6.上陸
二〇一五年七月十五日、静岡県静岡市清水区。
早良はポニーテールを揺らして歩いて大学に通っていた。
あの体験は、彼女の予想を超えていた。しかし、生態調査が出来なかった事が悔しかった。だからもう一度海洋調査に出掛ける為にどうしたら良いか悩んでいた。
キャンパスに入った彼女は早速坂下にもう一度コンタクトをとりたかった。
大学に入ると、キャンパス内に有る端末で坂下の今日の予定をチェックしてみた。
「出張中」と記してあった。
「え? 今日授業有ったよね?」
彼女は休講情報もチェックしてみた。確かに、全て休講に成っている。
そんな話、聞いてなかったぞ。早良は首を横に振った。
静岡市内某病院。
定期健診に来た倉田丈は、あれから精神的に不安定なんだと診断されていた。
家にいれば、うるさい程警察や海保、そして海自の聞き込みが多かった。
ただどの人物も、一番要の部分を信じてくれなかった。
だから、彼は辟易していた。どの人間も、自分の事は気がおかしく成ったのだと言い、慰めの言葉をかけるのだった。それが嫌で嫌で仕方が無かった。
しかし、今日は違った。
「海上自衛隊の渡辺です」
その男は軍服を着たまま、病院の出口で待ち構えていた。
「何ですか? 僕はもう話す事は無いです。船長も見付からないし、僕の話を聞いてくれない。もう沢山です」
丈はどこか疲れ切った様子で応じた。
だが、渡辺は今までの事情聴取とは全く違う言葉を発した。
「状況が変わりました」
「変わった?」
「はい、私も体験したのです、駿河湾で。何か兵器では無い物の存在が有るような気がして成らないのです」
「兵器では無い何か?」
「そこで倉田さんのお話を聞きたいのです。一体何が有ったのか。何が駿河湾に潜んでいるのか」
渡辺の眼は鋭かった。彼はおもむろにメモをポケットから引っ張り出すと、丈を促した。
丈は重い口を開くのだった。
「僕達の船は、突然襲われたのです。何が襲って来たのか分かりません。ただ、僕が海に投げ出された後、確かにあいつがこちらを襲って来たのです。もう駄目だと思った時、別の何かが、あいつを叩き伏せたんです。その後、それ等はくんずほぐれつのまま海中に勢い良く沈んでいきました。そして、足元を陰が、巨大な陰が通り過ぎて行ったのです」
渡辺は、しきりにメモをとっていた。
「大きさは分かりますか?」
「僕を襲って来た鎌は、それだけで十メートルは有ったと思います。二本でした。それを叩き伏せたあの鞭のような何かも、同じくらいの大きさだったと思います」
「最後に通過して行ったその陰は、どれくらいの大きさでした?」
丈は考え込んだ。しきりにこめかみを指で叩く。
「……、それは分かりません。夜の出来事でしたし。でも、月明かりの下、確かにそれは通過して行ったのです」
渡辺は唸った。その陰が、もしかするとここ最近の海難事故の原因なのではないだろうか。
「何か他に変わった事は無かったのですか?」
丈は、空を見上げた。雲がもくもくと立ち昇っている。その形を見て、思い出したように口を開いた。
「変わった事かは分からないですが、ここ一月くらいめっきり魚が姿を見せないんです。記録的な不漁でした。こんな状況は生まれて初めてだと船長も語っていましたし」
「不漁か……」
渡辺はメモ帳を閉じた。
「こんな言い方は失礼かもしれませんが、一番貴方がまともなのかもしれませんね」
そう言うと、渡辺は頭を下げ、丈の元から去って行った。
東京都千代田区霞が関。
坂下は突如、相模湾の怪奇現象の対策メンバーに抜擢された。
それはあの海自の渡辺の計らいだった。
おおとりで体験したあの出来事は彼に、普通に考えれば信じられないような事を考えさせた。
どうしてダイオウイカは巨大なのか。
そう、それだった。
海底深くに潜む新種のクジラか何かの仕業だと本気で考えていた。
映画の話では無いが、突然変異の何かがいるのか、完全に新種の何かがいるのか、定かでは無いが、あの時のあのソナーの動き、あれは有機的な何かの存在を表しているのではないか。
捕まえる事が出来れば、新種かもしれない。ただ、船をも襲う危険な生物に他ならない。
それをどう伝えれば良いか分からなかった。
ただ、彼の学術的な知の欲求がその貴重な存在を失ってはならないと叫んでいた。
考え事をしている内に、海自、海保、静岡県警の三種お偉いさんが着席していた。
「え~、これより、駿河湾で多発している海難事故の対策会議を行う」
海自の一佐が会議をスタートさせた。
静岡県静岡市清水区。
早良は自分の足で、海洋調査に協力してくれそうな漁師を探しに、列車で興津に向かっていた。
窓の外は晴天。海の煌めきが眼に刺さる。
その時だった。
激しい揺れが、列車を襲った。運転手が急ブレーキをかける。早良の身体は、椅子から投げ出され、ドアの前に転がった。
「地震? 大きい」
早良は、列車のドアに身体をもたれかけさせた。
そして、彼女はそれを見た。
海がどんどんと陸地に迫って来る。津波だ。ただ問題はそこでは無かった。津波が小さく見える程の“それ”が、彼女の眼のフィルムに焼き付けられた。
海岸沿いに並ぶ海自の巡視船は、波に押されて陸地に持ち上げられた。
だが彼等がパニックに陥ったのはそれが原因では無かった。
何か巨大な物が、海岸に乗り上げていた。
焦げ茶色のその塊は、ゆっくりと、身体の横に有る六本の節足動物状の脚を細かく動かし始めた。波が一気に引いて行く。丸まっていた身体を伸ばすと、巨大な鎌状の腕を上空高く振り上げた。焦げ茶色した頭部と思われる部位には無表情の二つの光る眼が有った。
『GWOOOOOOOO!!』
“それ”が吠えた。顎は横に開き、顔の側面には刃のような巨大な角が生えている。それとは別に、後頭部にも角が六本生えていた。
高台に逃れた人々は、その姿を見ると、それが何かのアトラクションのように感じたか、携帯電話を取り出し、写真撮影を始めた。
すっかり第一波が引いた後、“それ”は、脚を動かし始めた。そのスピードが段々速く成っていく。それに合わせて、巨体が地上へと乗り出していく。
“それ”の目の前には、腰を抜かしたのか、津波でどこかやられたのか、動けないでいる青年がいた。
すると“それ”は、大きく一度仰け反り、頭をその青年に向かって先端から叩きつけた。
その光景は悪夢に近かった。“それ”は、その青年の身体を、昆虫のような口で咀嚼していた。
それを見た人々は、更にパニック状態に陥り、一斉に内陸の方へと、ある者は走り、ある者は車に乗り込み、ある者は自転車に乗って、逃れようとした。
“それ”は哀れな犠牲者を飲み込むと、次の獲物を狙って、陸の上に身体を動かした。
とがった脚が、コンクリートに突き刺さり、“それ”を前進させた。家々を踏み潰した“それ”は、雑居ビルを大きな鎌状の腕で薙ぎ払った。コンクリートと鉄骨が砕け散り、下を逃げる人々に容赦無く降りかかる。大きな破片にスカートを挟まれた若い女性が金切り声を上げる。“それ”は、彼女に向かって頭を伸ばした。再び“それ”が頭を持ち上げた時、彼女がいた所は血と肉片しか残っていなかった。
早良は列車の窓からその惨劇を目の当たりにした。巨大な甲殻類をイメージさせるその姿は、決して人間がコンタクトをとっては成らない存在だった。“それ”は、彼女の乗る列車の方へ脚を動かしていた。
「こっちに来る」
早良は列車のドアのロックを解除するよう、車掌に言うべく、最後尾まで駆けた。列車の一番後ろ、車掌はボーっと惨劇を眺めていた。早良は思い切りドアを叩いた。
「ドア開けて!! 逃げなくちゃ!!」
車掌は我に返った。
「これより全車両の扉を開けます。ドアから離れるように。列車を降りましたら、係員の指示に従って下さい」
車内放送が終わると、列車の扉が全て開いた。彼女は、陸側の扉から線路に飛び降りた。
車掌と運転手がボディーランゲージも使って、線路上を誘導していた。
早良は、“それ”を一瞥すると、運転手について行った。
静岡県静岡市葵区、倉田家。
「丈、これって……」
丈と彼の母親は、テレビの緊急速報を見ていた。お昼のバラエティー番組を見ていたら、突如画面が切り替わり、その状況が映し出された。
丈は見た。自分を襲った鎌の持ち主を。
「繰り返しお伝えします、今日午後一時三十分頃、静岡市清水区に怪獣、怪獣が出現しました」
ニュースを聞くなり、丈は家を飛び出した。
「丈、どこへ行くの!? 丈!!」
東京都千代田区霞が関。
「ですから、正体の分からない兵器と言うよりも、何か違った生物的な物を感じます」
坂下は演説していた。
「まずは生物ならばその生態を詳しく……」
その時、扉が乱暴に開けられ、一人の男性が走って、奥の席に座っている海自の制服の男に耳打ちした。
「それは本当か?」
「はい、確認済みです」
すると、彼はスクリーンを降ろし、テレビのチャンネルに合わせた。
「おお……」
会場は刹那にどよめきで埋まった。
そこに映し出された光景は、今清水で起こっている出来事だった。
「何なのだこれは!?」
その姿を見て、誰もが信じる事が出来なかった。
それが例え坂下であったとしてもだった。
『GWOOOOOOOOO!!』
“それ”は再び咆哮を上げた。更に脚を蠢かし、逃げ遅れた区民を次々に捕食していった。口元の牙が唾液と犠牲者の体液で汚れているのが早良には見えた。
早良は逃げながら、背後から聞こえる断末魔の数々を耳に入れた。“それ”は圧倒的な巨体を利用し、町を蹂躙していた。踏み潰される人間も食い散らかされる人間も、ただ何の理由も無く命を落として行った。
「自衛隊は何をやっているんだ!?」
早良は舌打ちをした。どうやっても一介の市民にどうこう出来る状態じゃ無かった。
と、その時だった。早良はあのわしゃわしゃとした“それ”の蠢く音が止まったのを聞いた。
早良は振り返った。“それ”は海岸から二三キロメートルの所にいた。だが、それ以上陸地に入って来なかった。くるりと背を向けると、海の方へ向かった。甲虫のような背中が見えた。
「満腹と言うわけなのか……?」
避難を促す列車の車掌と運転手に阻まれながらも早良はその様子を見ていた。
“それ”は、鎌を大きく振り上げると、再度咆哮した。
『GWOOOOOOOOH!!』
「何なんだ、一体……?」
しかし次に見た光景は、更に彼女の常識を覆すものだった。