3.坂下総一
二〇一五年七月八日、清水産業大学。
早良はゼミに出ていた。「生物学演習」と言う題目だ。早良を含めて十人くらいゼミ生がいた。
今日の議題は、「ダイオウイカは何故巨大化の道を選んだのか」だった。
学生達が自由に討論する中で、一人腕を組んで押し黙っている男がいた。彼こそ、このゼミの教授、坂下総一だった。専攻は海洋生物学。明るく気さくな性格で、趣味は手話という変わり者だった。
「ミズダコだって、最大全長はかなりの大きさに成りますが、それは浅瀬で生きる術。深海のダイオウイカはあんな巨大化する必要は無いですよね」
男子学生の一人が熱く語った。
それに早良は反論する。
「ダイバーのマッコウクジラと戦い勝つ為には、身体を大きくする必要が有ります」
と、その時チャイムが鳴った。坂下は、腕を組んでいるまま、口を開いた。
「マッコウクジラに食べられるから巨大化したのか、巨大化したからマッコウクジラの良い餌に成ったのか、それを見極める必要が有るよね。次回までに考えて置くように。次のプレゼンは勝俣君だね。頑張ってくれよ」
坂下が締めると、ゼミ生達は散らばった。
「坂下先生」
早良は坂下を呼び止めた。
「どうしたんだい早良君」
「海洋調査に出たいのですが、そのコネクションに成って頂け無いでしょうか」
早良は正直に話した。
「海洋調査?」
「そうです、深海生物について興味が有りまして。博士課程にまで行かないと調査には参加出来ないのですよね。私、修士で学生生活を終える予定なので、何とか出来ないでしょうか?」
坂下は顔をしかめた。無理では無いかもしれないが。何度か彼女と話をしたし、彼女が深海生物を研究対象にしたがっているのも知っていた。しかし海洋調査はもっと専門的な知識を持ってでないと意味が無い。また、彼女が何を求めて海洋調査に臨むかもはっきりしていない。海洋調査の殆どは空振りに終わってしまう。その事を理解している者は、何度も何度も失敗を繰り返して調査する。彼女は残り数か月で卒業してしまう身だ、成功するビジョンしか頭に無いのではないか。
「大学の調査艇に乗せるのは難しいかもしれないな」
早良のがっかりした顔が坂下の眼に映った。
「だったらね、個人的に漁師の方に交渉した方が良いよ」
「交渉ですか?」
早良の顔に光が宿った。
「夏休みも近いし当たってみたらどうかな。紹介状ならば書くよ」
「坂下先生、よろしくお願い致します!!」
早良は深々と頭を下げた。
「また何か有ったら声かけてくれ。私の研究室に来てくれて構わないよ」
「先生殆ど研究室にいらっしゃらないじゃないですか」
坂下の家は新横浜に有る。彼は新幹線で通勤しているのである。その為、研究室にいる時間が限られているのだ。
「アポイントメント取ってくれれば少しは融通が利くと思うが」
早良はおもむろにポケットの中の手帳を取り出し、日にちを確認した。
「明日明後日はお休みですからね。どうですか、月曜日にでも。先生は午前の方がご都合合いますよね」
坂下も手帳を鞄から引っ張り出した。
「良いとも。今の所予定は無いし、二限目はどうだろうか?」
早良もそれを確認した。
「分かりました、研究室に伺います」
「了解した」
坂下は手を振ると、教室から去って行った。
昼休み。
早良は長谷川と大学の庭で会っていた。二人で弁当を食べる為だ。
長谷川もゼミが有ったそうだ。長谷川は大学院の哲学科で今日も倫理学について熱く語ったらしい。彼女はシェリング哲学を大学時代に専攻していた。一度、まだ学部生だった頃、彼女に誘われて早良はスピノザについての授業を受けた事が有ったがちんぷんかんぷんだったのを覚えている。
「マッコウクジラに対抗する為に巨大に成ったのか、はたまた巨大に成ったからマッコウクジラの餌に成ったのか、ね。中々面白い議題じゃない?」
長谷川は持参した弁当に箸を伸ばすと、ウインナーを口に運んだ。
「面白いかもしれないけれど、難しいわよね。どちらが先に存在したのかしら?」
長谷川はふふふと笑った。
「単純に考えればクジラの方が後に生まれた生物よね。頭足類は恐竜の時代から存在していたらしいしね。ダイオウイカも恐竜時代の忘れ物かもしれないわね」
そう言われればそうだ。
「深海の食物連鎖ではダイオウイカはかなり上位にいると思うんだけど、実際にマッコウクジラに対抗する為に大きく成ったと私は思うの。それ以外の理由を考えるとしたら、深海と言う過酷な環境で種の繁栄の為に、より長く長く生きるように成って、それからあんな巨体が生まれたのではないかって言う説も有るの」
「ほほう」
長谷川は感心した。さすが、学んでいるだけは有る。
「早速ディスカッションかい、早良君」
早良と長谷川が振り返ると、そこには坂下が立っていた。
「坂下先生」
早良が会釈した。長谷川も真似る。
「マッコウクジラとダイオウイカ、深海の怪物同士だ。マッコウクジラはより深く、より深く潜る為に進化し、ダイオウイカは地上では考えられない巨体に進化した。ダイオウイカがマッコウクジラに勝つ事も逆もまた有るのだろう。このライバル関係は深海の浪漫だね」
坂下はそういうと腰を屈めた。
「所で、美味しそうな弁当だね」
長谷川の物を見てか、早良の物を見てかは分からなかったが、二人は軽く笑った。
「実は私も弁当を持って来ているのだよ」
坂下はにっこり笑うと鞄から風呂敷包みを取り出した。
「先生、愛妻弁当ですね」
早良がにんまりと笑みを浮かべる。それを見て、坂下は恥ずかしそうに微笑んだ。
「一緒に食べても良いかな?」
「私は構いませんけれど?」
早良は何の抵抗も無く答えた。
長谷川も、少し恐る恐るだが頷いた。
「有難う」
坂下は早良の隣に座るのだった。
三限目の始まりのベルが鳴る十分前くらいに三人は別れた。
早良と坂下で話が盛り上がるのは当たり前だが、意外と長谷川も乗って来て、専攻外だと言うのにちゃんと会話が出来ていた。
長谷川のポテンシャルの高さには驚かされる。
早良はそう思った。
「漁師さんに協力を頼むか」
早良は自分がウキウキしている事に気が付いた。今から坂下の所に行って、紹介状をお願いしたいくらいだ。
きっとこの休みに坂下が根回ししてくれるのだろう。
或いは、大学を通じてお願いをすれば、大学側が研究費用を肩代わりしてくれるのかもしれない。
どちらにしろ、海洋調査は一度やってみたかった事だ。彼女の研究にも関係有る。深海の、光の届かない空間で、生物はどんな五感を持っているのか、図鑑や辞典では無く、自分の眼で、手で、確認したかった。
それは、彼女が深海に可能性を見出しているからであった。
坂下は、そんな彼女の思い等知らない。しかし、一人の熱心な学生が、調査をしたいと言うのだから、その願いを果たしてやりたかった。
この休みの間、知っている協力的な漁師に当たってみようと考えていた。無碍には断らないだろう。
聞いた話だと、最近駿河湾から伊豆沖にかけてかなりの不漁らしい。大学から多額の報奨が出るとなれば、乗って来るかもしれない。食えない魚を採っても、役に立つと言うからには決して悪い話では無いはずだ。
取り敢えず今日は、残り三時限授業を終わらせて、横浜の家に帰る事だった。
最近、娘の京子が冷たいのも気に成る。
坂下はシングルファザーだった。
妻は、もう十年も前に病死してしまった。当時七歳だった娘は、今はもう十七歳。坂下の母が家に残っているが、父親としては、長い間留守にしたくないという想いも有った。
しかし、坂下も何年も何年も耐えて漸く大学のお抱え教授に成れたのだ。それを捨てるのも嫌だった。
だから坂下は、娘が自分に冷たく成ったのも、決して批判出来る立場では無いと思っていた。
「さあ、三限目行きますか」
研究室を後にして、彼は教室が有る一号館に入って行った。