兄の嫁が弟の妻になる話
「……姉上が僕の妻になる?」
ぽかん、としたままに問い返した僕に、父上が頷いた。
父上の手は傷まみれ、いかめしい顔には隻眼。長きにわたる戦争の末、和平協定が結ばれたこの大陸で、民を守るための犠牲がどんなものだったか、僕も良く知っている。僕がたった今成人した身の上とはいえ、それが分からないわけもない。
でも反対に、今の父上の話は、まるで分からなかった。
「左様、その認識で相違ない」
「しかし父上。姉上は、その……姉上です」
僕と姉上に、血のつながりはない。何故なら姉上は、そもそも、今は亡き一番上の兄上に嫁いできたお人だからだ。
隣国生まれの姉上は、僕が5つの時に嫁いできた。兄上とも仲睦まじく、子供も直に生まれると思われたそうだ。
しかし戦争が起こり、兄上は出兵。僕が7つの誕生日を迎えたときに、戦地で帰らぬ人となってしまった。姉上の故郷も戦火の中とあっては、無理に親元へ返すわけにもいかない。それに姉上のお腹に、兄上のお子がいる可能性もあったから、姉上はそのまま我が家にとどまった。
結局、兄上のお子が生まれることはなかったが、姉上は兄上に代わって、小さかった僕や妹たちを守ってくれた。
血のつながりはないが、10年という月日は、僕にとって姉上を姉上として慕うに十分な月日だ。
ところが父上は、その姉上と、結婚せよと言う。この10年、僕が姉上と慕ってきた人と、結婚しろと言う。
「……何故です?」
たっぷりと時間を空け、承りました、と、頷くことができなかった僕に、父上は言う。
「まず、シルターニャは、彼女の故国であるアハマドの王家の血筋を持っている」
シルターニャというのは、姉上の本名だ。
しかし、王家の血を引いていらっしゃるというのは、ここ10年でも初耳だった。
「存じ上げませんでした」
「そうだろう。本来ならば、血を引いているとは言え、気にもされぬほどの末の血筋だ。だからアハマドの方も気にしなかった、我らも気にしなかった。故に、お前たちにも教えなかったのだ」
分からなくもない。
現に、僕の教育係を務めているアルッサは、この国の王族の血筋を引いている。ただそれは、孫の孫のひ孫の叔父の叔母みたいな、なんかもう薄いとかどうとかという規模ではない遠さだから、誰も気にしていない。そういう人がいるかもしれない、ということも、想像がつく。
それに、王家が気にするほど濃い血筋であれば、そもそも兄上との結婚も楽にはいかなかっただろう。
「末端とはいえ王家の血筋だ。だが、婚姻にも関係がない……それほどに、薄い薄い血筋だった。だが戦争ですべてが変わった。アハマドの正当な王室の血筋として残せる男子を生める女人が、もうシルターニャの他にはいないらしい」
父上が、僕をじっと見つめた。
「お前にシルターニャを娶る様言うたのは、シルターニャを守るためだ。アハマドが国権のために、シルターニャを探し当てたとして、その後に待つのは子を孕むためだけのむごい扱いだろうて。それに……」
「それに?」
「シルターニャは、姫将軍として、身を立ててきた。だが今後、平和な時代になった時、彼女の扱いがどうなるかを、私は恐れている」
姉上は、兄上の代わりとして僕ら兄弟を守ってくれた。
男性と見間違えるほどの背丈を持つ姉上は……兄上の代わりとして、武勲を立ててきた。姫将軍ともあだ名される姉上の名を知らない兵士はおらず、城下の乙女たちの心を奪っているとも聞いている。
だがそれは、今までが戦争と言う、異常事態にあったからだ。
女性は家にて子をなし、育て、家族をとりまわすことを求めるこの国で、子を産むことなく戦争に立ってきた姉上。何人もの命を守ってきた姉上。
だがそれがもし、平和な時代になったら?
姫将軍という肩書が、女だてらという言葉が、姉上を殺すかもしれない。
「シルターニャとお前が子をなすことができれば、それは我らが子孫ともなる。シルターニャは操を立てて今日まで処女として生きてきた。体も丈夫で、気立ても良いのは我も含め一族の知るところ。お前の妻となるに、十分な条件がそろっている。女児であろうと子を産めば、彼女の地位も安定するだろう」
目を閉じて僕は考え込み、そして言った。
「姉上は、このことをご存知なのでしょうか」
「うむ、心得ておる」
「こ、心得て?」
「承諾している、ということだ」
つまり僕が「はい」と言えば、もうこの結婚は決まるのだ。
「……姉上と、お話をさせてください」
ぎりぎりその言葉を絞りだした僕に、父上は重く頷いた。
====
撼っ!
二重丸を木の板に描いただけの簡素な的、そのど真ん中に矢が刺さる。すらりと伸びた背、白いうなじ、黒く長い髪。男性と見間違えるほどの背丈を持つ姉上は、凛々しいという言葉がぴったりだろう。
「姉上」
「シリル」
「お話が」
「結婚のことか?」
姉上の傍に、すぐさま侍女が駆け寄ってきて、タオルを渡す。それで汗を拭きながら返してくる姉上に、僕は何とも言えない気持ちになった。
「姉上、僕は」
「わたくしに、これ以上何を言えと仰せですか、シリル」
「っ……す、すみません」
僕はそこで、言葉に詰まってしまった。
僕と結婚しろなど、姫将軍とも呼ばれるような姉上にとって、屈辱的なことかもしれない、という可能性に気が付いてしまったからだ。
「姉上、僕との結婚は、本当に」
「嫌ではありません。それが決まったことなら、私はそれに従うまでです」
硬く、冷たい、声だった。
他に選択肢もあるだろうに、何故僕なのかと思ったに違いないない。国へ帰るのは、命の危険さえ伴うとしても、結婚の相手を決められるなんて。しかも、愛した兄の弟に過ぎない僕だ。代わりにさえならない僕に、姉上にとって良きことなど、命がそのまま助かることだけなのだ。
だからきっと、あんなふうに、そっけない言葉と態度をされるようになってしまったのだろう。これまで、姉上、と呼んで駆けよれば、抱き上げてくれた姉上は、もういないのだ。
兄上が死んだときから、僕らを守ってきてくれた。その姉上の功績はあまりに大きい、自由の身にすることさえ難しいのだと、やっと分かってきた。
忸怩たる想いを抱えたまま、父上のもとへ戻った。
「父上」
「戻ったか、シリル」
「姉上との結婚、お受けいたします」
「……そうか、ありがとう」
父上の声は、どこかかすれていた。
「ただ、条件を」
「条件?」
「姉上との結婚は内々で行い、大々的な式はしないでほしいのです。兄上のことを思うと、僕はそれはできません」
「……分かった。そうしよう」
そして僕は、算段をつけることにした。
姉上を、自由にするのだ。兄上に代わり、姉上が命を懸けて守ってきた肩書を、傷つけないために。
====
「シルターニャ様」
「……」
「シルターニャ様!」
「っ! な、なんだ、フェル」
真っ赤な顔をして私を見つめ返してくるシルターニャ様に、とうとうこらえきれず、ため息をつきました。
私、フェルタウスは、シルターニャ様の乳母となった女性から生まれた男児です。シルターニャ様は王族の血を僅かに引いておられ、その伝手もあって、母が乳母となり、私はシルターニャ様の側仕えとして幼いころからずっとお近くにおりました。
そして、結果として【誉れ高きシルターニャ将軍の副官】であり【マルメーア軍第三副将軍】にまでなれたのは……戦争のおかげ、なのでしょうね。
「シリル様に何故、あのような厳しいお言葉を?」
現マルメーア当主の三男坊であるシリル様は、つい昨日成人したばかり。こじんまりとした印象を持つ小柄なお方で、芸術に秀でておられます。
しかしそれゆえに、政治や軍事にはとんと疎く、この戦中においてもどこか浮世離れした言動が多い方でした。だからこそ、シルターニャ様と夫婦になるには、ぴったりなお方とは思っていたのですが……。
やはり、シルターニャ様の御心は、在りし日の夫君であるルヴェス様を思ったままなのでしょうか。
「厳しい? い、いや、そんなつもりは……。これ以上ないほど幸せで、何を言えばいいか分からないと伝えたのだが……」
その時です。
面倒ごとに対面した時と同様の感覚が、私を包みました。
「あの言葉のどこがその意味を含んでいたのですか!? 私でさえ分かりませんでしたよ!?」
卒倒しそうです。
これは、その、そういうことですね。
「シルターニャ様は、シリル様のことが、お好きなのですね?」
「そうだ! お、弟を好きになるなど、なんてことだと思っていて、だが、そしたら、結婚した方が政治的にも良いから義父様より後押しも受けたから……これ以上ないチャンスだと思って」
頭が痛いです。
先ほどの言葉と態度のどこに、どう、その意味が込められていたでしょうか? 長きにわたりシルターニャ様にお仕えしてきた私でも、まるで分かりませんでした。生まれたときから一緒の腹心の部下であり、なおかつ戦場という極限状態でも苦楽を共にした私にさえ分からなかったのに「もしかすると結婚はお嫌なのかもしれない」という顔をしてお話をしに来たシリル様に、伝わるわけがありません。
「シルターニャ様! シリル様を追いかけましょう!」
「な、何故? はっ、もしかして、結婚式の衣装決めのためか?」
花の顔をときめかせて、乙女の顔をするシルターニャ様に、私は卒倒しそうになるのをこらえて叫びます。
「そんなわけがどこにあるんですか! シルターニャ様のお言葉がまるで正しく伝わっていないので、きちんとお伝えするために行くのです!」
「そんなわけがない! シリルは私の数百倍、いや、数万倍も賢いのだぞ? 私の言葉が理解できないわけないだろう!」
「思い込みが酷い!! そんなわけがないから言っているんです!」
ああ、頭が痛い。
シルターニャ様は、確かにシリル様の長兄に嫁がれたお方です。しかし、初夜もままならぬうちに彼は戦争へ赴くことになってしまわれました。彼はシルターニャ様の、深窓の令嬢として致命的な点を、むしろ友好的に捉えてくださったお人でした。
その長兄はご自分が死ぬ可能性を見越して「お前の力の強さや口下手さを活かすには、俺の役目を継ぐのが一番だと思う」と言い遺されました。
生きておられれば、立派な領主となられたでしょう。
たとえそれが……戦争という血塗られた手段であったとしても、シルターニャ様は将軍として名をあげ、女性の地位向上にも貢献し、各地へその美貌と勇名を響かせる戦女神となられたのです。子供を産むことなく寡婦となったシルターニャ様を、その功績はこの上なく守ってくれました。
しかしそれと同時に、シルターニャ様が嫁がれたマルメーアの一員でもあります。一族への愛は底知れぬ御当主様が、シルターニャ様のことを思ってシリル様との結婚を提案されたことまでは私も理解しています。その姫将軍という地位やアハマス王家の血筋を引くことが、戦争の終わった平和な時代で悪用されないようにする目的もあると、知っています。
ですがシルターニャ様のお顔は暗く、話を聞いたときも先ほどのように「決まったことなら私はそれに従うまでです」と答えられました。
誰もかれもがてっきり、シルターニャ様はシリル様とのご結婚に前向きではない、と思っていました。今まで弟として可愛がってきた人に、初めての旦那様へ操を立てて処女を保つような女性が、突然「嫁げ」と言われたのですから、それが当然でもあると思っていました。
わたくしたちも思い込みではあった、ありました。
ええ、わたしたちも悪いところはありましたとも!
「シルターニャ様、先ほどの言葉でシリル様が傷つかれているかもしれないのです!」
「……わ、私の言葉で?」
明らかに言葉の捉えがそこじゃないのですが、今はそうしている時間も惜しいです。
「そうです! ですから、きちんと、思いをお伝えしましょう! 誤解を解かなくては、結婚生活がままなりませんよ!」
そう言うと、シルターニャ様の顔色が変わります。
私たち二人は、シリル様を勢いよく追いかけたのでした。
====
(やはり姉上は、僕との結婚はお嫌だったのだ)
確かめた事実に納得しながら、僕はしたためた証文の最後に、傷をつけた親指をぐっと押し当てました。血が滲み、血判となって残ります。
「よし、これでいい」
それは結婚を前に、僕が個人的に姉上へと立てた証文です。
この結婚で僕はどれほどのことも気にせず、とにかく姉上には今まで通り過ごしてほしいとするものです。
書き終えたところで、突然。自室の天幕が跳ねのけられました。
「シリル!!」
「姉上?」
姉上の顔が、真っ赤になる。
そして、
「この大馬鹿!」
と、僕に向かって、怒鳴りつけてきた。
「いったいいつ、私が、あなたとのけっこんを、いやだと、もうしたのですか!?」
泣きそうな声で言う姉上に、僕は困惑しながら返しました。
「聞いておりませんが、分からないほど僕は馬鹿ではありません」
興奮しているらしい姉上に、まあまあ、と僕は声をかける。
「考えればすぐわかりますよ。だって、僕は兄上方に比べればちんちくりんですし、何しろもう姉上は僕に以前のように接されなかった。仲睦まじくふるまうことさえ、そうそうお許しなさらなかったでしょう。それに、姉上にはずっと守ってきた将軍職がございます。ずっと守られてきた僕に比べれば、姉上はこの国にはまだまだ必要なお人です。それこそ好きな人と一緒に暮らすことさえ、僕は反対いたしまん」
姉上が、絶句している。その向こうで、姉上の副官の、たしか……そうだフェルタウスだ。栗色の髪の男性が、深いため息をついた。
「姉上、姉上はもう、自由です」
にこやかに告げた僕に、姉上が糸が切れた操り人形のごとく、ぱたんと座り込んだ。想っていたのとは違う反応に、僕は困り切って首をかしげる。
すると、見ていられない、とばかりに、フェルタウスが僕に近づいてくる。
「シルターニャ様、ちょいと黙っててくださいね」
彼がそう言って、僕の前にさっと膝をついた。
「お噂はかねがねお耳にしております、シリル様。わたくし、副官として」
「存じています。フェルタウス副将軍」
「名前を、知っておられたのですか」
「はい。姉上に関わる方のことは全て、余すことなく、頭に入れております。そうすれば、仕事の話かどうかなど、すぐに分かるでしょう?」
「そうでしたか……」
頷いたフェルタウスは、どこか優しい目をしていた。良い人そうだ、それに戦士として腕もいいと聞いている。こういうお人なら、きっと姉上の夫として不十分なこともなかったろうに。
「我らが誉れ高きシルターニャ将軍に代わりまして、お話をさせてください」
「姉上に代わって、ですか?」
「ええ、シリル様に関わると、とんとこの方は普段の頭の良さが引っ込んでしまわれますので。まず、シリル様、シルターニャ将軍のことは、女性としてお好きなのですか?」
僕は少し、考えた。
姉上は姉上だ、と言う気持ちが、まだ僕の中では強く残っている。だからこそ、姉上を大切にしたいとも思う。しかしそれが女性として愛しているかと言われると、言葉に詰まる。
「……女人として、姉上を愛する行為をしたいという性欲を抱くことは、まだありません。しかし一方で、姉上を大切にしたいという気持ちに、嘘偽りはありません。そうですね……同じ人間として、僕は姉上を、他の人よりは強く愛しております」
「それは今後も揺るがぬお気持ちでしょうか?」
「……僕は成人した身ですが、まだまだ若造で、恋をしたこともありません。だから、分からないのです。もしかすると、姉上を、その。今後、女人として愛することも、あるやもしれませぬ」
だって姉上はお綺麗です。僕はまだ愛を知りませんが、恋も分かりませんが、書物にあるようにドキドキくらくらとして、姉上を獣のように襲う気持ちになることがあるかもしれません。
「では、シルターニャ様が、この結婚がお嫌ではないということは、ご存知ですか?」
「……え?」
ぽかんとした僕の手から、姉上にお渡ししようとした誓いの証文が落ちてしまいました。かさんっ、と軽い音を立てた証文は、くるくるひらひら、床に広がります。
フェルさ彼は僕の顔を見たまま、続けられました。
「いつものシルターニャ様の言動からして、信じてもらえるお話ではないと思います。しかし、シルターニャ様はこの結婚に、大変に前向きです。いえ、何より……」
その時でした。
「わたしはっ! お前を愛しているんだっ!」
いい匂い、柔らかい質感、ふわふわの髪、すべらかな肌。
その全部が、僕を包みます。
「シリル!! どうかわたしと結婚してくれ! この暗愚な姉を、自由になどしないでくれ!!」
僕がどうもできず立ち尽くしておりますと、力強く抱きしめる姉が僕の両肩に手を置いて、そして。
「この唇は、お前だけのものだ。シリル」
その言葉と共に、ふっくらとした姉上の唇が、僕のものと重なり合っていたのです。大慌てで部屋付きの女官や副将軍がそっぽを向くのが、視界の端に見えました。
あれ。もしかして。
「姉上、もしかして僕との結婚は、お嫌ではないのですか」
「そう言っているだろう、シリル!! こうなれば今すぐ子をなそう!!」
「こ? ……」
姉上を周りの人が止めてくれなければ、僕はそのまま閨に連れ込まれていたでしょう。
かくして、僕の作った証文は、まるで無駄なものとなったのでした。
後の歴史家はこう語る。
マルメーア一族の歴史に、燦然と輝く女傑たるシルターニャ将軍は、戦争を終わらせたとともにその愛の深さに置いて名を知られる。
最初の夫との悲劇的な別れから、その遺言を守って操を立てた彼女が夫の弟へ恋をしたことで、その苦しみを忘れるがために戦地で華々しい活躍を遂げる。しかし弟からの愛情を受けて、彼女がついに自分の気持ちを素直に告白するという一連の流れは、口伝や小説、詩、劇、絵画として、各地に諸説残された。
だがマルメーア族が滅んだ後は、彼女のその逸話ばかりが広く取り上げられ、真実は砂の下へと消えてしまった。
謎の中でも大きなものが、その弟であり、夫となった者の名前である。
シルターニャが意図的に歴史から消したという声もあるが、真実は分からない。