第一話 「街の死角は概念の中に」 1
自由な世界を望むならばその手を出せ。
ただし、現実へ銃口を向けるな――それが唯一の『法律』だ。
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恐怖に歪んだ表情をした男が朽ちた階段を上っていく。足音は細い空間に広がり、その旋律は自分自身を暗闇に沈ませている。彼はただひたすら無我夢中に上を目指した。この建物の一階は危険だ、自分の中の信憑性が全くない愚かな勘が言っているのだ。
彼の耳にはどうやら自分の心臓の音と自分の足が奏でる旋律と底の見えない静寂しか聴こえていないようだが、建物の外から爆発音や乾いた鋭い破裂音が飛び交い、何より鬱陶しい蠅のように上空の方向から空気を裂く落雷の如き重低音が轟いている。数々の不快な音は建物を震わせ、男の足をすくった。危うく転びそうになる彼は、その原因が何かも考えずに、足を進ませた。
男は痛みに耐えながら上を目指した。これは幻想痛だ、この世にない痛みなのだ。言葉通り、これは幻想の痛みなのだ。腕から服に滲み、滴り落ちる血は錯覚だ。その思い込みの所為で彼は自分自身を戦慄させていた。右腕から流れる血にすら意識が渡っていない。
男の右手には拳銃が握られている。グロック一七だ。彼は力の入る限り強く握り締めていたが、しかし恐怖によってもはや存在ごと忘れている。
男は階段の先に光を見た。物理的なそれではなく、直感によるそれだったが、一度瞬きをすると視界から光は消え失せ、代わりにドアが残った。ドアだ、この建物の屋上へ出るためのドアだ。彼はきっとこれを目指していたのだ。
必死にドアを開けた。ドアノブを回すタイプではなく、スライドし開けるものだった。しかしそれ以前に施錠されていることに気付き、彼は周囲を見渡した。彼が探しているものは鍵ではない。鍵など必要ない、今自分に欲しいものは鍵穴だ。
心臓の鼓動と荒い呼吸が速くなっていくのがわかった。冬でもないのに白い息が出そうなほど彼は焦っていた。手から出る汗が、左手の甲で血と混じり合う感覚がした。その間にも顔から流れる汗は襟を濡らし、右腕から流れる血は服に滲み、地面へ落ちる。
彼はドアの横にあったパスワード制の開閉パネルを見るなり、握っていた銃を左手に持ち替え、空いた右手で触れた。当然暗証番号を知るはずもなかったが、彼の予想通りドアの鍵は外れた。
ドアノブに手を引っ掛けようとしたが、上手く捕まえることができない。余計脈拍が速くなっていく。腹が立った彼はドアを蹴破った。
突風に逆らい前進した所為で血が吹き飛びそこら中へ散らばったが、果たして彼の思い通りの光景には辿り着けなかった。
彼の頭の中にはどこだか夢のような楽園が広がっていたが、彼のそれとは裏腹に現実というのは残酷で冷徹だ。
目の前に広がる景色と言えば、砂漠のような世界と半壊している建物、もはや土台しか残っていない建物の跡や瓦礫、そして無数の人間と戦車、戦闘機だった。銃声が飛び交い、恐怖に戦き絶叫すら出せない空気の中に上がる断末魔。戦闘機は空を裂き、落雷の如き爆音を鳴らす。耳を劈く音は無数に聞こえ、それは生命を奪い取っていった。
男は荒い呼吸を一度止め唖然とし、再び咳き込んでから汗を流した。まるでサウナの中にいるかと思わせるほどの汗が彼の顔から溢れ流れていく。その表情は絶望の一色である。
彼は銃声を聴いた後、自分の右腕に違和感を覚え、それを凝視した。違和感と言えばもともと彼は右腕を負傷していたが、新たな感覚に襲われていた。狼狽する彼に追い打ちするかのように再び銃声が鳴り響いた。今度は左手の甲だ。
恐る恐る右腕を見やると、服も体も燃えている。激しい炎が小さな旋風を起こし、肉体を焼いている。彼はようやく痛みを思い出した。待ち受けるものはやはり痛みだった。左手を見る。左右対称とでも言いたいのか、それさえも燃えていた。
断末魔に似た絶叫をあげた直後、突然炎は過激になり、彼の全てを包んだ。全身が燃え、焦げ落ちる感覚が彼を奈落に突き落としたのだった。