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第9話 青と千晴



 春の陽が濃くなると、浮足立つ世情とは裏腹に、青の心は少し冷えてゆく。

―まだ、冬の陽だまりの方が、マシだ…

 その気持ちは、記憶を失ってからもずっと持っている確かな感情の一つだった。


 青には、幼少期からの記憶がない。

 持っていたはずのものがない。

 ないことに、驚きはしたものの、どこかでほっとしているような所もあった。

―思い出さなくても生きて行ける程度の、もしかしたら、思い出さない方が身のためになるような生活だったのかもしれない。

 青はそんな風に考えて、『ない』ことを顧みることを積極的にはしていない。


 ただ、既視感のように、見慣れた風景の一部が、ペラペラと頭に浮かぶことがある。

 時々だったり、急にだったり、何をきっかけに浮かぶのか分からないけれど、不足を補おうと自分の脳が勝手にやっていることが、青の気をなんとなく重くする時がある。


 昨日は、日差しが少し暖かく感じた一瞬。

 そう言えば、雪解けのニュースを何処かのサイトで目にしたな、と思った時だった。


 ぬかるんだ道に、馬車が通り過ぎ、水鳥がそれを追う風景が頭に浮かんだ。

 その車窓にいる誰かの気配を察し、自分がひどく焦がれるようにそれを欲しがっていることが、感情だけ覆いかぶさるように昇ってきた。


 とても、懐かしく、苦しく、ニガイ、そんな、後悔のような感情にも似ていて。


 飛び起きるように布団を跳ね上げて、起き上がった所で、昨日の感情が、眠っている間も心をざわつかせていたのが、なんとなく分かった。

 ひどく、夢見が悪かったような気がした。

 青は、朝日が差し込む部屋の様子に少し安堵して、ぐしゃぐしゃっと頭をかき上げる。

「…夢見が悪いとか…」

 カーテンを引いて、朝の光を部屋へと取り込む。今日も陽気が降り注いだ。このところ、こんな天気が続いている。青は、その淡い光が好きだ。

 しばらく、ぼうっと、人気のない街の様子を眺めて、少し足を引き寄せ、なんとなく真下を見下ろした。

「はぁ!?」

 一瞬で起き抜けの気分は何処かへ飛んで行った。

 見てしまったものはしょうがない…。

 手近な上着を掴んで羽織りながら、青は階段を駆け下りて店のカギを開ける。

「…おはよぉ…」

 開錠の音に振り向いた千晴は、店の前にある石段に腰かけたまま、少し気まずそうに、青を見て言う。まさか、こんな早朝から店のドアを開けてくれるとは、千晴は思ってもいなかったのだ。

「…お前…」

 意外そうな表情で見上げる千晴を見下ろし、青は、言葉を詰まらせた。殊勝な佇まいに、少し違和感を持った。笑う表情がぎこちなく、どこか、寒そうに見える。外気の所為もあるだろうけど、もっと別のもので、心底冷え切っているような様子に見えた。

「ごめんね、朝、早くに…開けてもらおうとか、入れてもらえるとか、思って来たわけじゃ…ないけど…ごめん……」

 ため息を吐き出しながら、頭をガシガシとかいて、青は右手を千晴へ伸ばした。

「来い」

 千晴の腕を取って立ち上がらせた青は、千晴を店に引っ張るように入れて、再び施錠する。

 それに、びくっと肩を寄せた千晴に、青は眉根を寄せて告げる。

「寒いんだろ?上、行くぞ。ココアでもいれてやる」

―家で毛布にくるまっていれば良さそうなものを。

 そんなことを思ってはみたが、わざわざここに来てしまった理由のようなものが、千晴の中にあるのだろうと、青は考えて。そもそも、千晴の心情を理解するほど、知っているとも思えない。ただ、寒そうに見える。それが青のこの時の判断というだけだと思っていた。

「…大人しくしてくれるんならって、条件付きだ。あと、うだうだした悩み相談とか、僕は絶対無理だ。それがしたければ、滉大の所にでも行ってくれ」

 滉大の店の場所は、もう知っているはずだ。そこに行かなかったことにも、千晴なりの理由があるのだろうと思ってはいたが、面倒を引き受けたくない青は、そんな一文を付け加えた。

 腕を引かれながら、さばさばとした青の説明のような話を聞きて千晴は、

「うん」

 と小さく返事をした。

 コーヒーをドリップして、買い置きのパンをトースターに落しながら、青は千晴を見た。

 少し前に渡したマグカップを両手で大切そうに持ち、ブランケットにくるまって、ソファの一角から身じろぎもしない。

 やけに、静かだ。

「お前も、トースト食う?」

 声をかけられて初めて、青が朝食の準備をしていたことに気付いた千晴は、どっちにも取れるような曖昧な頷きを一つ返した。

 ついでに二枚焼いて千晴が食べなければ今朝のトーストは二枚か、と青は考える。

 オンラインの宅配でしか日常的な買い物をしない青は、基本的に何でも食べるし、食材や産地などこだわりを持っているわけではない。栄養として摂取して、ほどほどに舌に合えば良い。納豆は、滉大に無理やり口に詰め込まれて吐き出した記憶があるが、地域性の高い特殊な食べ物でなければ、大丈夫だ。食パンも普通の工場生産品、コーヒーもドリップするのは好きだが品種にこだわりはない。焙煎はイタリアンよりシティ程度、それも、付け焼刃の知識で、苦すぎなければ何でも良い。米は苦手だが、食べられなくもない。朝食も、食パンとコーヒーと、あと一つ何か食べるものがあれば食べるかもしれない程度で、特別な気持ちで選んでいるわけでもない。

「僕の朝食は、こんなもんなんだが…食べられなければ、残せ」

 そう言って、青は、焼きたてのトーストと、カップに入ったヨーグルトを、トレーに乗せて千晴の前に置いた。

「…ありがとう」

 見上げて千晴がそう告げると、青は少し笑う。

「ちょっとは、起動したか」

「…きどうって?」

「食べろ。ココア、もう一杯、いれてやる。カップをよこせ」

「…うん…」

 そう言って千晴が青の手にマグカップを乗せる。

「テレビ、ないんだね、この部屋…」

「ああ、ネットで十分だ。見るか?」

 そう言って、いつもは宙に浮かばせているモニターを、この世界でも流通しているものに見立てた自立式の足を取り出して、千晴の前に設置した。アプリで見られる範囲のニュースや速報で、青には十分だった。そもそも、外にも出ないのだから、取り立てて気になるような興味を持つような事柄がない。

「…あ、ううん。見たいってわけじゃ…ないんだけど…」

「そうだなぁ…ああ、嫌がらせに、滉大に電話するか?」

「嫌がらせって…」

「あいつ、この時間は、ぜってぇ寝てるから。そうしよう」

 そう言うが早いか、ビデオ通話が可能なアプリを立ち上げて、滉大の番号をタップする。念のため、千晴が居ることを、テキストで先に送ることも忘れない。

『…え?なになに?』

 寝ぼけて受けたらしい滉大が、青と千晴が一緒の画面にいることを認めて、おおきなあくびをしたまま固まっている。

「おはよー、滉大」

 いつもの様に声を上げた千晴に、青はほっと息をつく。

『あ、そういうこと?ついに、二人は結ばれました、ハート、的な?』

「結ばれてない!」

『照れなくてもいいよ。それに、わざわざ、報告とかいらないよぉ』

「だから、結ばれてもないし、ハートも飛んでないよ」

「見りゃ、分かるだろ、滉大」

『じゃ、なんでそこに千晴が居るんだよ?』

「今朝起きたら、店の前に居たんだよ、こいつが」

『ふぅ~ん』

「信じてないでしょ!」

『で、こんな朝からどうしたのぉ?…げ、まだ、六時とか…うそみたい…』

「ただの嫌がらせだ」

『うわ、ひどい…』

 千晴と滉大の会話を聞きながら、もう大丈夫だろうと、その場を青は離れる。二杯目のコーヒーと自分のトーストを乗せたプレートを持ってソファに戻ると、二人は変わらずくだらないやり取りを続けている。もう一つ、タブレットを用意して、青は、二人の会話を小耳にはさみながら、ニュースサイトの目ぼしいタイトルを眺めて、本部からの連絡がないかどうかも確認した。

「滉大、またね」

 青から滉大へ用事がないことを確認した後で、千晴がアプリを終わらせた。

「ありがとう、青。ちょっとマシになった」

「…そうか、それは良かった」

「相変わらず、心がこもってないなぁ」

「お互い様だろう」

「…それも、そう、か…」

 ふっと、言葉を途切れさせて千晴は、凪いだ目を青に向けた。

「ねぇ、青も、私のこと、そんな風に思ってたんだ?」

「は?売り言葉に買い言葉程度のやりとりだろ、今の。何だよ、お前、今日はほんと妙だぞ」

 妙なのだろうか、と千晴は思う。

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それに、この感覚を知っているような気がして、ザワザワと心が落ち着かない。落ち着かないのに、それを治める方法がないことも、どこかで知っていると、確信がある。


 これは、終わりへのカウントダウン。


 そう、確信した後に、心底不思議に思う。この確信はどこからやってくるのだろうと。

 おわりのスタートを知っている。

 実感として、既視感として、本能的に…。


 でも、何が、おわるのだろう…。


「…ねぇ、青。明日になっても、私のこと、忘れない?」

「僕の記憶力は、そんな烙印押されてた程度なのか?」

「…ううん、違う…そういうんじゃ…」

「…忘れるわけ、ないだろ?」

 何言ってるんだ?と視線で一瞥すると、千晴は意外なほど真剣な様子で青を見返す。

「そう、だよねぇ…」

「そうだ」

 ココアを飲み、朝食を食べて、千晴は店を出た。

 平日だから学校があるだろうと、青に追い立てられて、だ。言われて仕方なく、という体裁が、店の外に出ても続いた。いつもなら、そんなやり取りも、ご挨拶程度で帰って行くのに。

「またな」

 そう千晴の背に声をかけると、ゆっくりと振り向いた千晴は、ひどく自信なさげに手を振って、不安げな表情をそのままに、とぼとぼと駅の方へと消えて行った。









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