夕方
走っている中に「どうせなら、海でも見てみたい」と思って、私は、海に向かって走ることにした。もはや、私は単に走っているのかそれとも逃げているのかどちらなのかわからなくなっていた。
走っていると、だんだんと潮の香りがしてくるのが感じられた。私は、海は別に好きではなかったが、今日はどうしてだか海が見てみたくなったのだ。私は、小学生の頃に父に連れられて一度だけ海で泳いだことがある。いや、正確には泳いだというよりも浮き輪で浮かんでいただけだ。その浮き輪を父は押しながら、私を沖と運んだ。
日本の海は、汚い。どうしてあんな真っ黒でわけのわからない海藻といっしょに海を漂わないといけないのか。おまけに、プールと違って海から出た後の感覚が最悪だ。全身が潮っぽくベトベトする。おまけに、海の横にはご丁寧に砂浜が用意されており、どう足掻いても砂まみれで出て行くことになる。あんな所は、人間のいくところではないと私は思っている。
私の目の前には、丁度夕暮れの空によってオレンジ色の海が広がっていた。残念ながら、ここは都会の港町なので海の横には砂浜ではなく、船がセットであった。私は欄干に腕を置いて、その港に停泊している大きな豪華客船を眺めながめていた。そうだ、いっそのことこの大きな船に乗ってここから逃げ出せばいいんじゃないか。このくらいの船だ。きっと、インドやエジプト辺りまで行くに違いない。そして、わたしはインドの修行僧として出家し、仏ねんとして生きるのだ。スキンヘッドになるのは少々抵抗があるのだが。
そんなどうでもいいことを考えていると、豪華客船からアナウンスが聞こえてきた。
「大変長らく御待たせいたしました。当豪華客船エターナルリビングデット号は、まもなく博多に向けて出発致します。ご乗船になる方は今一度、早めにご乗船になるようお願い致します」
私は、なんだ博多かと思ったのは言うまでもない。しかし、随分と素晴らしい名前の客船だ。これに乗ったら二度と同じ体ではかえってこれないような雰囲気のある名前だ。怖い怖い。
私は、その豪華客船の出航を見送って、再び走りはじめようとしていた。
私は、出航した豪華客船の停泊していた桟橋に一人の女性が立っていることに気がついた。特段、荷物をもっているわけでもなく、白いブラウスに、紺色のスカートといった普通の格好をした女性が立っていたのだ。よく見ると、なかなか綺麗な方ではあったが、どことなく頬がやつれているような気がした。団地妻と呼べる気がしないでもないが、少し違う気もした。
その桟橋の横を私は走りさって、しばらくして、海に向かって何かが落ちるような音がした気がした。私は、なぜだか不意にさきほどの桟橋のほうへと自然と振り返った。私の勘は、当たってしまったのか、桟橋には既に人気がなかった。女性の姿は見当たらなかった。
私は、恐る恐るその桟橋の方に向かって歩き出したが、急にズボンのポケットに入っていた携帯電話のバイブレーションが震えた。
「もしもし」
「ねぇ、いつまであなたは逃げているつもりなの?」
聞き覚えのあるような声だった。
「あ、うん……ごめん」
「べつに、あたしは構わないんだけどさ。なんていうか、かっこ悪いよ」
「うん。そうだね。かっこ悪い」
「あたしじゃ、太刀打ちできる相手じゃないからさ。君だけが頼りなんだよ」
「わかってる。男……だからでしょ」
「そういうこと」
しばらく、私は黙っていたつもりだったが、たぶん時間にして三秒はかかっていなかっただろう。
「早く、早く帰ってきて。夜までには帰ってきて」
私が返事をしようとしたときには、電話は切れていた。私は、ひとつため息をついて「仕方ない」と自分を鼓舞するかのように、帰ることを決意した。
そして、丁度、桟橋の手前のところで、小さな少年が、海に落ちた帽子を拾うつもりが誤って転落してしまったところを、通りすがりの若いマッチョメンが救出していたのだった。
あの女性は一体。まさか、空でも飛んだわけでもあるまい。私は、そう納得して、家に帰ることにした。