思わぬ助け
2.
「伊東君、久しぶり」
数田はなぜか先に僕に向かって挨拶した。
相変わらずの無表情だが、機嫌は悪くなさそうだ。
「その鈴、何?」
と、僕は聞いた。
チリチリ鳴り続けていたのは、数田のベルトに付いている変わった形の鈴だった。
「熊よけ」
と数田は答えた。
数田は重装備だった。
ジャケットもパンツもアウトドア用らしく、大きな外ポケットが幾つも並んでおり、その全てがスナップで閉じられるようになっている。そして分厚い大きな靴を履き、ものすごく沢山入りそうなリュックを背負っていた。
まさに、「山に入る正しい装備」のお手本だ。
軽装の僕たちが如何に無謀なことをしているか、思い知らされる。
「県境で野宿してたときにお世話になった人だよ」
と、僕はビィに説明した。
「世話になった自覚があったとは、意外だな」
数田はその場にリュックを下ろして開けた。
最初にタオルが3つ出てきて、次にスポーツ飲料のペットボトルが3本、ビニールに包まれた幕の内弁当が3つ、そしてピクニックシート。なぜかそれは薄汚れたピンク色で、古いサンリオのキャラクターがプリントされていた。
「数田さん、申し訳ない」と神白が言った。
「申し訳ないなんて、思ってないだろ」
「いや、もっと麓の方で合流するつもりだったから。数田さんの足が早すぎた」
「だって、あんたの伝言何が言いたいのか全然分からんし。俺の集落側で待ってればいいのかと思ったけど、あんたら足が遅いからいつまで掛かるか分かんないから、暇だから登ってきたんだ」
「よく、この道が分かりましたね」
「分かるわけないだろ。3回間違えて引き返した。この道が外れだったらもう諦めようと思ってた」
「いや、さすがだなあ」
ビィは無言でシートの端に座り、ガツガツと食べ始めていた。
「君たち連絡取ってたの?」と僕は聞いた。
「宿の人にメモの配達を頼んだんです。正直あんまり期待してなかった。数田さんて本名かどうか分からないし」
「残念ながら本名だった」数田は淡々と言った。「宿屋の主人がよく分からんからって駐在に投げて、駐在もよく分からんけど緊急だろうってうちに来た。朝5時にだぞ。連中は暇なんだ、電話がなくなってから。くだらんことで呼び出す老人が居なくなっただろう」
「メモに何て書いたの?」
僕は神白に聞いた。
「ゾンビに追われてるってことと、旧旅館の裏手から山に入るけど遭難しそうってことと、男2人女1人ってことです」
「ローマ字で書いたのは良かったな。駐在が、英語は読めねえとか言って、中身を確認しなかったから」と数田は言った。
「じゃあ、一応読もうとはしたって事ですね」
ビィは恐ろしい勢いで食べ終わり、「おかわりは無いの?」と言った。
数田は黙ってリュックからゼリー飲料を取り、手渡した。
「ありがとう。ドラえもん」
ビィは真顔で言い、封を開けると掃除機のような勢いで吸い始めた。
「僕のも食べる?」
僕は食欲が湧かなかったので、蓋を開けたばかりの弁当を差し出した。
「お兄ちゃんもちゃんと食べないと、倒れるよ?」ビィはそう言いながら、遠慮なく僕のぶんまで食べ始めた。
結局、数田の出してくれた食料の7割がたはビィの腹に収まった。
「伊東君は大丈夫なのか」
数田はゴミを集めながら、不意に言った。
「嫌に親切だね。またお金?」
「じゃなくて、顔色が悪いから」と、数田は言った。
僕は返事に詰まってしまった。
「頭も回ってないみたいだな。……少しペースを上げないと、わかんないぞ」
数田の言葉の後半は神白に向けられた。
「これ以上ペース上げたら死にますよ」と神白。
「もう既に遭難してるな。あんたら昨日、寝てないだろ」
「だって追われてるんですよ」
僕は、数田が何気なく使った「わかんない」が、「駄目だ」という意味の方言である事について無意味に思いを巡らせていた。
食事のあとを片付けた僕たちは歩き出した。だが、もはやその一歩一歩が苦痛でしかなかった。
身体が空腹と疲れを思い出してしまったのだ。
僕は食事と休憩をもたらした数田を激しく恨んだ。
ビィや神白の足取りも、当初よりは重くなっている。しかし、ふたりはまだまだ平気そうだった。
神白はともかくとして、ビィよりも僕の方が体力がないなんてこと、あり得るのか。ビィが例の合宿所でPC・エアコン完備のITライフを満喫していた間、僕は一日中県境付近を徒歩で移動していたのに。
道が再び上り坂に転じているのが見えてきたとき、僕は思わずへたり込みそうになった。
本当にこの道は麓へ繋がっているのか?
もちろん、数田が登ってきた道なのだからその点に間違いはないはずだが、もはやこの道に終わりがあることを想像できなかった。
「ストップ」
覚悟を決めて上り坂に踏み出した直後、先頭の数田が急に振り返った。
僕はぼんやりと数田を見上げた。
ビィも神白も、黙っている。
「方針を変えないか? このままだと日が暮れてしまって身動きが取れなくなる。伊東君が参ってしまうぞ」
「なぜ僕を名指しするの?」
数田は僕の反論を無視して、
「あなたは、まだ動けるね?」
と、ビィに向かって言った。
「動けるの意味にもよるけど」
ビィは首を傾げた。
「3時間、死ぬ気で俺に付いてきてくれ。あなただけは日暮れ前に下山させる。伊東君は山に一泊。神白さんは伊東君の護衛」
「あのね……」僕は呆れて文句を言いかけたが、
「僕もそうするしかないと思ってました」
と、神白が言った。
「どこか、野営にお勧めの場所はありました?」
「まあ、どこもお勧めはできないが、この先を左に逸れて、河原で寝るのが一番マシかな。雨が降ったら流されるかも知れんけど、おそらく降らないと思う」
数田は背負っていた巨大なリュックを下ろした。
「これは置いていく。食料と水は結構詰め込んできた。あとエアマットと寝袋、1人分だけある。交代で寝て、片方は見張り。もしできたら、火を焚いたほうがいい。ゾンビより熊が怖い」
「適当にやっときますよ。ありがとう」
「この辺りに居てくれれば、明日の……そうだな、昼くらいまでには迎えに来る」
「待ったほうがいいですか? それとも、少しでも下っていたほうがいいですか」
「それは任せる。どうせそんなに動けないと思うぞ」
「ですよね」
神白はリュックを背負いあげた。
「いや、僕だって3時間なら死ぬ気で歩けるよ」
やっと、僕は口を挟んだ。
「3時間では着かないぞ。この人だけなら続きはおぶって行ける。男は足手まといだ。では解散」
数田はビィを促して歩き出す。
「ちょっと、おい」
ビィは一瞬迷うような顔で、僕と神白を交互に見た。
しかし、そのあと急にけろっとして「じゃ、お兄ちゃん気をつけてね。着いたらメールするねー」
駅前の女子高生みたいなノリで言って、数田を追って登りだした。
数田の姿はもう見えない。ビィもすぐに見えなくなった。
確かに、今の僕にはまったく無理なペースだった。
数田の腰についている熊よけの鈴の音だけが、しばらく聞こえていた。
「メールって……ネットが死んでるのに」
「なんか独自の技術があるんじゃないですか?」
神白が言う。
「だとしてもこっちが受信できないんだから」
「あ、そっか」
まったく、こんな底抜けの馬鹿と山に置き去りなんて究極の罰ゲームでしかない。
「この先を左って言ってましたね。とりあえず河原に出てしまいますか」
「この先ね……」
数田の口癖、この先、ちょっと向こう、すぐそこ。その言葉に何度騙されて苦しんだことか。
あいつひとりなら「崖から転げ落ちろ」と呪ってやるところだが、ビィを連れて行かれては無事を祈るしかない。
僕はその場に座り込んだ。
「神白さんはさ、先に行っててくれない? 僕は少し休んで行くから」
「いや、これ以上バラけない方がいいです」
神白もリュックを下ろし、僕の隣に腰を下ろした。
「なんで僕はこんなに体力が無いんだろう。確かに受験勉強しかしてなかったけどさ」
「うーん、僕の予想では、風邪じゃないかと」
神白は意外なことを言い出した。
「実は僕も今朝から頭痛があるんです。ふたりして風邪を引いてる可能性はありますね。数田君はそれに気付いたから、ショウコさんを引き離したんじゃないかな。体調の悪い僕たちに足を引っ張られた上、風邪をうつされたショウコさんが時間差で発症すると面倒なことになる」
あまりにも疲れて、気の利いた返事も思い付かないので、僕は黙って足元を眺めた。
「ショウコさんはモテるんでしょうね」
神白は藪から棒に言った。
「さあ。そうかもね」
と僕は言った。
「なんか、興味なさそう」
「だって、オフの彼女を知らないもの。言ったよね? オンライン限定の付き合いだったって」
「何かイメージ違いますか? やっぱり」
「どうかね……。特にイメージなんて無かったし」
身体がひどくだるく、重くなってきた。本当に風邪なのかもしれない。もしくは、風邪かも、という神白の言葉で、緊張の最後の糸が切れてしまったのか。
「不安とか無いんですか? あるいは、嫉妬とか」
「僕の女じゃないんだよ」
僕は何度目かのこの台詞を口にした。
「君の女に、すればいいのに。伊東君に何の不足がある? 君は彼女と同じく若いし、彼女と同じくらい賢いし、彼女に見劣りしない外見だと思うけど」
「いや……わからないよ。ただ、断られたんだ。申し込む前にだよ。先回りして断られたんだ」
あなたと私の関係はここで終わるべきなの。お兄ちゃんと、初めてオフで会ったとき、ひとめ見た瞬間に、そう分かったのよ。
ばちが当たった、という気分だった。
失った家族の幻影をSNSの中に探していた。都合良く『妹』を演じて慰めてくれるビィに甘えて、僕はその向こうに生身の人間がいることを考えなかった。
僕がビィというアカウントの「中の人」に全く興味を持っていなかったことを、見抜かれたのだ。
その後ろめたさがあるから、僕は言い出せなかった。
お兄ちゃんと呼ばないで欲しい、君の本当の名前を教えて欲しいと。
「ま、数田くんは手を出さないでしょうよ」
と、神白は言った。
そんなこと考えてもみなかったので、ぞっとしてしまった。
あのガタイで、誰も来ない山道、ふたりきり……歩けなくなったらおぶってくとか言わなかったか?
どれほどビィが身軽でも、数田が悪意を持って動いたらひとたまりもないだろう。
「大丈夫ですよ。損得でしか動かない人間は、そこが信用できるんです」
「けど、この場合のあいつにとっての『得』って何?」
「ひとまず僕たち全員に恨まれるか、全員に感謝されるかの二択なら、断然後者を取るでしょう、彼は」
確かに、それは違いない。
「数田くんの熊よけの鈴、借りれば良かった」
神白は木々の梢を見上げながら呑気な感じに言った。
「やっぱりあれが無いと危ないの?」
「『こっちに人間がいる』という合図をするのが目的なんで、必ずしも鈴である必要はないんですけどね」
「へえ。こちらの居場所を知らせた方がいいんだ」
「そう、普通の動物なら向こうが勝手に避けてくれます」
「ゾンビは逆ってことか……」
「え? あ、確かにそうだ」神白は意外そうに言った。「いや、僕が言いたかったのは、中にはあえて向かってくるような普通でない熊もいるってことです」
「普通でない熊……」
「過去に人間を襲って持ち物を奪ったり、人肉を食べたりして、美味しい思いをした動物は、その後は意識して人間を襲うようになるらしいです。だからそういう癖のついちゃった熊は、山に返さず駆除したほうがいいって言いますね」
「へえ……熊も大変だな」
神白が地元で自警団をしていた当初、ゾンビを山へ追い返す事もあると言っていたが、ヤツラは熊と出くわすことは無かったのだろうか。
熊にとっては、あれは人間という分類になるんだろうか。
歩き方は変だが、見た目は人間には違いないし、たぶん肉体も人間と同じ。熊にはきっと区別は付かないだろう。
そう考えると、大自然という視点から見れば、僕たちとゾンビとの攻防も「人間同士の小競り合い」でしかないのかも知れない。
しばらく座り込んでダラダラしてみたが、身体の重さは増すばかりだった。早いところ横になったほうが良いと神白に説得され、渋々歩き出すと、思ったよりもずっと早く河原に出た。
ちょっとした谷のようになっており、ソファくらいの大きさの岩がゴロゴロと並んでいる。細く浅い川にはまったく勢いが感じられず、もうしばらく待っていたら止まるんじゃないかと感じるほどだった。
神白は少し川からは離れた岩の上にマットを広げた。促されて横になってみるものの、往来に寝そべっているような感覚で、まったく落ち着かない。
「ここに一泊なんて無理」僕はすぐに身体を起こした。
「まあでも、いったん休んでみましょう」
神白は先ほど弁当のときに使ったビニールシートを広げ、木の枝にかけた細いロープを使って半分ほど吊り上げた。
なんとなく、テントとは行かないまでも、壁と天井のようなものが出来上がった。
色褪せたカエルのキャラクターが、僕の視界を遮る。
それだけなのに、ふっと全身から力が抜けた。
疲れすぎて、目が開けられない。
というか、僕はいつの間に目を閉じたんだ?
麻酔でも掛けたかのように、強引で圧倒的な眠りに引きずり込まれていった。




