2.丈の証言
二〇一五年七月八日、静岡市某病院。
病室の中、倉田丈は目を覚ました。
身体に痛みは無いし、特別しんどい事も無かった。
「丈、目を覚ましたのか?」
聞き慣れた声が聞こえた。母親の声だった。
ここに連れて来られたのは昨日の事だった。あれだけの大事故だったというのに、軽い打撲だけで済んだのだから凄い話だ。
ただ、昨日は非常に眠たかったのを覚えている。
「倉田君、すまないが私達の話を聞いて貰えるか?」
病室にいるのは丈と母親だけでは無いらしい。そう言えば昨日もその人達はいた。背広姿の男が三人。皆手には手帳らしき物を持っている。
「静岡県警の者だ」
「私は海上保安庁の者です」
「海上自衛隊の竹花です」
そうだ思い出した、彼等もいた。可哀想だが昨日は帰って貰ったんだった。
「早速だが、一体何が起きたのか教えてくれないか?」
何が起きたのか?
丈の記憶が頭の中で交錯する。海に出て、漁をしようとして、伊豆諸島の方まで行って、魚群探知機が沈黙していて、それから急に探知機が反応して、船長が……。
「……船長、船長は!?」
丈はバッとベッドから上半身を起こした。そして、一番手近な背広を掴んだ。
「船長はどうしたんですか!?」
「丈、お止め」
母が丈をなだめようとする。しかし丈はそんな彼女の言う事を無視した。それ所か更に激しくその背広をゆするのだった。
「船長は無事なのですか!? 生きているのですか!?」
と、丈が掴んでいるのとは別の背広が答えた。
「目下の所、海保が捜索中だ。まだ可能性が有る。しかし見付かっていない」
「捜索中!?」
丈はキッとその背広を睨んだ。
「可能性が有るですって!? 何を呑気な、ちゃんと捜しているのか!?」
「丈、丈、お止めなさい」
「お袋は黙っててくれ!! 船長は、船長は必ず生きているんだ!!」
背広を掴む丈の手が僅かに震えていた。それは勿論恐怖でも悲しみでも無かった。
「倉田君、落ち着いてくれ。彼の捜索の為にも何が有ったか教えて欲しいのだ」
丈は、一瞬、眼を見開いたが、止めた。肩で息をしているが、背広にかけていた手を解いた。
「何が有ったか、ですよね……?」
「そうだ、何が有ったのか?」
丈はゆっくり息を吐くと、あの時の事を思い出そうとした。
「魚群探知機が反応して、それが今までにないくらいの巨大な物だったんです。船長が大物が来たと騒いで、そしたら」
ここまで来て、丈は思い出したのだ。
「下から突き上げられたのです。何か物凄く巨大な何かに、足下からドッと突き上げられたんです。そして、船の左右から何かが迫って来て、僕は海に投げ出されたんです。船が爆発したその衝撃で僕は吹っ飛ばされたんです」
背広が一斉にメモを走らせる。
一人の背広が口を開いた。
「下から突き上げられたと言う事は、やはり潜水艦か?」
「その可能性が高いな」
別の背広が応じた。
しかし、丈は首を横に振った。
「違う、潜水艦なんかじゃ無いです。海に投げ出された僕が見た物は、潜水艦なんかじゃ無かったんです」
「と、言うと?」
丈はこめかみを両手で押さえた。そう、あの時見たあれを、彼の眼に蘇ったのだ。
「海中から、巨大な何かが二本姿を現しました。まるで天高く伸ばされたかのような巨大な、そうですね、鎌です。物凄い、十メートルも有るような巨大な鎌が、海中から姿を現したんです」
「鎌?」
背広の一人が怪訝そうな顔をする。
「そう、巨大な、船程も有る鎌が、僕の方を向いて、振り下ろされようとしたんです」
「丈、丈、何を言っているの!?」
丈は、そんな母の言葉を無視した。何を言っても今の丈には意味が無いのだ。
「僕は、やられる、と思ったんです。覚悟を決めたのです。そしたら……」
いつの間にか背広達の手も止まっていた。
「そうしたら、海中から、巨大な鞭のような物が出て来たんです。鎌に負けないくらい巨大な物が。それが、真っ直ぐ鎌に向かって振り下ろされて、大きな水飛沫と共に、それらは海中に姿を消したのです。僕は、荒波の中、見たんです。足元を、海の中を、何か巨大な“それ”が通過していくのを」
病室は静まり返っていた。
すると何処からか、すすり泣く声が聞こえて来た。
丈の母親だった。
「もう良いですか、もう良いですか……?」
丈の母親は、背広の三人に向かって涙ながらに呟いた。
背広の三人は、肩をすくめると、丈の元から離れて行った。
「あ、お母様、少し」
一人の背広が、母親を呼び出した。
ハンカチーフで顔を拭きながら、母は病室の出口に向かった。
「何でしょう?」
病室の扉を閉めた瞬間、彼女は三人の背広に囲まれた。
「息子さん――丈君は気が動転しているだけです。あれ程の事故だったのです、少しばかりショックが残っているのでしょう。大丈夫です、専門的な治療を受けて、時間が経てば、こんがらがった記憶の整理もつくでしょう」
「……専門的な治療ですか? 心療内科とかですか?」
「警察病院の紹介状を用意させます。この先も何度か息子さんの所に通う事に成ると思いますが、よろしくお願いします」
背広の三人は、丈の母親を解放し、頭を下げると、病院の無機質な廊下を去って行った。