第8話 案外いろいろ考えてるような千晴の頭の中
―おまえ、生意気なんだよ
―かわいげがない子ね!
―ちょっと、姉をもう少し敬えないのかしら?
―ね、ねぇね、おててつないで…?
―こっちへおいで。髪を結ってあげる。
―気にいらねぇ、目つき、どうにかなんねぇのかぁ?あぁ?
どこかで、聞いたことがある、言葉の数々が、ふっと飛来することがあった。
聞いたことがある、自分自身へ向けられた言葉として。
だけど、齟齬がある。
隣の家に、そんな暴言を吐く幼馴染はいない。
父も母も初婚で、義理の父も母もいない。
姉も妹もいない、いるのは弟だけ。
幼少時はおかっぱで、結ってもらう必要もなかった。
父親はいたって温和な人で、けっして暴言を投げる人ではありえない。
ちえ、あずさ、みちる、はるみ、もえ、りな…
数々の名前が、頭の中でおはじきの要領で、弾けて隅へと転がって行く。
幾つもあるその名前に、既視感と懐古の念が残っていて、偶然とは思えない頻度で心や頭に浮かぶ思い出に似たイメージの総量に、心がザワザワと落ち着かない。
いつ頃から…?
度重なるイメージの洪水に、汗だくで目覚める朝もある。
その度に、何かを求めて、部屋から廊下へと出た。
それは、一口の水か、外の空気か、誰かの存在か…。
そのどれもが、しっくりとは、当てはまらない。
少し違うピースのせいで、もう少しで届きそうな輪郭さえも描けない、真っ白なジグソーパズルのように、難解で無慈悲で底意地の悪い感じがする。
そんなピリピリと張りつめた糸のような神経を自覚し始めた頃、だった。
あの店の扉を、ふと、開いてしまった。
そんな行動を取ってしまったのは、あのどうしようもなく持て余してしまうプレッシャーのようなきしむ痛みが、後押ししていたのかもしれない。
もう、ダメ元にも近い感覚で。
何かが欲しいわけでもなかった。
ただ、なんとなく、節くれだった長い指が大切に触れる品々が展示された、温和な光をたたえたそこに入りさえすれば、何かしら、自分の中の悪露も悪癖も、浄化されるような気も、どこかで持っていたような気もする。
願望だった、のかもしれない。
客観的な自分を取り繕うことは、苦労もなく有体にできる。
というかそれは、ひしめき合う記憶の数々の中でも繰り返していた、生存本能にも似た、必然の生態ですらあって。
そう、他者との境界は絶対的に明白で。
それなのに、自分の中にひしめく、雑多な、自分と言う他人に、戦々恐々としていた。
これでは、まるで、多重人格か妄想性障害ではないか、と。
そんなことに陥るようなトラウマも日常的なストレスも、全く持ち合わせていない。
生活時間帯は違うが、互いに思い合っている家族だと、つくづく感じていたし、友だちもいる。
そもそも、そんなことをどこか第三者的な視点で持ってしまう自分に、早々に気付いて、訝しんでいたから、脳が勝手に何かを導いてしまったのかもしれない。
だからと言って、取る策を持ち合わせているわけでもなく。
自分が何時発露するか分からない不安を、一定の割合で持ち合わせて、日常をやり過ごしている。
そんなことを思ってしまう千晴にとって、滉大と青は、なぜか、羨ましいほどの力を秘めているように見えた。そんなことを、頭の端っこの方で思い浮かべてしまうほど、弱ってしまっていたのだろうと、今なら分かる。
会ったその瞬間から心に留め置いてしまったのは、全てそういった感情のせい。
「青、最近、どう?」
「お前がいなければ、全て順調だ」
それは、嘘偽りない、青の本心だ。
「つれない、おっさんだね」
近頃の青は、千晴に対して、猫を被ることをすっかり止めてしまっている。
「お前が聞いたのだろう?」
「ち・は・る。そろそろ、覚えて」
「…なんか、滉大に似てきたな、お・ま・え」
「青の方こそ、私への扱いが、滉大さん並みに、雑になってるよ!」
「滉大にさんを付けて、僕を呼び捨てとか。お前の礼儀なんぞ、そんな程度だ、どこに敬えと?」
「そもそも、私、女子高生、あんたたちと10も離れてるって知ってる?甘やかされて良いはず!」
「そんな珍獣を甘やかすような、清廉で優しい心根は持ち合わせていない。どんだけ、ずうずうしいんだ?お前は?それも含めて、滉大と同じ扱いで、上等、だ」
珍獣には違いないな、と、青は自分の選んだ単語に一人笑う。
「珍獣って何よ?何を根拠に?」
「お前イコール珍獣だよ、僕と滉大にとっては」
これもまた、嘘偽りない真実だ。
「…うぅぅぅぅ~!な、ん、か、ムカつく!」
「お前のその野性の勘は、大当たりだ」
ふんっと、お互いに違う方向へ顔を向けて、青と千晴は大きなため息を吐き出した。
カウンターの片隅に体を預けて二人のやりとりを見ていた滉大が、一段落ついた会話に割りこんでやろうと、にやにやとした笑いを浮かべた。
「…そろそろ、そのイチャイチャ、終わった?」
一斉に滉大に顔を向けてきた二人の息の合った行動を見て、滉大は笑みをさらに深める。
「してない!」
「してねぇ!」
同時に発したセリフに、滉大は大笑いする。
「すごい。あんたたち、笑える」
「うるせぇ」
「うるさい!滉大!」
「うわ、俺もついに、呼び捨て…悲しくなっちゃうなぁ」
そう言って、さほど嫌そうな様子もなくほほ笑む滉大に、千晴は肩をすくめて見せた。
この所、店に三人が揃うことが珍しくない。いつも、千晴が店に入るとほどなくして、二階から滉大が降りてくる。
―付き合ってんの?
真顔で聞いた千晴に、二人が全力で否定してきたのは、つい先日。
それほど、毎日のように、店に三人が揃う。
千晴は、自分がその雰囲気に依存してしまっているのを、分かってもいた。