数田の家
4.
数田が車を停めたという登山口の駐車場が見えたとき、待ち構えていたように雨が降り出した。
空は重い灰色になっており、雨粒はボタボタと音がするほど大きかった。
「あの白い車」と数田は指差したが、言われるまでもなく、だだっ広い駐車場にはその車しか無かった。
駐車場は端から雑草に浸食され始めており、もう何年も前から忘れ去られているような雰囲気だった。
最後の階段を降りきり、広い駐車場を横切る間に僕たちは全身余すところなくずぶ濡れになった。
身体中がキリキリと締め付けられるように痛んだ。神白もしばらく前から、一切口を開かない。数田だけが変わりなく無表情で、足取りもしっかりとしていた。
数田はリモコンキーで鍵を開け、ミニバンの後部ドアを引き開けた。
僕と神白が上がった途端、
「なんだ、男じゃねえかよ」
運転席から若者が振り返って、陽気な大声で叫んだ。
数田よりは少し若いように見えた。カラフルなTシャツにチャラいブラックのジャケットを重ね、よくわからないストリート風のキャップをかぶっている。
数田はリュックを乱雑に投げ入れると、後部ドアを閉め、助手席に回って乗り込んだ。
「ずっと待ち構えてたのか? 家に居て良かったのに」
「男だって知ってたら家に居たよ!」
若者はエンジンをかけ、発進した。「珍しく女の子連れて来て、あと2人来るっていうから期待してたらこれだ」
「昨日ちゃんと言っただろ。お前が聞いてないんだ」
「だってさ、まさか野郎2人迎えに行くために2日連続で山登りするなんて思わないじゃん! 勝手に降りて来させりゃいいだろ?」
「ふたりとも病人なんだよ」
「知るかよ、マジでさー」
しかし若者はルームミラー越しに僕たちの方を見て、「何、具合悪いの? 大丈夫?」と聞いた。
神白はぐったりと窓の外を見ていて、反応しなかった。
僕も面倒なので黙っていた。
「あ、ええ、けっこう酷そう」若者はトーンダウンした。「ごめんね? 俺の声うるさかった? 大丈夫? 吐きそうになったら言ってね?」
「お前まず名乗れよ」
と数田が言った。
「あ、数田でーす。よろしくー」
「苗字名乗るな、紛らわしい」
「えへへへへ」
たぶん弟なのだろうと思ったが、もう力尽きたふりをして黙っていることにした。
「なんだよ、マジでさあ、大丈夫なの? この人たち。もしかして外人?」
「いや、日本人だ」
「そっちの人、外人ぽくない?」
「いや、日本人」
「どういう知り合いなの? あの女の子のツレ?」
「若いほう、伊東君がショウコさんの彼氏で、外人っぽいほうの神白は、何だろう、伊東君の手下というか、使い魔みたいな感じかな」
「聞こえてるぞ」神白がうわ言のように呟いた。「数田この野郎」
「うるせえな」数田は体ごと振り返った。「お前だけ降りてもう少し歩くか?」
神白の返事は「死ね」だった。
「はは、すげえな」
数田の弟は含みのある笑い方をした。
僕はリュックを勝手に漁ってタオルを探した。何かの景品の手ぬぐいみたいなものが、ほぼ新品の状態で何本も詰め込んであった。
一本を数田に渡すと、彼は「どうも」と受け取って顔と頭を拭き始めた。神白にも渡してみるが、微かに頷くだけで、指一本動かそうとしない。目が座り、顔は土気色だ。このまま死ぬんじゃないかと、不安になった。
辺りは住宅街のようだったが、窓に当たる雨が激しすぎて、景色がよく分からない。しかし、今まで僕たちが滞在した村に比べると、さすがにかなり麓側にあるぶん、何かしらの活気はあるように思えた。
ミニバンは何度か狭い路地を曲がり、間も無く古臭い門のある建物の前に止まった。
「俺、車入れとくから」弟が言った。「先降りて」
「荷物頼む」数田は短く言って助手席を降り、後部ドアを開けて神白を引きずり下ろした。「あと10歩だから。ちゃんと歩いて」
「ごめん」と、神白は弱々しく言った。
「いいから、早く。濡れる。伊東君は? 歩ける?」
「まあまあだよ」
降りてから気付いたが、いかめしく重たそうな門の脇に「数田」の表札があった。
黒い瓦屋根のついた、どっしりとした枠組みのある門だ。今の時代にこんな門を本気で使っている家があるとは。
数田が慣れた手つきで扉を引くと、その向こうに綺麗に刈り込まれた松の木と、ツツジの盆栽が見えた。
足元は年季の入った飛び石。
「君の家、金持ちだね」
と、僕は言った。
「まあ、家はな」
数田は興味も無さそうに頷き、引き戸になっている玄関の扉を開けた。
真っ先に、牛の置物が目に入った。子犬ほどの大きさで、布張りのぬいぐるみだが、妙にリアルな造形のホルスタインだった。
その隣に、陶器の狸の置物と、大きな木彫りのフクロウ。隅にひどく重たそうな水瓶が置いてあり、それが当たり前のように傘立てとして使われていた。
ニスの輝く天然木の下駄箱の上には、山村の風景を描いた油絵が掛かっている。
正面左側は暗い階段、右側には磨き抜かれた廊下。
「靴、どうする?」
「そのままで」
数田は脱いだ靴を揃えようともせず、僕たちを急き立てて廊下の中ほどの洗面所まで連れて行った。
当然ながら、濡れた3人分の足跡がべったりと廊下についたが、数田は「後で拭くから」と言って意に介さなかった。
「着替え持ってくるから。どちらか先に、シャワー浴びて」
数田は靴下を脱いでバスタオルで足を拭き、どちらも洗濯機に突っ込むと、早足で出て行った。
「マジか……」
僕は大理石の大きな洗面台と、金色の蛇口を見ながら、本当にこんなドラマのような家があるんだなと思った。
洗面所の造形は玄関の印象とは打って変わって洋風だ。デザイン自体はレトロだが、最近リフォームしたのではないかと思われた。
「伊東君、先入ったら」
神白が言った。
「神白が先に入ったほうがいいよ」
「いや、ちょっとこれ以上立ってられないんで。少し休んでからにしたい」
「いいから入りなよ。ここで死なれると寝覚めが悪いから」
僕は服を着たままの神白を無理やり風呂場へ押し込んで、戸を閉めた。
どうせ服は濡れているんだから、洗い場で脱げば良いだろう。
結局、神白と僕で順にシャワーを浴び、数田のくれた服に着替え、2階の寝室に通されるまで、ものの30分ほどだったはずだが、ひどく長くだるく感じられた。
雨に濡れたのは余計だった。数田が下山を急かしたわけがよく分かる。もし出発が遅れ、まだ道のりが長く残っているうちに雨に降られていたら、本当に死んでいたかもしれない。
2階は襖でいくつにも仕切られた大きな和室になっていた。
数田は右端の部屋にビィがいることを告げ、僕たちをその隣に入れた。
ポップな水玉柄の布団が2組敷いてあり、心地よいエアコンが掛かっていた。
「休んでろよ。夕飯になったら起こすから」
数田は妙に優しい声音で言うと、襖を閉めていなくなった。
直後、パタパタと階段を降りていく足音が聞こえた。
僕や神白と違って体調万全だということを差し引いても、驚嘆すべき体力だ。あいつこそ不死身のゾンビなんじゃないか。
「伊東君。申し訳ない」
神白は布団の上に座り込んで、そのまま僕に頭を下げた。
土下座しそうな勢いだ。
「いや、なんで」
「本当にごめん。危険な目に合わせた」
「これは3人で決めたことだよ。神白の背負うことじゃない」
「けど、やっぱり年長者の僕に責任があります。そもそも、もっと早く伊東君を家に返すはずだった……僕の力不足で」
「……僕は楽しんでるよ」
そうは言ったものの、思い返してみると何も楽しくなる要素は無かった。
「いいから早く横になりなよ。夕飯までに少しは回復しないと、今度こそ数田にぶっ殺されるよ」
神白は布団に入ったが、あまり眠る気は無さそうで、「しかし立派な家だなあ」と、天井を見上げた。
美しい木目の浮き出た長い板が、整然と並ぶ天井。中央のシーリングライトは消灯しており、部屋の奥に置かれたモダンなスタンドライトが柔らかく部屋を照らしていた。
襖には鈍い金色で、水墨画のようなものが描かれている。
「育ちが良いんだろうとは思ってたけど、予想以上の良家だな」
「君は、なぜ数田には謝らなかったの」
と、僕は聞いた。
「え? ああ、後で謝っとく……」
「だから、なんで。さっき僕に言ったことを、昼間数田に言えば良かったじゃない?」
「だってさ、勘が働くんだよ、それは」神白は寝返りを打って腹ばいになった。「今ここで舐められたら、後々まで下に置かれるんじゃないかって」
「何それ」
僕は思わず笑った。
「伊東君には分からないだろう。君は勉強さえすれば、必ず上へ行けるのだから」
「上って何だよ」
「何だろう。ずっと、自警団を辞めさせられたときのことを思い出していた……よく考えると数田にとって理不尽すぎるよな。今、謝ってこよう」
「今? 今は休んでたら?」
それきり神白が返事をしないので、今度は何の意地を張ってるのかと振り向いたら、神白は枕に顔を沈めて眠っていた。
まともなこと言ってる雰囲気だったが、このぶんだと今までの発言の半分くらいは寝言なのかも知れない。
僕も眠くて仕方なかったが、何とか気力を振り絞って布団を抜け出した。
仕切りになっている襖をそのまま開けても良かったのだが、僕は一応廊下に出て隣の部屋の前へ行き直した。
ノックをしたが返事は無かった。
そっと中を覗くと、こちらの部屋は明るかった。天井のシーリングライトが点いている。それに、隣の部屋は布団しか無いが、こちらには家具が置いてある。お洒落な脚の書き物机と椅子、アジアンテイストのマガジンラック、収納を兼ねたスツール、子供の背丈ほどもある振り子式の置き時計……そうした雑多なインテリアが、考え抜かれた配置ではなく、思いついた順に雑に運び込んだ感じで並んでいた。
ビィは布団の周りに漫画を積み上げて壁を作り、うつ伏せに寝転んで何か熱心に読みふけっていた。
暗い色のジャージを着ている。数田に借りたのだろう。袖と裾がよほど余ったようで、何回も捲り上げていた。
僕に気付くとビィはピョンと跳ね起きて、「遅かったね!」と笑った。
ビィは漫画本の壁をまたぎ、特に躊躇もなく僕に抱きついた。
「待ちくたびれて『ウシジマくん』読み終わっちゃったよ」
「これは何なの……」僕は漫画本の壁を見やった。
「ヨシオに借りた」
「ヨシオ?」
「数田兄弟の、弟がヨシオで、兄がスーちゃん」
「スーちゃん?」
「ヨシオがそう呼んでたよ。だからスが付く名前なんだと思う」
「それだとスグルしか思いつかないけど」
「あ、そうか! お兄ちゃん頭良い」ビィは布団に寝転び直し、身振りで隣に来るように示した。「私さ、スミレしか思い付かなくて、すごいキラキラネームなのかと思ってた」
「いや分からないよ、案外そうかもしれないし」
僕はビィの横に寝転んだ。
目の前に漫画のタイトルがずらりと並ぶ。確かに、その半分くらいは『闇金ウシジマくん』だった。
「お兄ちゃんも読みなよ」
ビィは僕の目の前に無理やり一巻を置いた。
「読んだことある?」
「無いけどだいたいわかるよ……あんまり疲れてるときに読むものじゃないってことは」
「疲れてる脳に追い打ちをかけるのがいいんじゃん」
「そうかね」
僕は仕方なくページを繰り始めたが、最初の客が利息の説明を受けている場面で意識が朦朧としてきた。
人物の輪郭が分からない。文字が意味と繋がらない。
「お兄ちゃん、もう寝るの?」
「うーん」
もう寝るとはどういう意味だろう。
「ねえ、大事な話、あるんだけど……私、中国に行きたいんだよね」
「中国?」
それに『ヒサンの利息』が付くとどうなる?
「お兄ちゃんは一緒に来る? あのね、たぶん来てもつまらないと思うけど、相談無く行くのはやっぱり良くないかと思って」
「相談ね……」
僕は、ビィの言っていることを完璧に理解しているつもりだった。
だが、頭の中で考えたことが、表出する言動に繋がっていかない。
自分が内側と外側に分離してしまったようだった。
ビィを絶対に失いたくない。絶対に。でも、失いたくないと強く願うことと、実際に失わないということの間には何の因果も無いのだ。妹が死んでそれを思い知った。
この宇宙は残酷だ。
僕がこれほど、これほど強く、倦まず弛まず望み願い続けても、運命は平気でそれを踏みにじる。だから時々死んでしまいたくなる。この世から跡形無く消えてしまいたくなる。だって、宇宙はそれでも、僕がどれほど無残に消えても、気付きもしないだろう。僕の思いなど最初から、存在しないのと同じなのだ。ならどうして僕はこんなに苦しまなきゃいけない?
「明日、聞く」
僕はどうにかそれだけ言った。でも、呂律が回っていたか定かではない。
目を閉じた瞬間に上下感覚が消え失せて、僕は真っ暗などこかへ落ちて行った。