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恐ろしい乗客

四章



1.


ビィが時間差で熱を出したので、結局2泊3日、ビイにとっては3泊4日の滞在になった。


その間、数田家の他の人間とは一度も顔を合わせなかった。

同じ敷地の奥側に「離れ」があって、そちらのほうが新しくて使いやすいらしい。両親と祖母はそちらに住んでいて、こちら「本宅」のことは兄弟に任せきり、干渉してこないそうだ。


「仲が悪いわけじゃないんだよ」とヨシオは言った。「ただ、こっちの家はこっちの家で、使ってないと腐るから。維持するのも楽じゃないぜ。ほんとは貸しに出したいんだけど」


僕にはまったく理解できない世界だった。


出発の朝、ヨシオは既にいなかった。早朝に職場から呼び出しが掛かって、既に出勤したとのことだった。


数田がミニバンで駅まで送ってくれた。


「スーちゃんは一緒に来るのかと思ってた」と、ビィが言った。「誘われればどこまでも付いてくる人じゃないの?」


「まあ、いずれM県には行くと思う」と数田は言った。


「来たらうちに寄って」と神白が言った。「住所教えとくから」


「僕のは教えないよ」僕は急いで言った。


「いや、どっちの家にも行かんよ。俺は他の用事で行くつもりだから」数田は冷たかった。


駅はほとんど他の民家に埋もれかけていた。言われなければ素通りしてしまうくらいの存在感で、改札脇のキオスクにシャッターが下りている。


「あのさ、ごめんね、迷惑をかけて……」

車を降りるとき、神白が言った。


「それは別にいいんだよ」と数田は言った。「頼ってもらえて、嬉しかった」


友達がいなさそうな人だ、と僕は思った。しかし彼の場合、友達を作れないというより、そもそも友達を必要としない人間に見えた。


全員が車を降りると、数田は助手席の窓を下ろして「伊東君、バイバイ」と言った。


「うん、もう会わないよね、さようなら」


「ショウコさんも、気を付けて」

数田は言いながら、すっと発進した。ミニバンは、ロータリーなど無い駅前の道路をあっという間に遠ざかり、角を曲がって消えた。


「あ、マジであいつ」神白は呆れた風に言った。「僕に挨拶はないのかよ。住所も受け取らないし」


「そりゃ、この状況で住所だけ知ってもね……」

ビィは改札の奥を見やって言った。


元は無人駅だったであろう、こんな寂れた駅にまで「関所法」の施行は行き渡っていた。これが中央集権か、と僕はちょっと感心してしまった。


改札のすぐ内側にのっぺりとした深緑色の壁が作られている。その中心には、人ひとりがやっと通れる穴が開いており、その輪郭は空港でよく見るような金属探知ゲートになっていた。


紺の制服を着た男が3人いて、ひとりは身分チェックをし、ひとりは金属探知機が反応した場合に手持ち式の探知機で再検査、あとひとりが記録を取る。

以前、他の駅で見た光景と同じだ。


しかし、この駅の使用頻度が元から非常に低いこともあって、この関所には物々しさよりも場違いな感じがあった。

駅どころか、この辺り一帯に僕たち以外の人影はなく、3人の係員は「退屈を紛らわすものがやっと訪れた」という顔で僕たちを見ていた。


僕たちは3人とも、土産物屋の女経由で発行された「今野研究室」の通行証を使い、ほぼ素通りで改札に入ることができた。

これが無かった頃、どこの関所へ行っても質問責めを受けた末に追い返されたことを思うと、不思議な気分だった。


関所法のせいなのか、元からそうなのか、列車はガラ空きでほぼ貸切状態だった。車両は3つしか無く、後ろの車両には僕たちだけ、中央の車両は無人、前のほうにはスーツの男性と女性が一人ずつ。


列車は何度も小さな駅に止まった。どこの駅からも、誰も乗ってこない。景色はずっと、代わり映えのない田んぼと民家、雑木林の茂る小山、ずっと向こうに見える湖。


これでやっと帰れる、という実感は無かった。だいたい、問題は何も解決していない。相変わらず母の行方は分からず、父とも連絡が取れない。

しかし、少なくとも神白は帰るべき実家があるのだし、そもそもこんなことになったのも完全に僕の巻き添えだ。


「あのさ、今後の予定なんだけど」と、僕は言った。


神白はこちらを見た。


「僕たちはいったん僕の家に戻って、準備をしたら、中国へ行こうと思う」


「中国?」神白はさすがに驚いた顔で聞き返した。「それは山口県あたりのことじゃないよね?」


「うん、中国地方じゃなくて、人民共和国のほうね」


「なんでまた…」


「ビィが、ハッカソンの初期の立案者と連絡が取れて。立案者は結構前にあそこを離れてて、今は中国で、ゾンビのセキュリティを突破するプロジェクトをやってるらしい」


「アレには司令塔があるはずだから」と、ビィは口を挟んだ。「衛星通信で遠隔から一括操作できると私たちは踏んでる。もしこれが成功すれば、いま日本中で動いてるゾンビを一網打尽にできるはずなんだよ」


「それは、すごいな」神白はよく分かっていないような顔で言った。


「とにかく安定したネット環境が必要だし、中国はいまや技術大国だから」ビィは言った。「それに、単純にインターネットがしたいという理由で海外へ出る人は一定数いるらしいよ。あちこちにルートができている。中国のネットも色々微妙なんだけど、まったく見れないよりは遥かにマシってわけ」


「確かになあ。僕もたまにパズドラは恋しい」神白は真顔で言った。


「じゃあ、あなたも来る?」


「いや、僕は……」神白はそこで間を置いた。「うーん、ネットはもう一度したいなあ。そっか、海外へ出れば、見れるのか……。まあでも、今年はやめときます。これから台風の季節だから」


「台風?」僕は聞き返した。

神白の言うことがまったく分からなかった。


「実家の、家業を手伝わないと。僕の家は一応、農家だからね」神白は微笑んだ。


僕はそのとき初めて、今まで大きな認識の齟齬を生じていたことに気づいた。


住むところが違っている、ということに。


僕たちにとっては、神白の住む町は何も無い場所で、そこから出ようともせずブラブラしている神白は得体の知れない引きこもりでしかなかった。しかし神白にとっては、そこに全てがあったのだ。


「……ごめんね。巻き込んでしまった」


「いや、僕が巻き込んだんです。当初の予定通り、電車で移動していれば伊東君は安全だった」


「どうだろうね……それは」


関所法の施行開始はあまりにも突然だった。事前に告知はされていたはずだが、僕や神白のように世間知らずな若造にとっては、まったく為すすべがないほど唐突なことだった。結局、その開始日にどこに居たとしても、同じような結果になっていた気がする。


「とにかく、僕はあのときは気が塞いでたから、ちょっと遠出したかった」と神白は言った。「それで、結果的には、十分すぎるほどリフレッシュできましたよ」


「どうして気が塞いでたの?」


「そりゃ、自警団作るのにけっこう苦労したもの。何事も立ち上げが一番難しいのに、出来上がったところを横取りされて面白くはない」


「どうして取られちゃったの?」


「言ったでしょう? 謀反を起こされた。下手に民主的な組織にしてきたのが悪かった。リーダーの自分が多数決で追い出されるなんて、予想できる? こんなことなら滅茶苦茶横暴な独裁者をやれば良かったかなって……でも、そんなやり方は僕には向いてない。それで、ずっと考えて、何故こんなことになったんだろうって」


「考えすぎ」と、ビィが窓の外を見たまま言った。「どうせ猿山のボスなんだから、もっとバカにならないと」


「まあ、君には向いてないんじゃない」と、僕も追い打ちをかけた。


「そう思う?」


「中身はともかく、見た目に威厳がない」


「ああ、まあね……」神白はなぜかそこで声を立てて笑った。「伊東君が僕の中身を評価してるとは知らなかった」


「だって、中身は怖いよ、君は。ときどきすごいサイコ野郎なんじゃないかと思う」


「そうそれ、わかる」とビィが口を挟んだ。「丁寧に頭下げながら銃とか乱射してきそうな感じあるよね」


「いや、なにそれ。どんなイメージ持たれてるんですか、僕は」


間も無く電車はまた、小さな駅に止まった。今までの駅での停車に比べると、長い停車だった。車両が連結される旨の車内放送が入り、ガチャンガチャンと重たい音がして、今まで先頭だった車両の前に別な車両が繋がった。


その次の駅で大量の乗客が乗り込んできた。

車両は窓に背を向ける形で横長の席が設けられ、中央は大きく空いている。その広い空間に列をなして乗客が入り込み、すし詰めとは行かないまでも、一見ほぼ満員という状態になった。


僕はぼんやりと彼らの足元を眺めながら、会社員はどうして皆、似たような靴と服しか着ないのだろう、まるで制服のようだなと考えていた。


しかし、気づくとビィが、痛いほど強く僕の二の腕を握りしめていた。


そこで初めて、何かが変だと気付いた。


乗り込んできた乗客たちの足元は、似たような靴ではなく、まったく同じ靴だった。茶色いフェイクレザーのビジネスシューズ。靴下は黒、スーツはダークグレー。全ての足が、ぴったりと正しい方向を、つまり車両の右半分に乗る者は進行方向に対して右を、左半分に乗る者は左を向いている。列は右向きと左向きで2列ずつ作られ、定規で測ったように正確な等間隔だった。


沢山の乗客がいるはずなのに、誰も一言も喋らず、息遣いも、衣擦れの音も聞こえない。何十足もの同じ靴、同じ足が、貼り付けたようにその場を動かず、一糸乱れず直立していた。


僕は自分の目の前にきっちりと形作られた足の列を見ながら、顔を上げる勇気が出なかった。膝と膝が付きそうなほど、息がかかるほど近くに、得体の知れないものが並んでいる。


気味の悪い列の向こう、僕たちの斜向かいに3人の中年男が座っており、彼らだけは間違いなく人間らしく見えた。しかし、役人風の生真面目な見た目でありながら、目だけが非常に鋭く、特に右端のひとりははっきりとこちらを値踏みするように睨んで「見ている」ことをアピールしてきた。


その3人と僕たち以外は、席に座っている者はいない。


胃の真下あたりが、氷を入れたように冷たく感じた。情けない話だが、僕はビィの顔も見ることができなかった。身じろぎをするのが怖かった。


逆隣に座る神白の拳が膝の上で硬く握り込まれ、浮き出た関節の周りが真っ白になっていた。

まさか闘う気じゃないだろうな。


列車は単調な揺れを刻みながら走り続ける。改めて見ると、とても遅い。飛び降りたって痛くないように思える。いや、この際ものすごく痛かったとしても、ここに座っているよりずっとマシじゃないのか。


地獄のような時間だった。呼吸の仕方が分からなくなりそうだった。得体の知れない人でなしが吐いた空気を僕は吸っているのか? いや、そんなことを考えては駄目だ。死にたい。死にたい。死にたい。


車内放送が入ったが、僕は聞き取れなかった。音が言葉として認識されない。ただ、次の駅名を告げたらしいことは何となく分かった。


「伊東君」神白が僕の耳元で、ほとんど声を出さずに囁いた。「降りるよ」


列車がブレーキをかけ始める。キュルキュルと甲高い摩擦音が響き渡り、身体が自然と傾く。足の列は微動だにしない。降りることができるのか不安になったが、僕たちが立ち上がろうとするとさっと足の列が後ろに下がり、ドアまでの道のりが空いた。その昆虫のような動き方に、僕はまたぞっとした。


顔を上げられない。振り返れない。ヤツラの顔を見たら、絶対にこの場で吐いてしまう。


電車は僕たちを締め出すように下ろすと、軋んだ音を立てながら加速して去って行った。


誰もいない、屋根も無い、小さな素朴なホームだった。僕はその端まで行って吐いてこようかと思ったが、

「お兄ちゃん!」

と叫ぶビィの顔が喜色満面、興奮に輝いていたので、呆気にとられて吐き気を忘れてしまった。


「見た? すごい。アレは進化系だよ。あの自然な歩き方を見た? 人間のように歩いてたよ!」


「君さ……」僕はしばらく絶句してしまった。


「それに、電車の揺れに合わせて重心を変えたよ! 見た? アイツら、吊り革を持たずにずっと立っていた!」


「驚くポイントはそこですか」神白が言った。「僕、すごい怖かったんですが」


「あ、怖がってたんだ」ビィはけろっとして言った。「ぶん殴ろうとしてるのかと思った。あなたが暴れ出したらどうしようかと思ったよ」


「僕もそう思った」と僕は言った。


「いや、ちょっとそれも考えたんだけど」神白は平然として恐ろしいことを口にする。「でもあの3人が操ってるんだろうから、たぶん移動をさせているだけで攻撃の意思は無いんだろうし、手を出すとまずいことになる気がして」


「たぶん公的機関だよね」ビィは言った。「警察っぽい顔だったね。その類でなければ、関所を通れないはずだし」


「何が起きてるんでしょう。政府公認で動いてるゾンビがいるってこと?」


「私たちと同じようなことをしてるのかも」とビィは言った。「捕まえて、コードを書き換えて、自分たちの手駒として取り込むっていう。でもよく、あんな堂々と電車になんか乗せるね。インターネットが無ければ噂なんて広まらない、どうとでも情報統制はできるって算段なのかな」


「やっぱり、ネットが止まってるのは政治側の意向なんでしょうか」神白はぼんやりと電車の去った方向を眺めた。


「そうなんじゃないの、分からないけど。上からストップをかけない限りは、復旧を阻止できるようなものじゃないはず」


「ですよね……」


僕は改めて吐き気が込み上げてきたので、ホームの端まで行って全部吐いた。


僕が戻ってくると神白はペットボトルの水をくれた。

「大丈夫?」


「大丈夫ですよ」僕はできる限りゆっくりと息を吐いた。「どうぞお気遣いなく」


「あっちに座ろうよ」ビィが僕の手を取って、ボロボロに錆びたベンチを指差した。塗装がほとんど剥げていたが、コカコーラのロゴ入りなのが分かった。


掲示された時刻表の通り、20分後に次の電車が来た。また何かが乗っていたらどうしようかと思ったが、特にそんなことはなく、ごく普通の買い物客みたいな人間が疎らに席を埋めているだけだった。


「さっきの電車は当たりだったねえ」とビィは言った。


「『当たり』ね……」

自分は、この人を許容できるのだろうか。ビィの無邪気な目を見ながら、僕は本気で悩んでしまった。


「あの人達はアレに指令を出せるのかな。プログラマーには見えなかったけど」と、神白は言った。「でもやっぱり、あのままK駅方向に向かって行けばだんだん混み合ってくるはずだし、人混みでトラブルがあれば指令を出して制御するんでしょうね。ゾンビにはそれを操る術者がいるっていう、伝説の通りですね」


「違うよ、それはキョンシーだよ」ビィは言った。「ゾンビを蘇らせる術者は、蘇らせたゾンビを操るんじゃなくて、奴隷として売り飛ばすの。魂のない身体で生き続けるという運命を課すこと、蘇らせることそれ自体が、呪いなの」


「怖い話はやめて」僕は結構真剣に言った。「もう現実だけで十分」


「そう、でもさ、あの人たち現代のゾンビつかいってことですよ」神白はなんだか面白そうに言った。「しかも彼ら、たぶん税金で働いてるんですよ。もし公的機関の人間ならね」


「すごいね。納税する理由がまたひとつ減った」僕は投げやりに言った。


「税金で働くゾンビつかい。ウケる」

ビィはそう言いながら、既にまったく笑っておらず、揺れる吊り革を見上げながら何事か考え込んでいた。


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