第一話 「街の死角は概念の中に」 6
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街には死角がある。
トワイライトゲートには死角が幾つもある。絶対に見つからない場所が存在する。しかしそれを見つけた者は極少数だ。彼女はその内の一人だった。
追われている。殺してきた。紛れもない事実が頭で渦巻く。何故、何の為に私は狙われている。私が何かをしたのだろうか。疑問も渦に混じって踊り狂っている。
こんな世界に来ることが間違いだった。現実を受け止めなければいけなかったのだ。臆病な自分はどうしても病院に甘えてしまう。心の病院など存在せずに。
無法地帯なんて、悪人の溜まり場ではないか。現実世界が今も社会を築けていけるのは人間自身を縛る概念だ。それは憲法でも法律でも宗教でもいい。人間は何かを信じ、何かに縛られなくては、幸せに生きていけないのだ。法律や宗教に限ったことではない、人間はその信じる何かの違いの為に、簡単に同族や異族を殺す。
シオランは言った。人は国に住むのではない、『国語』に住むのだ。宗教も言葉だ。神を創り、名前をつけ崇拝する。その名前の違いで殺し合いを始める。元々ユダヤの聖地であったエルサレム。キリスト教が生まれ、やがてイスラム教ができる。宗教の違いに戦争を始めた。
何かを信じ崇拝すれば、他の何かを見れなくなる。だから、私達はこうして殺し合っているのだ。何かの違いで、そう宗教や文化、環境や知能で。人間はこうも同族嫌悪が激しく、何かの違う人間を追放する。信念や正義の正体がそれだ。
間違いだった。全てが初めから間違いだったのだ。私が何かを信じていたならば、それはこの世界と私自身の脆さなのだろう。
地面に足をついた瞬間から――いや、足を失くしてから、私の人生は終焉を迎えていたのだろう。
彼女は走った。ただひたすら走った。もうそろそろだ、時は来る。そう信じた。もう自分が何を信じて良いのかを忘れていたから、今まで信じて失敗だったと思っているのにも関わらず、この世界を再度信じた。自分を信用してはいけない、だから自分は走り続ける。走り続けなければ自分は見つかってしまう。
しかし限界という一本の線は命令を聞かない。彼女はやがて歩き始め、とうとう立ち止まった。裏道を走っていたため、左右前後どこを見ても自分がどこにいるのか把握できなかった。とにかく走るしかない、命令を出すが体は動いてくれなかった。
倒れこみ、その反動で少し転がった。万事休す、だ。もう無理なのだ。
青空を見る。道の真ん中だ。せめて壁際に寄ろう、と転がった。限界まで力を入れて立ち上がり、神経が切れたかのように膝から崩れ落ちる。その先は壁。背中を強打し、体勢としては壁に寄りかかる形だ。
突然の地震が身を襲ったが、彼女には全く関係がなかった。ああ、大砲でも飛ばしているのだろうか。兵器を使ったところでこの世界では問題がない。対して私は何だ。ピストルも鉄砲も持っていないではないか。けれど私は何だ。そんな状態だというのに近くにいた敵の兵士を殺せた。
人を殺す感触は今でも覚えている。しかし何が起こったかは全くわからない。何故私は人を殺した、そんな質問にも答えられない。人を殺した。私は殺人者だ。大きな罪を背負った悪人だ。罰が当たったのだ。もう逃げられない。罪は必ず裁かれる。悪人は必ず善人に裁かれる。――私は、人を殺したのだ。
突然男が彼女の目の前に飛び込んできた。着地音と少しの衝撃。軽やかな動作の男は彼女を見る。全身真っ黒な服。学生ズボン。腰には頼れる拳銃。それをホルスターから抜くと彼女に銃口を合わせた。
私はもう駄目なのだ。万事休す、もう無駄なのだ。
「待っていろ、助けてやる」
どういうことだろうか、男は一度舌打ちをすると拳銃をホルスターに納めて言った。彼女には全く理解できなかった。何が起こっているのだろうか。私を助ける?
それは本当だろうか?
*
ヨルは他の皆を連れて迷宮通り街と呼ばれる地区の前に立っていた。そこは迷宮の様に入り組んだ地形の場所だ。人は住んでおらず、完璧な裏通りである。彼らはその建物の連なる街を見据えた。
「ここにいるってわけ?」ヒビヤがヨルを見て笑った。
「俺ならここに隠れる」その答えに質問者のヒビヤがどっと増して笑う。
しかしヨルは確信があるかのように、この街を選んだのだ。自分ならここに隠れる、とはいえ相手は他人だ。相手は霊猫という名の女。性別すら合っていない。
彼は少し離れるよう促すと地面に掌を思いっきり叩き付けた。大砲を間近で聞いたかのような爆発音が轟き、奥にある建物が一瞬歪んだ。まるで地震だ。地面の僅かな歪みによって生じた空気の波が、建物や地面を歪ませたのだ。
「その方法があったか」リナが納得するように頷く。「いつ気が付いていた?」
「さっきだ。どちらにせよ、これは近くではないと意味がない」
彼は超能力を使ったのだ。かのんが彼の超能力を見るのは二回目だ。しかし何をしたか、というよりは何故それをしたのかわからなかったようである。
「リナの方こそ、よくここまで頭が回っていたな」
「なめないでくれる? そこの阿呆と私は一緒じゃないわ」
彼女は指でヒビヤを示した。ヒビヤはまだわからなかったようだ。彼はヨルの超能力を何度も見ているのだが、今回はぴんときていない。
「さて、俺は行って来る」ヨルがそう言うと、リナは笑顔で手を振った。
「わかっているわよ、さあ行ってらっしゃい」
建物の間を縫うようにして屋上を走っては飛んでいた。ヨルにとってはパルクールでも何でもない。屋上から屋上へ飛んでいるだけだ。例えば学校の机の上をジャンプで伝っていくような感覚だ。
目標を見つけると、彼はそこ目掛けて大きく飛んだ。放物線を描いて彼の体は目標の前に着地する。そして、あまり音の立たない軽やかな着地である。
「待っていろ、助けてやる」
彼は霊猫を見て、向けていた拳銃を納め言った。自分と同い年くらいの少女は、やはり戸惑ったような表情を浮かべていた。どこかで見たことがある、最近見かけた顔だ、と思ったが気に留めなかった。自分のことを敵だと思っているのだろう、と見当はついていたため、言葉はすぐに出ていた。
「俺は敵じゃない」
信用するかは彼女次第だ、と思いながら彼は彼女の手をとり、無理矢理立たせた。
「さあ、行くぞ!」
「え?」やっと声が出るようになった霊猫を無視して、彼は走り出した。
「俺は敵じゃない、いいか逃げたければそれを頭に叩き込んでくれ」
「え、え?」霊猫は戸惑うも、手を引っ張られ無理矢理走らされている状況を自分にとって都合の良いことだと思い込もうとした。
よし、とヨルが心の中で呟くと、その後「掴まっていろ!」と叫んだ。
二人は高く飛び上がり、そのまま屋上へ着地した。霊猫は驚きに絶叫していたが、着地すると涙目でヨルを見つめた。この男は誰だ、と言いたげなのはヨル自身にも十分わかっていた。
「何故、私を助けたの?」霊猫はそう問うた。「私は殺人者なんだよ?」
「殺人者とか、この世界ではどうでもいい。おまえもわかっているだろう?」
ヨルは意地悪に答えた。
「そうだな、おまえと俺は同じような人間だ、と思ったからだ。俺は現実世界に失望し、この世界に裏切られた。それを信じていたことが一番の後悔だと思っている。そうだろう?」
心でも見通されたかのような発言に霊猫は言葉を失っていた。自分が何を信じて、どう裏切られたかをこの男は知っている。
「おまえは霊猫だ。本名は違うだろうが、それがおまえだ。おまえに今最も大切なものがそれだ。だから、おまえは霊猫を崇拝すればいい。いずれ信用しなくてもよくなる時がくる。その時は周りの人間の前から旅立っていけ」
彼女にはよくわからなかったようだが、彼を見つめ大きく頷いた。
その直後、彼は振り向いてその先にいる人間達に言った。霊猫はその人間に気が付いていなかったが、彼は既に気がいっていたようだ。
「さあ、殺される準備はできているだろうな、第四位」
対峙するのは強弓のリーダー、超能力者第四位のアーキアとその部下数人である。