ」
そう言われてようやく、自分の気持ちが晴れてきたことを実感した。
「担任から手紙が来た。学校に戻らないかって」
「ふーん。行くの?」
ビィは軽い口調で聞いた。
僕は少し考えてから、「行こうと思う」と言った。
「大学を受けるんだね」
「うん」
僕は短く答えてから、何かを言う必要があると思って、言葉を掻き集めた。
「やっぱり、何年もこのために、今年のために準備してきたし。それなりに意味のあることだと思ってて、だから」
「そうだと思うよ」とビィは言った。
「ごめん」僕は顔を上げてビィを見た。「中国へは行けない。一緒に行こうと思ってたのに……」
「私は思ってなかった」ビィはすごく穏やかに、そう言った。「私はお兄ちゃんは来るべきでないと思ってた。実は、置いて行こうと思ってた。このままずるずると付いてくるようなら、騙し討ちで置き去りにしようと思ってた」
僕は笑ってしまった。「すごいな。ひどいな」
「私にひどいことをさせないでくれて、ありがとう」
「一応さ……なんで僕を置いて行こうと思ったの?」
「来たくなさそうだったから」とビィは言った。「私とは別れたくないけど、中国には行きたくないな、っていう顔をしてたから」
「まあ、そうだね。うん、本当にそうだ」
「それでいいんだよ。別に永久に会えなくなるわけじゃないんだから……。お兄ちゃん、誰かとちょっと遊び終わるたびに、そんなに深刻な顔をしちゃ駄目だよ。会いたかったらまた会えば良くない? 中国はすごく近いよ。思い付いたらすぐに行けるところだよ」
「そうか……」僕は深く溜息をついた。「僕ってそんなにいつも深刻な顔をしてるんだ?」
「してるしてる。すごいしてる。もう明日死ぬのかなって顔してる」
「そんな覚えは、まるで無いんだけどね」
「そうなの? 私ね、いつもお兄ちゃんと遊び終わって帰るとき、あ、もしかして今から私は死ぬのかな? って思うんだよね。なんか、死地に向かう人を送り出すような顔をしてるんだもの」
そうなんだろう、と思った。僕はこの数年ずっと、誰かと離れるとき、これが最後かも知れないと自分に言い聞かせてきた。
これが最後となっても、決して悔いを残さないようにと。
でも、それはビィの立場からすれば、あんまりな八つ当たりでしかない。
「いや、ほんとにごめん」と僕は言った。「ごめんなさい。気分悪かったよね」
「まあ、いいじゃないの。それはさ」とビィは言った。
「……僕は君が好きなんだよ」僕は思い切ってはっきりと言った。「本当に、付き合って欲しいんだ。彼女として」
「ごめんね、彼女にはなれないんだよね」ビィはすぐに答えた。
「分かってる。分かってる……けど、ショウ…」
「その名前も私の名前じゃないんだよね」と、ビィは遮った。「馬場ショウコというのは、私の友達の名前、借りただけなの」
僕はもうそれ以上言葉を思いつかなかった。
「ごめんね。何もできなくて、ごめんね。私はあなたに、深入りしすぎた」
「なんでそんなこと言うんだよ」僕は思わず強い口調で言った。
直後、本当に死にたくなるような自己嫌悪がおそってきた。
「ごめん、僕が言いたいのは……」
「お兄ちゃん、落ち着いて」ビィは穏やかな声のまま、「言ったでしょ? 私には何でもわかるんだよ。全部わかっている。だから落ち着いて」
「なんで彼女になれないの?」
と、僕は聞いた。
「え、すごいこと聞くねー」ビィはにこにこした。「今まで告白して断られたこと、無かった人だね? まあ、見るからにそんな顔だもんね……」
「ああ……わかった。すみません」
カレーはほとんど手付かずだったが、僕はいったん席を立った。
廊下に出る。すっかり夜が来ている。後ろ手に戸を閉めると、真っ暗だ。
でも、明かりが欲しくない。
ほんと、何やってるんだろう。
苦しい。胸が苦しい。
本当に胸が苦しくなるんだな。
僕は恋をしていたのか。
終わってからそれに気づくなんて、本当にバカだ。
初めての恋で、初めてふられてしまった。




