無知と誘惑
「お前も俺の会社に来いよ。一緒に研究しようぜ。」
「だから言ってるだろ。俺はそんなもんに興味ないって。」
久しぶりに中学のときからの友人である、谷治 博に会った。中学時代こいつは俺の自称ライバルで、事あるごとに突っかかってきていたのだが、就職した途端手のひらを返し、一緒に研究しようと熱心に勧誘してくるようになった。正直うざい。
「この研究所だって太陽電池使ってんだろ?これから太陽電池はもっと普及するだろう。けど、それには蓄電池の技術を進歩させることが必要不可欠なんだ。わかるだろう?お前、世界の為になるような研究をしてみたいと思わないのか?」
「思わない。世の中がどう変わろうと、興味ないんだ。興味があるのは……。」
「胸と名前だろ。この変態め。」
そう、大きな胸と面白い名前だけ。
悪いな博。けど、これだけはわかってくれ。お前のことが嫌いで断ったわけじゃないってこと。お前は呼びようによっては博博士。漢字で書くとそこまでつまらないわけじゃあないんだ。
だが、博士には及ばない。巨乳であり、片栗片栗子という名であり、更には妹のおかげで名札を着けた博士以上に俺を興奮させるものなんてこの世にはないだろう。
「変態で結構。俺は自分の欲望の為だけに生きているからな。」
胸を張り、自信満々に言った。いつもならこれで博はあきらめて帰る。がっくりと、心底残念そうに、そして心底残念な奴を見るような目をして帰る。
だが、今回は違うようだ。何故か怪しげに笑っている。
「くくく。お前は知らないようだから教えてやる。社会人は働くとき、名札を着けてたりすることもあるんだぜ。特に俺んとこの研究部は、誰がどこの研究をしているか分かりやすいように常に名札を着けている。」
「な、なにっ!?」
名札、だと。それも全員が。俺が小学校のとき当たり前のように得ていた幸せであり、中学校のとき突然失ったあの幸せ。どうせ高校にも名札制は無いだろうと、進学することなくここの助手になったんだった。だが、まさか社会人には名札文化があるとは。それさえ知っていれば、普通に進学して、大学行って、面白い名前の人がいる企業に就職していたかも知れない。なんてことだ。これこそまさに悲劇。
俺がうろたえていると、博が更にとんでもない事を言った。
「それにな、お前を引き入れるためにわざわざ社長に直談判して、有卦 漬という名前の受付を雇ったんだ。あいつは営業部希望だったが、お前の為に俺が土下座して、泣く泣く引き受けてもらったんだ。」
「へ、へー。ちなみに有卦さんって巨乳?」
「もちろんだ。」
「そ、そうか。」
男に二言はない、という言葉がある。しかし、本当に二言がないならばそんな言葉が存在する必要はなく、つまり男に二言はあるのだ。要するに、俺が博の説得に乗ったとして、それは仕方のないことであり、有卦さんもわざわざ受付になったのに成果無しでは浮かばれないだろう。仕方がない。仕方がないんだ。
「あの、そのだな。急には決められないし、な。博士に相談してから決めるよ。」
「その様子だと期待できそうだな。じゃ、期待して待っておくよ。じゃあな。」
「お、おう。じゃあな。」
「博士、大事な話があるのですが……。」
「どうした助手よ?珍しく真面目な顔をしているようだが。」
「俺、就職します。今までお世話になりました。さようなら。」
「何、じゃと?就職、か?助手よ、金に困っておるなら申せ。いくらでも出してやるぞ。」
「え、いくらでも?」
「そうじゃ。どうせ我輩は稼ごうと思えばいくらでも稼げるからな。大切な助手を引き止めるためなら金に糸目はつけぬぞ。」
「やっぱり取り消します。あの、ちょっと待ってください。」
俺はかつて両親に言われたことがある。「お前は変態だが、それ以上にクズだ。」と。俺はその言葉に誇りを持っている。
欲しいものは全て手に入れたい。それも楽して、だ。携帯を取り出し、番号を打ち込んだ。
『もしもし。博か。やっぱり世話になっている博士を裏切ることは出来ない。』
『そうか。それは残念だ。まあ、諦めるよ。』
『いやちょっと待て。』
『は?』
『ここ、水曜は休みなんだ。』
『……水曜だけこっちで働きたいって事か?』
『あぁ、よろしく。』
『はぁ、社長に言っておくよ。』
『ありがと。じゃあな。』
『おい待っ』
持つべきものは良い友、良い博士だな。それだけで金も環境も職も、欲しいものが何でも手に入るぜ。
「博士。思えば、これまで世話になっていた博士を裏切るような真似は出来ません。先程はとんでもない事を言ってしまってすみませんでした。旧友から弱みに付け込まれてしまっていて……。」
「いやよい。取り敢えず百万やる。これで美味い物でも食べて、元気出せ。お前は我輩の大切な助手なのだからな。」
「はは。ありがたき幸せ。」
「博士。前から言いたいことがあったのですが、よろしいでしょうか?」
「うむ。言ってみよ。」
「博士はすぐ人にお金を渡しますけど、それ、止めたほうが良いですよ。悪い人間が群がってきますって。」
「ふむ。それは大丈夫だ。相手を見てやっていることだからな。まぁ、悪い人間に騙されたこともあるがな。」
「騙されたことがあるのですか!?博士を騙すなんて許せませんね。」
「そうじゃな。確か、十年前、まだいたいけな少女じゃった我輩に「大人になったら結婚しよう。」なんて言っておきながら、まんまと騙しおって。とんでもない奴じゃ。」
「げ。」
「しかも「俺は結婚すると決めた相手にしか自分の名前を教えないんだ。むやみに名を教えるのはふしだらだ。」とか言っておきながら我輩に名を教えてくれたのう。」
「はは。」
「それでもって「やっぱり忘れてくれ。俺を名前で呼ばないでくれ。」だとか、信じられぬ。」
「……。」
「嫌われたのかと心配しておれば、わざわざこんなところに研究所を建ててくれ、しかも共に暮らすことにもなり、正直意味が分からん。」
「ま、まぁ、色々事情があるんですよ。」
「ふむ。まぁ良いか。我輩も色恋沙汰より研究が楽しい部類の人間じゃからな。しばらくはこのままでよい。しばらくは、な。」
「は、ははは。」