頭痛と口ごたえ
3.
神白が吊るしてくれたビニルシートが、真夜中の風に揺れている。焚き火の明かりが見えたり隠れたりを繰り返す。その火の向こうに影が見える。影は人の形をしている。
だがその動きは、およそ人とは思えない奇妙な軌道だ。
いくつもの影が横滑りして、火の向こうに現れては闇に溶けて消える。
揺れる炎のこちら側には神白の背中があり、彼は細く長い棒を振り上げて闘っている。その動作には迷いがなく、真っ直ぐな、純粋な殺意が表れていた。
目が覚めたとき、神白が僕の隣でぐっすりと眠っていて、辺りは青白くほんのりと明るくなっており、僕の頭は割れるように痛んでいた。
身を起こして川のほうを見たとき、そこに焚火の跡が見当たらず、川原の形も自分の想像したものとまったく異なっていることに気づき、僕はようやく、昨夜見たものがすべて夢であったことを知った。
寒くないのに震えが止まらない。熱があるのだろう。どんよりとした倦怠感が襲ってきて、僕はまだ下山が終わっていないことを思い出して絶望した。
唯一の寝袋を僕が使っているので、神白は寒そうに身体を丸めていた。
僕は寝袋を抜け出し、それをそのまま神白の身体に掛けた。青白い彼の顔に手を触れると、火をつけたように熱かった。
僕の手に熱く感じられるということは、神白のほうが熱が高いということだ。
数田の読みが的中というわけか。
寝床にしていた岩を降り、辺りを見渡してみる。朝とも、夜とも言えない不思議な時間帯だった。
空の一部が明るいが、太陽はまったく見当たらない。ぼんやりと景色を、かなり遠くまで見渡すことができたが、全てが青いフィルタをかけたように沈んでいて、本来の色が分からなかった。
風はない。空は晴れている。驚くほど、穏やかで暖かい天候だ。だからこそ裸同然の装備で呑気に眠っていられたのだろう。
他にすることもないので、再び岩によじ登って神白の隣に戻った。
数田からは交代で寝ろと言われていたのに、ふたり揃って爆睡していたようだ。神白も限界だったのだろう。
熊もゾンビも来そうにない。
それなら眠って体力を回復したほうが良いのだろうか?
しかしあまりにもひどい頭痛に、横になろうという気すら起きない。
結局、膝を抱えて座ったまま、うとうとしたり目覚めたりを繰り返した。頭の痛みは途切れなくじっとりと居座り、気力は刻一刻と目減りしていく。
もし今、何かに襲われたら、「逃げるのが億劫だった」くらいの理由で死んでしまうだろうと感じた。
何度目かに目を開けたとき、神白も起き上がっていた。
すっかり夜が明けていた。
神白は機嫌が良さそうな顔で、細長いお菓子をポリポリかじっていた。僕は何秒間もぼんやりとそれを眺めてから、やっとの事でその菓子の名前がポッキーだと思い出したが、更に数秒後、ポッキーではなくプリッツだと気付いた。いや、そんなのどっちでもいい……本当に頭が壊れかけている。頭が痛すぎる。
神白は僕にお菓子の箱を差し出したが、僕は首を横に振った。
「見張り役のつもりが眠ってしまった。ごめん」
と、神白は言った。
「僕の夢の中では君はとてもよく働いてたよ。ゾンビと闘ってた」
「なるほど。お得な夢ですね」
「お得?」
「夢の中で働いたぶん、現実で休んでもいいかなと思える。だから、夢の中で働くと得した気持ちになります」
何を言ってるんだこいつは。しかも自分が見た夢ですらないのに。
「心の底から働きたくないんだね、君は」
「そりゃね。伊東君は働きたいですか?」
「そうでもないけど、お金は欲しいし、人から施されたくはない」
「確かにね……。正論だ」
神白は感心したように溜息をつき、脇に置いたリュックからまた別なお菓子を取り出した。
「色々入ってるんだね」
数田のことだから、合理的な栄養補給用の物資しか入れてないだろうと思ったのだが、意外とつまらないお菓子も詰め込んであるらしい。
「数田君の好みが少し分かって面白いですよ」神白はごそごそと荷物をあさった。
出てきたのは5種類のポッキーと、3種類のプリッツ。しかも、同じ箱が2つずつある。更にトッポが出てきた。
「なにこれ。あいつバカなのかな?」
「ユーモアのつもりかも」
「センスがよく分からない」
「僕はね、彼はアーティストじゃないかなと思いますよ」神白はトッポを開けた。「県境でウロウロしてたでしょう? 最初は潜入取材とかしてるジャーナリストなのかなと思ってたんだけど、結局行き当たりばったりに僕たちに付き合ってくれるから、なんだろう、そういう、ポリシーが無いことをポリシーにしてる人間なのかもなって」
「ああ……」
確かに、その解釈はかなり真実に近そうだった。ポリシーが無いことがポリシー。作品を作り出すのではなく、人生そのものをくだらない形に投げ出すことで何かを体現していくタイプのアーティスト。いや、あいつにはそこまでの覚悟があるようにすら見えないが……
だいたい、神白のような田舎バカのニートにまでこんな論評されるような人生でいいんだろうか?
飲まず食わずでいるのはまずいと思い、プロテイン入りと書いてあるゼリー飲料に口をつけてみる。だが、泥を食べているような気分だった。具合が悪すぎて、味がしない。これって本当にただの風邪なんだろうか。
神白も決して食欲があるわけではなさそうだった。トッポをかじっているが、それは「食べている」というよりも、そうやって「時間を潰している」という態度に見えた。
腕時計を見ると8時前。数田が来るまでにはまだ間がある。
「午前中にちょっとくらいは下っておく?」と僕は聞いたが、
「いやー、僕はいいかな」神白は少しも動こうとしなかった。
「でも、まだ先は長いわけでしょ? 午後に数田が来たからといって、結局は歩かなきゃいけないんだし」
「そう、どうせ午後は苦しまなきゃいけない。だから今くらいゆっくりしていたいです。運が良ければ、午後までに風邪が治るかもしれないし」
そんなわけないだろう、と思ったが、神白のやる気が無いとなると、僕ひとりでは動きようがない。数田が来たときにバラバラな位置に居ては、手間が増えるだけだ。それに、僕としてもこの頭痛を抱えて歩くのは非常に気が進まず、たとえ事態の改善には繋がらないとしても、今すぐ出発せずに済むのはありがたかった。
結局、数田は予定よりもかなり早く到着した。
昨日とほぼ同じ服装に、昨日よりはだいぶ小ぶりのリュックという出で立ちで、相変わらず取りつく島もない無表情だった。
数田は挨拶もそこそこに「雨が降るらしい。急いで」と言い出した。
「そう言われてもね」
「はい」数田は問答無用で僕に天然水のペットボトルを押し付けた。
「何これ」
「解熱剤」数田は丸く白い錠剤のシートを差し出した。「あと、抗生物質」カプセルが出てきた。「それと、整腸剤」また別な錠剤が出て来る。「全部2錠ずつ飲んで」
数田は神白にも同じセットを押し付けた。
「20分くらいで効き始める。でも、待ってられないからすぐ出発するぞ」
「そんなに急ぐようなことなの?」
「これって処方箋が必要な薬ですよね」と、神白は言った。
「ああ、ちょっとコネがあって」
数田は悪びれなく言った。
「世の中は悪い奴がいっぱいだ」
神白は薬を飲みながら、少し嬉しそうに言った。
「悪い奴で思い出した」数田は胸ポケットから、定期入れのようなものを2枚取り出した。「届いてたんだ」
「何それ」
「関所の通行証」
渡されたケースには名刺大の薄緑色の厚紙が入っており、僕の名前、生年月日、住所と、2次元バーコードが印刷されていた。
思ったよりもローテクだ。
いや、思った通りと言うべきか。いかにも役所の作りそうな小道具ではある。
この紙切れ1枚のために、2ヶ月以上も根無し草としてさまよったのだ。
「割と簡単に偽造できそうですね」
神白は自分のぶんの通行証を見ながら、首を傾げていた。
「でも、どうしてこれを数田さんが?」
「例のなんとかさんから預かった。預かったというか、麓の郵便局留めになっていたのを代理で受け取りに行った」
結局、数田もあの土産物屋の大学生の名を覚えていないらしい。そう言えば彼女は、一度も名乗らなかった。
「ともかくこれで僕たちふたりは帰れるわけですね」
「さあ出発しよう」
数田は神白から取り返した登山リュックに何もかも詰め直し、今日背負ってきた小ぶりのリュックも無理矢理押し込んだ。
空は真っ青で、風も爽やかだった。素人目には、雨が降りそうな気配は全くない。
そして、川原から元の道へ戻るため、出鼻から急な上り坂を行かなければならない事が、僕の気持ちを余計に萎えさせた。
割れるような頭痛、というか、もう既にどこか割れてるんじゃないかと思うくらい、猛烈に辛かった。一歩一歩が重すぎる。
しかし、時間にして10分ほどのその急な坂を登り切ると、耐え難かった痛みはぼんやりとした圧迫感に変わっていた。
森の中を行く緩やかな下り坂が始まると、全ての苦痛が波を引くように消えていき、それに合わせて気分も急激に上向いてきた。
何を悩んでいたのだろう。
鼻唄でも歌いたいような気分だ。
目に入る景色、肌に触れる空気の全てが柔らかく、満ち足りて完璧なものに感じられた。
「真っ青だな…」
ふと振り返った数田が、昨日と同じく、心配そうに言った。
「ほんとだ。大丈夫ですか?」
神白も横から覗き込んできた。
「良い気分だよ。ていうか、さっきの薬、本当に風邪薬?」
「え、なんで」
「ものすごく良い気分だよ。ものすごく。何か変なもの飲ませてない?」
「僕はなんともないですけど」
と神白は言い、
「元来、風邪薬にはそういう作用もある」
と、数田は背を向けながら言った。
「そういう作用って?」僕はぼんやりと、なんだか笑い出しそうになりながら、数田を追った。「そういう作用って何?」
「抑制作用だ。大麻と同じ」
「大麻?」
「口じゃなく足を動かしてくれ」
「僕はなんともないですけど」と神白は繰り返した。
「人それぞれだ。体質による」数田はつまらなそうに言った。
気分は上々だが、身体は重たかった。力が入りづらく、自分の意思が四肢に行き渡るまでに微妙なタイムラグがあるように感じる。それでも、痛みと不快感の無い下山は昨日よりずっと楽だった。僕は薬という現代技術のありがたみを全身で実感した。
「こんなことは、もう、しないでくれよ」
だいぶ下った後で、突然数田が言った。
神白に向かって言ったらしい。
「え? あ? ああ、はい」
神白は聞き落としたのか、雑な返事をした。
「追われて怖かったのは分かるが、事態を悪化させてる。あんたの自己責任では済まないんだ。他のふたりを死なせるところだったんだぞ」
「ああ…」
後ろを行く僕の位置からは神白の顔が見えなかったが、もしかしたら嫌そうな顔をしたのかもしれなかった。だいたいこういう場面ですぐに謝らない神白は珍しかった。
「でも、僕ひとりだったら宿に残って闘いましたよ」と、神白は言った。「連中がゾンビを送ってきたのは僕たちを口止めするためじゃなく、ショウコさんを取り戻すためでしょう。真っ向から闘ったら、彼女は自分が戻れば済むことと言い出して、結局連中の元に戻ってしまったと思う、だから…」
数田は皆まで聞かずに急に足を早めた。
「おい、数田さん!」
神白はぴたっと立ち止まり、やや高めの声で叫んだ。
数田は立ち止まらず、その背中はどんどん遠ざかる。
ふたりとも元気だな、と僕は思った。
数田が苛立ちを隠さなくなったのは、危ない状況を脱して緊張が緩んできたからだろう。下山道の終わりは近いに違いない。僕には何よりもそれが嬉しかった。
「数田!」神白は、カーブの先に消えようとする数田をもう一度呼んだ。「数田、薬!」
「は?」
数田は立ち止まり、うんざりした顔で振り向いた。
「頭痛いから、追加で欲しいんだけど」
「それがものを頼む態度?」
「ごめん」神白は素直に言った。「ごめんなさい。置いてかないで。あと、薬をください」
数田は腕時計を見た。
「まだ効いてるはずなんだけどな」
「でも痛いんだもの」
「数田、僕も薬」
と、僕は言った。
数田は引き返してきて、僕と神白にそれぞれ、錠剤のシートを差し出した。
「5万円な」
「そういうのいいから」
「それを飲んだら、残りあと1回分ずつだから。ペース考えながら使ってくれ」
「数田、飲み物は?」
「伊東君」数田は溜息をついた。「呼び捨ては構わないけど、俺を顎で使うなよ」
しかし数田はそう言いながら、汗をかいた冷たいペットボトルをくれた。
スポーツ飲料を一度凍らせたものらしく、容器の中央に大きな氷の塊がまだ残っている。
「え、いいなあ。数田、僕のぶんは?」と、神白が言った。
「あんたまだ持ってるじゃないか」数田はまた先を歩き出した。
「でもさ、もうこれ温いし……」
「ショウコさんは神白の思い通りには動かないと思うぞ」
と、数田は言った。
「自分が何をしたいか分かっている人だ。些細な状況の違いで意見を変えたりしない。彼女はいずれにせよ長くは留まらないと思う」
「今どこにいるの?」
僕は急に不安になって聞いた。
「俺の家にいる」
「そう……」
「彼女も体調は良くなさそうだったから、さすがに回復するまでは勝手に動かないだろう」
「どうかなあ」
この数ヶ月間のビィの行動力を振り返ると、その予想はかなりの希望的観測に思えた。僕たちが下山した時、ビィがまだ同じ場所で待っていてくれる可能性は、五分五分だ。
やはり、昨日死ぬ気で彼女と一緒に下山すべきだった。何故こんな最悪のタイミングで風邪など引いてしまったんだろう。
「僕は別に、彼女を思い通りにしようなんて思ってないですよ」
神白はぐちぐちと言い返した。
「ただ、こんないいタイミングで風邪引くなんて思わなかったから、それさえ無ければ、わりと……」
「けっこう意地っ張りなんだなあんた」
数田はばっさりと遮った。
神白はいつものトーンで「そうかな?」と笑ったが、そのタイミングが2秒遅かったので、一瞬だけすごく嫌な沈黙が生まれた。
もしかすると神白は、普段から苦労して自分の感情をコントロールしている人間なのかもしれない。珍しく怒ったというよりも、珍しく本心が見えたように感じてしまった。
「君たち、マウンティングし合わないで」僕は仕方なく口を挟んだ。「見苦しいよ」
「ひとこと言いたくもなるだろ。俺はお前たちの5倍は歩いてるんだぞ」
「その件については、あとで2千円あげるからさ」
「伊東君の金銭感覚もひどい」
「数田さん、僕十分感謝してますよ」と、神白は言った。
「俺はね、感謝じゃなくて反省しろと言ってるの」数田は噛んで含めるように言った。「山を甘く見ただろ。次は命は無いと思えよ」
「うん、反省もしてる、でもそれは僕が数田さんに謝らなきゃいけないことなの? 山に入ろうって最初に言ったのはショウコさんだし」
「ああ、そうかよ」
「数田それくらいにしてあげなよ。この人は、イニシアチブ取られると死んじゃう体質なんだよ」
「あ、」
数田は僕の軽口を無視して行く手を指差した。
そこで道が折れながら2つに分かれており、右の道の方の木の幹に、ピンク色のシャツが固く結び付けてあった。
「目印付けておいたんだ。良かった、これであと3分の2だ」
「まだ半分来てないの?」
僕は一瞬、本気で死にたいと思った。