事実は小説より……(三十と一夜の短篇第40回)
学校からの帰り道にある神社に向かうと、あいつの姿はまだなかった。待ちあわせしてるわけじゃないけど、伸び放題の草に囲まれた朽ちかけた神社のひっくり返った賽銭箱のうえに、あいつの汚いかばんだけが転がっている。
すぐに戻って来るだろうと神社のひさしの陰に入って、虫食いだらけの階段に腰かけた。賽銭箱のとなり、いちばん下の段。
なんとなく横を見てみれば、くたくたになって底がとれかけたかばんのすき間から、一冊のノートがはみ出ていた。ずいぶん前に姿を見かけなくなったキャラクターのノート。チャックなんかとうの昔に閉まらなくなってるから、気が向くままに引っ張り出してみる。
ずるり、いっしょに出てきたしわくちゃでぺらぺらの服とか、汚れが落ちないうえに次の汚れがどんどん広がるせいでいっそ白まだらのデザインなのかと間違えそうなタオルなんかがぼとぼと落ちる。
「きったねえかばん」
つぶやきながらぱらぱらとノートをめくれば、半分くらいがまだ白紙。なんとなくぺらりと戻って、見つけた最近の日付のページに目を落とす。
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七月二十九日
老人は悲しんでいた。彼がついひと月前に妻を亡くし、そのことを子どもたちや周囲のひとびとがともに悲しんでくれないことに、深い悲しみを覚えていた。
悲しみは老人の心を疲れさせた。疲れた心は身体の力を奪い、老人の視野を狭くさせた。
ひとりきりで食べる食事の味気なさに、自然と食欲は落ちていく食べる量が減ると、それにあわせて身体の動きは鈍くなっていった。
(花が、枯れている……)
その日、ふと仏壇の花がしおれているのに気がついた老人は、居ても立ってもいられずに家を出た。買い物に行くにはずいぶん早い、通勤通学時間などということにも気が回らないほど、老人の気持ちは急いていた。
店の場所がわからない。妻と行った記憶を頼りに商店街をさまよい歩くけれど、花屋を見つけられない。花屋どころか見覚えのある店がひとつもない。
それは老人があまりにも朝早く来たせいで、どの店もまだ開店していなかったためであったけれど、焦る彼にそんなことはわからなかった。
老人は妻と歩いたはずの道をふらふらと歩く。記憶にあるはずのどの店も見つけられないことに愕然としながら歩く老人は、道すがらすれ違った女学生と肩がぶつかったことにも気づかない。女学生のとなりを歩いていた男子学生が声をかけてきたことも、それについて自分がなにを言ったかも、彼にはもうわこらなかった。
ただ、歩くほどに記憶が薄れるような気がして、記憶のなかの妻もかすれていくような気がして、呆然としながら歩くことしかできなかった。
七月三十日
何かを書きかけているが、うえから黒いペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶしてある。判読はできない。
七月三十一日
空白。
八月一日
今日は快晴。朝から気温が高く、蝉が休まず鳴いている。蝉の声が聞きたくて、一日じゅう外で過ごすことにした。
友だちはうるさいって言うけれど、蝉の声は好きだから、もっともっと鳴いてくれてもいいと思う。
夏は暑いからきらいだって友だちは言うけれど、暑いのが夏のいいところ。冬は凍えるし、なんだかしんと静かな感じがしてあんまり好きじゃない。
夏はいいな。
八月二日
ユユコには、ものしずかだけれどたよりになるおとうさんと、やさしくてりょうりのとくいなおかあさんがいます。
ユユコはおとうさんといっしょのへやでのんびりすごすのがすきで、おかあさんのおてつだいをするのもすきですが、ともだちのアルとあそぶのもだいすきです。
きょうはおとうさんがおでかけしていて、だいすきなおかあさんがおりょうりをしていたので、ユユコはおてつだいをしようとおもいました。だけどおかあさんが「いつもありがとう。たまにはおそとであそんできていいのよ」とおそとにだしてくれたので、ユユコはアルとあそびました。
とてもたのしかったです。
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書いてあるのはここまでだ。今日のぶんはまだ日付すら書かれていない。
読んでいて、舌打ちしたい気持ちになった。というか、舌打ちした。なんでこんな暑いなか、こんなもん読んでるんだ。
むかつく気持ちに任せてばさり、と表紙を見てすぐに後悔した。
表紙には「ゆゆこの日記」と書かれてる。ノートの中身と同じ、へたくそな文字。
これと同じ表紙のノートをこれまでにも何度も見てきた。中身まで読んだことはなかったけど、あいつが珍しく楽しそうなようすでノートに向かう姿をここ六年くらいの間、見かけていた。日記書いてるの、とは言ってたが、こんなもんを楽しそう書いてやがったなんて。
「あれえ、在。もう来てたの?」
草をかきわける音に続いて、間抜けた声がする。
見なくてもわかるが、顔をあげてやればそこに優夢子がいた。サイズが合ってないのが丸わかりの制服から棒切れみたいな手足を出して、伸び放題でぼさぼさの髪が顔から肩まで覆っている。半分だけ見える青白い顔のなかで眠たげな目元だけが、妙な明るさをもってこっちを見ていた。
「おい優夢子。こないだやったゴムどうしたよ。髪くくっとけって言ったろ」
いらいらしながら言うけど、優夢子はうすら笑いを浮かべてあれえ? とばかみたいな声をだして首をかしげている。
「大事なものだから使わないように、って言わなかったあ?」
「言ってねえよ。さっさと髪なんとかしろ。うっとうしい」
あれえ? あれえ? とくり返すだけで、優夢子は髪を結ぼうとしない。折れそうな手首に話題に出てる髪ゴムがあるにも関わらず、だ。
きっといつものように数年間、使わずに取っておいてからでないと手を出さないのだろう。それがわかっていたから、舌打ちひとつでその話題を終わりにしてやった。
代わりに手にしたノートを突きつける。
「ところでこれ、なんだよ」
ノートを目にした瞬間、優夢子がぴたりと動きを止めた。もともと青白い顔からうすら笑いさえ消えると、人形みたいに見えてくる。クラスの女子が優夢子のことを気味が悪いって言うのもうなずける。あいつらの前では認めてやらないけど。
「これ、お前のノートだろ」
問えば、優夢子は否定も肯定もしないまま、目だけをうろうろ動かしている。そんなことしたって、お前を助けるなにかは足元に落ちてなんか無いんだって、何年たっても気づかない。
それに今回は、否定も肯定も必要ない。だってこのノートは優夢子の誕生日にやったものだから。小学校低学年のときに手に入れたけど、表紙にプリントされたキャラクターがださいと思ってやったやつだったから、覚えてる。
「日記ってなんだよ。お前、こんなもんずっと書いてたのかよ。こんなもん書かせるためにノート渡したつもり、ねえぞ」
優夢子はだまりこんでる。だまりこんでる、ってことはわかっててこんなもんを書いてるってことだ。
いらいらが余計につのる。
それでも待ってやる。優夢子がなにか言うのを待ってやる。
つぷり、ひたいに浮かんだ汗が音もなくすべり落ちる。神社を囲む草むらが風を受け、ざわりと揺れる。うでに、首にしみ出した汗がわずかに冷やされて、それなのに腹のなかのいらいらは強くなるばかり。
「……日記って、その日にあったこと書くんだぞ」
「知ってるよう」
いらいらを押さえて言うけど、優夢子は口をとがらせてしれっと返事する。だけど目は泳いでいてこっちを見ないから、なにを言われるかはだいたいわかってるんだろう。
「その日にあったこと、自分の良いように書き換えるものじゃねえんだぞ」
わかってる、という返事はない。けど、優夢子はぜったいわかってる。わかってて、書いてる。嘘の日記を。
「七月二十九日の老人って、あれだろ。ふらふら歩いてお前にぶつかってきといて、お前のこと散々に怒鳴り散らしてたじいさんだろ」
確信を持って問うけど、優夢子はなにも答えない。
「夏なんか好きじゃないくせに。外で過ごすのだって好きじゃないくせに。八月二日はお前、家に入れてもらえなかっただけだろ。冬は寒くてこごえるから、夏の暑さのほうがましなだけだろ」
やっぱり優夢子はだまったまんま。
「お前の両親のことなんて、嘘だらけだ。お前の父ちゃんがもの静かで、母ちゃんが料理がとくいっていうなら、生まれたての赤んぼうだってしっかりしてることになる」
だまったまま、けれど耳もふさがずに立ち尽くしている優夢子にいらいらをぶつける。
「あんな怒ってばっかりで家にいない父ちゃんが頼りになるわけないだろ。家事嫌いで自分のことしか大事じゃない母ちゃんがやさしいはずないだろ。つまんねえ嘘ばっか並べて、なんになるんだよ」
優夢子の日記とやらに書かれてることは、嘘っぱちばかりだ。まったく意味のない、かけらも優夢子を救わないつまらない嘘。
だって、ぐしゃぐしゃに書きつぶれた日になにがあったのか、知ってる。めずらしく帰ってきた優夢子の父ちゃんと母ちゃんの怒鳴り声が、優夢子の家の外まで聞こえてたから。その次の日、父ちゃん母ちゃんのいらいらをぶつけられた優夢子が一日じゅうこの神社でじっとしてたのを見てるから。
優夢子はしんどくてたまらない現実から目をそらして、叶いもしない希望ばっかりで埋めたノートを日記なんて呼んでるんだろう。そのことにすごく腹が立った。
「お前、ばかだろ。こんな、お前が夢見てることばっかで日記なんて書いて、ばかだろ」
「……ばかじゃない」
足元に向けられた小さな、よわよわしい否定。そんなもんでこのいらいらは治らない。
「嘘で塗りかためた世界にばっかりこもってて、お前は満足なのかよ」
「……嘘ばっかりじゃない。ほんとのところもある。すこしだけど」
いらいらをぶつければ、だまるかと思ってた優夢子がぼそぼそと抵抗する。親には何されても言われても無表情の無抵抗のくせに、と眉をしかめたところで優夢子がうつむいていた顔をあげた。まっすぐにこっちを見てくる凪いだひとみに、ほんのすこしだけ押し負ける。
「……在のことだけは、ぜんぶ本当のこと、書いてる」
優夢子の小さな抵抗を鼻で笑おうとして、失敗した。そのすきに優夢子は抵抗をつづける。
「おじいちゃんにぶつかって転んだとき、怒鳴ってくれたのは在。夏の暑さがきらいで、蝉の声がうるさいって言うのも在。おとうさんとおかあさんがどんなひとでも、いっしょに遊んでくれたのは在だけ。在と遊ぶのが楽しいのも本当だし、在だけはいつだって嘘じゃない。在が、ゆゆこの本当だよ」
いつもの間延びしたしゃべりも忘れて抵抗する優夢子に、腹をにえたぎらせていたいらいらはずいぶんと消されてしまった。
いらいらが消えてぽっかり空いた腹のなかに形にならないもやもやがたまっている気がして、深く息を吐いた。
「……お前の書いてるのは、日記じゃなくて小説っていうんだよ」
きょとん、とした優夢子を放って、自分の筆箱からシャーペンを引っ張り出すと「ゆゆこの日記」の今日のページにがりがりと書き殴る。
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八月三日
ゆゆこは在のいえに行って、いっしょに飯を食う。それから夜まで、いっしょにあそぶ。
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書きあげたページを優夢子につきつける。
「こいつを本当の日記にしてやる。つまらねえ小説なんかで埋めさせてやらねえ」
目を丸くした優夢子が何か言うまえに、視線をそらす。顔を見ながら言えることじゃねえ。でも、言わずにいるのも我慢ならない。
「……もっと、お前にとってやさしいもの、見つけてやる。嘘の日記のなかだけじゃなくて、この世界にだってあるはずだから。小説よりもやさしいもの、おれがいっしょに見つけてやる」
こんなちっぽけなことばじゃ優夢子を助けることなんてできないって、もうわかってる。わかってるけど、それでも言わずにいられなかった。
「んへへっ。やっぱり、在は嘘じゃない」
うれしそうな優夢子の声。変な笑いかただけど、うすら笑いじゃなくてちゃんと笑ってるのなんて、いつぶりだろう。
あわてて顔をあげたけど、優夢子はいつものうすら笑い。
笑顔を見逃したせいでまたいらいらがすこし戻ってきたから、優夢子のかばんをつかんで神社を取り囲む草むらに飛び込んだ。
「じゃあ、家まで走るぞ! 遅かったほうは罰ゲームな!」
「ええぇぇ〜! なんで、待ってよう!」
「追いつけたら待ってやるよ!」
ふたりしてガキみたいに笑って、走っていく。
いまは。いまだけは、嘘だらけの日記より甘ったるくてくだらない、小説よりも底抜けに明るくて幸せな、本当を。