9.その名は“ペレオン”
二〇一五年七月十八日、静岡県静岡市清水区。
丈は、清水産業大学のキャンパスに入っていた。坂下の研究室に向かう為だ。半袖のシャツにチノパンと言うスタイルで彼は外来受付に名前を掻き込んだ。大学の構内は、迷う程広く複雑では無かったので、研究室が有る館を見付ける事は、すぐに出来た。
「あ、倉田さん」
丁度研究室に入ろうとした時、早良と合流した。
そもそも、今回彼を大学に招いたのは早良だった。坂下は、倉田の事を訝しんで見ていたように思われる。それを気付いたどうかは知らないが、早良がメールアドレスを交換してくれて、今回招いてくれたのだ。
あれからもう三日が経っていた。自衛隊はどちらの生物を見逃していた。
一部報道では、新潟沖にどちらかが墜落したとも言われている。しかしそれは根拠の無い物らしい。
そんな状態でこの国は案外平気なのが凄い。いつ、海から、空から、奴等が攻めて来るか分からないと言うのに。
自衛隊が哨戒活動をしているが、果たしてどこまで効果が有るのか彼には分からなかった。
「じゃあ入りましょうか」
物思いに耽っていると早良に促された。
「失礼します」
早良がノックして、部屋へ入る。
「早良君か、ようこそ」
早良が会釈して入ると、倉田も続いた。
「ああ、倉田丈君だったね、ようこそ」
坂下は、以前程不快な表情を見せなかった。それが丈には救いだった。
二人は研究室のテーブルから椅子を引き出すと座った。
「早速だけど、例の二匹、行方不明らしいね」
「先生も気に成りますか?」
「勿論だよ。自衛隊は何をやっているのか?」
坂下は電気ポットの前に立つと、インスタントコーヒーを入れ始めた。
「空自のスカイマーカーが追尾していたみたいだけれど速力不足で断念したらしいね」
「自衛隊なんかそんなもんです」
丈だった。丈は自衛官に関して良い思いが少ない。結局彼が捜索を求めていた船長もまだ見つかっていない。しかし、あの日見た光景から彼は、船長はもうこの世にいないのではないかと考えていた。
「あの文字の解読、どうなりました?」
早良が問うと、坂下は早良と丈の前にマグカップに入ったコーヒーを差し出した。
「ミルクとシロップは要るかい?」
「僕はブラックで」
「私はガムシロ一つでお願いします」
坂下は自分の分のマグカップとシロップ二つとミルクを一つ持ってきた。ガムシロップを早良に渡す。そして自分のマグカップにシロップとミルクを入れた。
「マドラーはそこに立て掛けて有るから」
「あ、これですか」
早良は、テーブルの上に鉛筆のようにコップに立て掛けられているマドラーを一本取った。
坂下も一つ取り出すと、マグカップの中をくるくると掻き回した。
「あの文字だけど、解読は出来たらしい」
「え?」
早良が素っ頓狂な声を上げた。予想外だったのだろう。
「東洋言語学の鮫島先生が徹夜で翻訳して下さったんだよ。何だか日本語に近い言語らしくってね、そこまで難しい物じゃ無かったんだとか」
丈もそれを聞いて驚いた。あの象形文字に意味なんか有ったのかと今更ながら思っていたからだ。それに彼にとって、そんな暗号の解読よりも、二体の怪物がどうなったのかが気に成った。そのヒントを得る為に、今日ここに来たのだ。
もっとも、早良が誘わなければ彼もここには来るつもりは無かったのだが。
「聞くかい? あの文字の翻訳」
早良が眼を光らせた。
それに対して丈は今一つ乗り気で無かった。
「これだよ。まだ日本文としては完成されて無いようだけど」
坂下はA4サイズのそのプリントを二人に配った。
早良がゆっくり読み上げる。
『人が人を裁いてはならない。人を裁くのは神である。炎の神、炎を操り罪を裁く。水の神、水を操り人を守る。風の神、風を操り恵をもたらす。土の神、大地を操り全てを壊す』。
早良が読み終わって、暫く沈黙の時間が有った。
「……で、どう言う意味なんですか?」
丈は痺れを切らして聞いた。
「よく意味が分からないな、確かにこれだけでは」
「でも……」
早良が顎を手に乗せて杖づくと、口を開いた。
「あの龍は、火を吐きました。『炎を操り罪を裁く』、これにマッチしているのではないですか?」
「『炎を操り』か」
丈はコーヒーを口に入れてその意味を噛み締めるのだった。
「先生、原文を見せて頂きませんか?」
早良が頼んだ。何を思っているかと丈は訝しんだ。
「これだよ」
早良は一枚のA3の紙を貰った。そこには坂下がデジカメで撮ったデータを基に再現した物が印刷されていた。
「この三行目ですよね、『炎の神、炎を操り罪を裁く』の箇所。これ、ギリシャ語に似ていますよね」
「ギリシャ語? 字体がって事?」
坂下から驚きの声が出た。そんな発想は無かった。
「Π、ε、ρ、ε、ο、ν、ν。似ていませんか?」
早良が見せて来る。しかし、丈には何の事か分からなかった。ギリシャ語なんか「メタクサ」しか知らない。
「『Περεονν』、ペレオンか。あの龍はペレオンと言うのか」
早良は頷いていた。
「良い名前だと思いませんか?」
早良はよりにもよって丈に話題を振った。丈は苦笑したが、頷くのだった。
「何か奴、とか、怪獣、とか、そんな呼び方じゃややこしいよね。ペレオンか、良いじゃない」
ふっとそれを聞いて坂下は不敵な笑みを浮かべた。
「これは対策センターに持っていこう。ついでにもう一つの奴の名前も考えてくれ」
「ペレオンと対峙する甲殻類のようなあの怪獣ね、どうした物か」
早良は頭を抱えた。
「セト」
「え?」
「名前だよ。エジプト攻めの神様、エジプト神話に出て来るエジプト外の神の事だ。知らないかな?」
「良く分かりませんが、良いじゃないのですか? ペレオンにセト良い感じですよ」
丈はホッとした。唯一役に立たない人間だった彼が初めてこの場の話の中心に成れた気がした。
「ペレオンにセト、この二つの名前を陳じてみるよ」
坂下は笑いマグカップを口に運んだ。
二〇一五年七月十九日、長野県上伊那郡辰野町上空。
空自のレーダーが空中を飛ぶ未確認飛行物体を捉えた。すぐにスクランブル中のファントムが呼び出された。
「目標は?」
司令官が問う。
「形状を確認しました。静岡に上陸した甲殻類状の巨大生物です」
「奴の目的進路は?」
「このままの航路だと松本市に向かいます」
司令官は一気に顔色を変えた。
「目標の進路は人口密集地だ。海上に誘導後、撃破せよ」
「了解、威嚇射撃を行います」
ファントム91に乗り込む高田は朝日に輝く虹色の翅を見た。六本の脚を腹部側にたたみ、鎌を身体の前に折っているその姿は、彼が演習で相手をしたどんな目標よりもおぞましかった。
ファントム91は機体右前方に有るバルカンを発射した。
巨大な目標にその攻撃は命中した。特別ダメージを与えたかは分からなかった。しかしその動きには変化が有った。
巨大な翅を僅かに傾けて羽ばたかせると、身体の動きを変えた。今まで前方しか見ていなかった目標は、高田の乗るファントムへと視線を移したのだ。巨体が、ファントムに詰め寄る。
「運動性は目標の方が上です」
高田は必死に司令部へ伝えた。
「回避に専念し、日本海へ誘導せよ」
「了解」
高田はそう返信したが、そこまで粘れる自信は無かった。
巨大な目標は、翅を器用に前後左右に動きを変えて、変幻自在の飛行ルートを展開した。高田はファントムを右に左にと大きく揺さぶらせた。
「化け物め!!」
思わず悪態を吐く。
その時だった。衝撃波が突然空を切った。高田のファントムは、それに吹き飛ばされてしまった。態勢を立て直した高田が見た物は、空中戦を展開する目標と、あの龍だった。
「司令、どうすれば!?」
高田はその光景を、眼の前の戦いを、ただ眺めるしか出来なかった。
「人口密集地からは遠ざかりました、ミサイルの使用許可を!!」
ややノイズが走った後、司令の声が入って来た。
「ミサイル発射を許可出来ない、海上に誘導せよ」
高田は機首をもつれ合う二体に向けた。ロックオンする。どちらかで良い、撃破してやりたい。
先程の目標は、折り畳んでいた鎌を広げて、龍の攻撃に応戦していた。大振りで空を切る。龍は片方の鎌の根本に噛み付いた。そのまま噛み砕けるかと一瞬思えたが、振りほどかれ、逆に肘を背中に叩きつけられる。すると龍は、相手の背中に手を回し、翅を鷲掴みにした。翅の動きが止まる。それと同時に龍は自身の翼を背中の中に収納した。
揚力を失った巨大な二体の怪物は、一気に下へ落下するのだった。
長野県上伊那郡南箕輪村。
「空自はまた目標を見失ったらしいな」
坂下はヘリコプターで飛んでいた。
「龍がペレオン、甲殻類がセト、でしたっけ?」
ヘリコプターに乗り合わせていた海自の自衛官――渡辺がその名を口にした初めての自衛官と成った。
「どうせ呼び名に困っていただろう?」
「そうですね、私達は目標甲、とか乙、とか呼んでいましたからね、ややこしく無くて助かります」
「で、ペレオンとセトがどこへ行ったか見当が付かないのだと?」
「ええ、恥ずかしながら」
「私が呼ばれた理由は?」
坂下が多少不機嫌そうに聞いた。
「少なくとも私達の知る人間の中で最もセトとペレオンの生態に詳しいので」
坂下は苦笑した。
「人を動物図鑑のように言ってくれる」
長野県伊那市。
空自が二体を見失ってから既に五時間が経とうとしていた。
坂下に置いていかれた早良は丈を頼る事にした。丈も、ペレオンやセトの事が気に成るようで、早良が朝早くに坂下が自衛隊に同行した事を聞いた時、急な打診にも関わらず、車を動かしてくれたのだから有り難い。二人は坂下からの、「上伊那に発つ」の情報だけを頼りにアルプスをまたぐと飯田市から上伊那郡に入って行った。
「この山のどこかに、ペレオンやセトがいるのかしら?」
早良が丈に尋ねて来た。
「だとしたら、一刻も早く見付け出して、駆逐して貰わないと」
山二つ程超えた先に、少し開けた空間が現れた。
「ねぇ、何か聞こえない?」
「え?」
早良に言われ、丈は耳を澄ませる。遠くの方で、何かが唸っているような音が聞こえた。
「この音、もしかして……?」
早良が車の窓を全開にする。音は近い。
「あっちの山の方じゃない?」
早良が指差す先は、ただの野山だった。所が、そこから叫び声が聞こえて来た。女性の声だった。
「多分そうだ。行ってみよう」
車を飛ばす。一気に坂道を上り上がる。
明らかにここだ、人々が大勢走ってこちらへ逃げて来ている。
「早良さん」
「ええ、そうね」
そのまま車で向かうには限界に達した。ただでさえ狭い田舎道を、それぞれ様々な格好をした群衆が埋め尽くしていた。唸るような音も近くなる。二人は車を置いて、群衆に逆らい山道を上った。
そして見付けた。
「セトだ……」
焦げ茶色をした巨大な身体が、屈めて地面を貪っていた。