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「助けて下さいとはどういう料簡だ? 先ずお前の正体を明かせ、話はそれからだ」既に幸於の目から涙は消えていた。

「はい、……私は元・女性科学党の科学者で、現在成明と言う名の人製人体である『駒』と逃亡生活をしています」

「成程ねぇ。と言う事は、あいつらも矢ッ張り〈人製体〉で女性科学党のモンって訳か」

「やっぱりですか、……調べはついていた訳ですね」

「そういう訳じゃねえさ。色々とそうだろうと思われる事があっただけで。で、お前はどうしてここ犬山に来た? 何が狙いだ? ……まァ、チョイ考えれば分かる事だけどよ」

「……国外逃亡です」

 その場がしんと静まり返る。

 幸次は声高に「そんな、や、無茶な! 『壁』を越えるって言うんですか? 高く聳える破壊不能の『壁』を? それに、上手く外へ行った所でどうなるかなんてわからないんですよ! ともすればここにいるより状況は悪くなるかもしれない!」と怒鳴った。

 小春はそれを聞いて黙った。項垂(うなだ)れた訳ではなく、どう話せばよいか迷っている風。

「幸次、声がでかい。あんま他人(ひと)に聞かれていいもんじゃない。ねえ先生、放課後、改めて人のいない保健室で話しませんか?」との文の提案に、全員がそれに頷く。

 放課後。幸次は午後の授業中、教師の言葉が全く耳に入っていなかった。無理もないと自分を肯定しながら、保健室へと入った。既に文と忍が居た。その二人に話す間もなく小春と幸於が二人仲良くドアを開けた。入ると、かちゃりと鍵を閉めた。

 それを見て文が「なんか、意外な組み合わせですね」と笑った。幸次もそう思った。

 幸於は表情を崩さない。「途中、少し話した。俺が『駒』である事とかな」

「道中ですか?」文が顔をしかめる。

「誰にも聞かれてない。細心の注意を払った。俺がそんなヘマする訳ねえだろ。安心しろ」

「いやあ、この間わんわん泣きながら廊下を歩いていたじゃないですか」

「黙れ、殺すぞ」幸於は眉をしかめ、ぎろりと強く鋭く睨んだ。文は笑っている。

 そんな事を言っている場合じゃないと幸次が表情を整え話題を切り出した。「斉田先生、先ずは何を聞くべきかちょっと分かりませんが、――何を話すべきだと思いますか?」

 その問いかけに、考えることなく、待ってましたと言わんばかりに口を開く。「まず、あの子とたちの事をお教えしたいと思います。今日現れた、変った髪色の二人の女の子の事です。あの二人と、後もう二人いるのですが、……その子たちは『エイリス』技術によって生まれた、女性科学党党首の矢内(やうち)氏の子供たちです」

「……その、『エイリス』技術って何ですか?」忍が口を開いた。

「いわば……いわば過去データとのお見合いです。過去のデータと、自身の遺伝子配列を検証し、それに沿った精子を生成し、掛け合わせ育てます。――より優秀な子供が生まれる確率をデータによって格段に引き上げるんです」

 忍、幸次、文の三名は固唾をのんだ。幸於一人平気な顔をしている。

「それだけではないだろう? それ以外もある筈だ。それ以外もなきゃ話にならない」

「……その通りです。あの子達は『駒』です。他に『キマイラ技術』を使用し『駒』として生まれました」

 幸於は何やら考え込む。「それが分からんのだ。『キマイラ』技術は甚大な副作用が弊害としてある。過去『キマイラ技術』に因って引き起こされたと思われる大災害に因り、主都名古屋は壊滅的な打撃を受けた。以来禁止され、同様の災害は起こっていない」

「それは、女性科学党が『ジンム』に敵勢力と思われていないからと言われています。つまり愛知国の『駒』とは独立した第三の勢力だと」

「まさか、そんなことがなァ」

「……恐らく『ジンム』もこちらを見計らっている最中だと思われるのです。もっと規模が巨大化し、目的・動機がはっきりすれば、何らかの動き(アクション)を示すでしょうが、……研究チームではそれを恐れています。子供たちが敵方の『駒』に手を出さない事と、女性科学党の有する『駒』が未だ少数である事の所以(ゆえん)です」

「そうかい。……しかし、お(メエ)らは『ジンム』の事までご存じだとはナ。多少は驚いた」

 文はそんな二人の会話に手を上げて割り入って聞く。「えーっと、なんかもう、なかなか高校生じゃついて行けない水準(レベル)ですけど、一つ。その『ジンム』って何なんですか?」

「敵の親玉さ」幸於があっさりと答えた。

「え!? そんなのがあるんですか!? 知らなかった、だったらそいつを倒せば!」

「倒せねえから俺らがちまちま戦ってんじゃねえか」

「あー、そうか。そうですよね」文と幸次はそれを聞いて素直に納得し、順当に残念そうな顔。――しかし忍は、幸於が答えた時、小春が俯くのを捉えていた。〈嘘だ〉と忍は一人直感。が、口を開く事は憚られた。

 そうこうしているうちに幸於は小春に向き直って話を進める。「で、問題はどうしてお前らが逃亡するのか、だ。話の流れからいくと、その成明って奴は、女性科学党『駒』四人のうちの一人であり、水色の髪の子供だろう? 雰囲気からして、別に虐待云々はなさそうとも言えるんだよ。ああいう党はそこら辺のことは厳しそうだ」

「逃げる〈訳〉ですね。それは、何と言うか、……それを言う前に、もう一つ、あの子達の性質について、話さなければならない事があります」

「脱線でなければ、いいぞ」

「繋がっています。……あの子達は、生殖能力がありません。無いと言うより、意図的に排除されたんです」

 この言葉には、子供三人は先程同様息を飲んだ。目を見開いて、三組の目に小春が映っていた。小春は子供には目をやらずに、幸於だけをじっと見つめている。

 流石に幸於もその言葉を聞いてしばしの間黙っていたが「何故?」と短く問いかけた。

「女性を苦しみから解放させる為です。生理とは女性側の不平等な苦しみであり、妊娠とは女性側の一方的な危険(リスク)であると、それを科学技術によって乗り越えると。女性科学党としては平常運航だと言えます。『エイリス』技術は卵子を必ずしも必要としませんからね。そして、男女ともに平等であるとして、〈(ついで)に〉男性の生殖能力も外してしまったんです」

「……そりゃあ、逃げたくもなるわな」

「あそこで、成明君は大事に大事に育てられました。思想も、半ば強引に植え付けようと必死になっていました。……でも、染まりませんでした。研究所内部にも、その考えを否定する人が何人も居たんです」

「そりゃまた何とも……でもまあ、そうだろうな。普通の党ならともかく、女性科学党は研究施設でもある訳だから。待遇、保障、施設、利益、その他諸々、研究者の理想が実現されていれば多少の、いや、大幅な意見の相違にも目を瞑る筈だ。そうなりゃ、組織の思想に忠誠な人間の割合なんて、実際たかが知れているだろう。それがために中小企業が隠れてカルトまがいの団体と関係しているなんて、ごく普通の事として散見されているさ。お前もいわばそう言うことだろう。……俺やこいつらも、詰まる所、そう言うことだろうさ」幸於は子供三人に目をやった。

 三人とも何を言えばいいか分からず押し黙っている。

 小春が続ける。「職員がやった事は簡単なことでした」

「お前がやったことだろう? その程度の事は分かる。ここまで来て誤魔化すな」幸於がぴしゃりと小春に言い放った。

 その言葉に俯いて、目を瞑って眉間に皺を寄せて、もう一度顔を上げて幸於を真っ直ぐに見た。「如何にもその通りです。私達のやった事です」

「一応複数人か。まァいい。続けろ」

「私達は子供たち四人に、自由に本や動画が見られるように電子端末を隠し与えたんです」

「また、本当に随分と簡単なことだな。それだけか?」

「はい、それだけです。それでもかなり変わるんです。元々施設内にはシンデレラみたいな本は無くて、〈女性の成功体験〉や〈少数派(マイノリティ)が差別に立ち向かい勝利を得る〉といった様な絵本や、他は学習書の(たぐい)しか無かったんです」

「うっげぇ、気持ち(わり)い。排除的な姿勢(スタンス)は、らしいって言っちゃらしいけどよ」

「結果、様々な教養を持って育ちました。スポーツの好きな子、音楽の好きな子、とにかく小説が好きな子、漫画が好きな子、そうやって様々に成ったものの、基本的な知識は共有していました。しかし、――しかしそうなると、……」

「親に懐かなくなって党首が不満ってか?」

「それは、……はい、その通りです。良く分かりましたね」小春は素直に驚く。

「ンなモン当然分かる。『エイリス』技術で生まれた子供ってことは、まァ頭のいいヤツらだろうさ。親よりも格段にな。直ぐにでも知識を吸収する。そうなると、親の馬鹿さ・愚かさが分かってくるモンだろうがよ。なァ、お(メエ)ら」急に子供たち三人に話を振った。

 今度はちゃんと反応して、三人同時に「え?」と言って同時に目をぱちくりと瞬いた。

「ま、まあ、確かに、頭自体は僕の方が良いなとは思うけど」と先ず幸次が答えた。

「尊敬しています」次いで文が答えた。

「尊敬しています」最後に忍が答えた。

「あ、いや、うわ! この人たちは! 違うんです、そうじゃないんです、ちゃんと尊敬はしているんです! 自分を育ててくれた事には感謝しているし、その恩が返しきれない程貴い事だってことも分かるし、自分に出来ない事をいっぱいできるし、そこはちゃんと理解できているんです! ただ、ただですよ。単に学校教育の範囲で言ったらどうなるかってだけで……」

「次行ってみよー」と文と忍が右手をチョップの形にして上にあげた。

「誰か助けて下さい!」幸次が叫んだ。

 小春はそんな三人のやり取りを見てくすりと破顔一笑するが、直ぐにこほんと咳払いをして、真面目な顔になる。「あの子達はそれぞれで、独自の思想を持つようになりました。そして、自分たちが作られた存在である事も理解し、悩み、やがて反発するようになったんです。党首を親だと思えなくなる様になり――いえ、あの子達に親と言う概念そのものがもともと無いのだと思います。その代り、きょうだい間の結束は強くなりました。それを党首は良く思わなかったんです。それで――」

「予想は出来る。仲を引き裂きにかかったんだろう。自立の為だのなんだのと言い訳して」

「はい」

「それで逃げる事を決断したと。……でもな、もうちょっとやり方は無かったのか? それこそよォ、月並みだけど、自立できるまで我慢できなかったのか?」

「……」小春は黙って俯いた。

「……おい、もしかして他に何かあるってのか?」

「……ちゃんと、包み隠さず申し上げます。あの子達の寿命は三十年程しかありません」

 今度は長い沈黙。誰もが誰かの言葉を待っている。しかし誰も口を開く事が出来ない。

 やがて小春は沈黙を破る。「性機能を人工的に除去した事に因る影響だと思われています。分かったのはごく最近の事です」

「あの、斉田先生。それって、あの子たちも知っているんですか?」忍が聞いた。

「はい。四人とも分かっています。良く分かっています。上の女の子三人は覚悟をしています。でも、一番下の、成明君はどうしても、……あの子は逃げる事を選択したんです。そして上の三人は、この〈国〉で、世界の変革を――」

「よし、幸次、忍、文、お前ら帰れ」急に幸於は小春の言葉を遮った。

 戸惑い文句を述べる三人を保健室から無理矢理追い出してしまった。ぴしゃりと扉を締め、確りと鍵をかける。「……そこで聞いていたって無駄だぞ、さっさと帰れ」幸於は扉に張り付いて耳をそばだてる三人に向かって念を押した。やがてぶつぶつと言いながら去って行くのを確認する。そうして振り返り、小春の目を見る。「大方、敵方の核心部分をぬかそうと思いやがったんだろうが、そうはいかねえぞ。余計なことを吹き込むんじゃねェ。こちらにだって、順序と言うモンがあるんだよ」

「すみません。でも……気付いていないのですか? あの子達は」

「そんなの、今のあいつらに考える余裕がねえんだよ。それぞれ手前ェらの事で手いっぱいだ。察しろ。敵の出現、『虚数空間』の崩壊、『ヴォーパル技術』の不備……ましてや〈国外〉との関係なんて、結びつく筈がねえだろ」

「そうでしたか。でも、もしそうだとしても、――」

「そうだとしてもだ。脅威は排除しなくちゃならねえ。それを知って迷いが生じたらどうする。生死をかけた戦いにそんなモンは禁物だ。敵前でそんなもんが頭を掠めりゃ大事だ。知った上で俺みてえに好き勝手出来る奴なんざ、大人だってそうそういやしねェんだよ」

「……すみません」強い調子でまくし立てる幸於の言葉に、小春はうなだれてしまった。

「しかし、――お前らはそんなことまで知ってンのか。いや、あの青髪の小僧との会話で、何となく分かっていたけどよ。それにさっきお前が言いかけた事。――世界の変革か。その女共、また大それたことを計画してやがるな。まァ、どこまで変えたいのか分からねえがな。〈国〉か、それこそ〈世界の構造〉をか」

「それは、分かりませんが……」

「なあ、〈越境〉の手筈は整ってんのかい?」何か含む様な笑みを浮かべ、小春に聞いた。

 小春は俯いたまま黙っている。

「まァ、何も考えなしに党を逃げ出した訳でも、ここに来た訳でもあるめェさ。実際ここに来て、〈壁〉を前にして、どう思ったかは知らねえけど、な。……さてさて、運命の行きつく先は、塔から飛び出したイカロスか、フラスコを捨てたホムンクルスか」

「……どっちも駄目じゃないですか」小春は恨めしそうな視線で幸於を見た。

「冗談だ。お前と俺らのやり方次第さ」

「お、俺ら? え、そ、それって、手伝って下さるんですか!?」

「……さあな。未定だ」

 幸於は、緑の髪の少女に「敵だ」と断じておきながら、どこか親近感を覚えずには居られなかった。ふと、またもや胸がちくりと痛む。


 忍と文は、誰も居ない三階の教室で、二人仲良く窓から空を見上げていた。

 忍は、〈三十年しか生きられない〉と聞いて、成明のあの切羽詰まった、切実な表情が理解できた気がした。理解したものの、後は取りとめもない雑多な思考が頭を支配した。

「将来は『俺を好きになるなんて、お前も物好きだな』みたいな事を言える男になりたいと思っていた」と文が不意に口を開いた。

「……」忍は髪を掻きわけて空を望む。

「おい、無視か」

「別に。いいと思うぞ。素敵じゃないか(いきなり何言ってやがんだこいつ。頭大丈夫か)」

「いや、まあ何となく考えている事は分かるけどよ。……でもさ、いきなりあんなこと言われりゃあさ、混乱するってもんだろ? 普通はさ」

 忍は視線を文に向けた。いつも笑っているが、この時ばかりは流石に参っているらしい。

「そりゃあ、そうだろ。現実離れしていて、無茶苦茶過ぎる。この内容でラノベ大賞に送っても審査員に鼻で笑われるだろうな。『都合良くいろんな不幸を詰め込み過ぎ』みたいな」

「不幸ねえ。……なあ、忍は三十の自分を想像できる?」

「無理」

「ああ、即答」

「ああ、無理。というか、ちょっとそんな様な事を考えていたんだよ。結局無理だった。夢見るお年頃も多少は過ぎた今日この頃だ。無理だったんだよ。どんな仕事をしているのか、このまま体に居続けるのか、それ以前に、生きていられるかどうか」

「だよなあ、俺もだけどさ。……でも、問題は三十までしか生きられないって言われてどうするかってことだよな。そんなこと言われて、その、件の子供みたいな状況だとして、〈国境〉を超えるなんて選択を、すると思うか?」

「無理」

「また即答?」

「無理だ。同じような状況を想像しろって言うのもなかなか無理があるが、それ以前に、私はその子供達ほど頭が良くない、と思う。だから、そもそも選択肢そのものがないんだ。……下手すりゃ、仕事も辞められないと思う。それだけ、今の私には可能性が無い」忍は遠くを見つめる様な瞳で言葉を一つずつゆっくりと綴っていた。

 文は大人しくその言葉を聞いていた。そして、「だいたい同じだ。あーあ、ないないづくしだな、俺もお前も」と、もう降参といった風に両手を上げて伸びをした。

「ぬゎーにが持たない同士だ。金銭的な意味では格差が歴然だ」

「うわー、またその話?」

「桃子にはどうする?」

「報告するよ。教えてもらった事、洗いざらい」

「そうか。……どうするんだろうな、その子供たちは」

「さあねえ。幸於さんは何を考えているんだろうねえ。上の決定次第になっちゃうのかな」

 二人はもう一度窓から空を見上げた。真っ青な空には一片の雲もなく、それにつられ心は(こう)(ぜん)と澄み、粗雑な思考の許される景色ではなかった。それを見つめる今だけは、醜怪な世界の原理(ことわり)を忘れ去る事が出来た。


「こいつはなんたることか」

 休日の三時ごろ。幸次は、弘恵の〈香屋〉の前で、手に持った荷物をぼすんと落とした。外観はいつもと何ら変わらない尋常なものである。庭先に雑草の一部として勝手に生えたドクダミが白い小さな花を、プランターに植えられた胡瓜(きゅうり)が張られたネットに絡みついて黄色い小さな花をそれぞれ咲かせている以外、特に以前と変わった所は見当たらない。

「ああ、可愛らしい雛罌粟(ひなげし)が咲いている。やっぱり植えて育てた女性に似るんだろうな」

「女性? それ、親父さんが植えたって言ってたよ。水やってるのも親父さんしか見ないし。っていうか、弘恵さんだっけ? あの人ちょっと怖いんだけど」

「怖い? はははは、何を言っているのか。綺麗で優しくって、心の綺麗な人だよ」

「付き合い長い人が言うんならそうなんだろうけどさ。数える位しか話したことないし」

「空を行くヒッポリト星人は恋する乙女の暗喩(メタファー)

「意味が分からないよ。いや、現実逃避はもうそろそろ止めたら?」

 幸次は声の主を見た。この、何も変わらない店の中で、一つだけ変っている重要な因子(ファクター)。いつも弘恵が居るべき所が、緑色の髪の少女に取って代わっている。幸次を腹パンした暴力少女だ。平素な私服を着て、その上にエプロンをつけて、元気に接客をしている。

 いや、分かってはいた。弘恵さんは資格を取ってから、あのコミュ力で頑張って早速面接を受け、とあるデイサービス・センターで働くことになり、代わりに店の方ではバイトを雇うことになった。しかしまさかこの子が居るなんて考えることができただろうか。

 もともと「え、このお店に人を雇う余裕なんてあったの!?」等という疑念と驚きが無かったでもない。

「幸次君、何か言ったかい?」「あ、いえいえ、親父さん、何でもありませぬ」

 想像の通り暇なのか、店の親父さんが厨房を区切る暖簾(のれん)を上げて奥から出て来た。手には一つの天丼を持っている。「ああ、〈緑〉ちゃん、どうぞ、賄い」

「おっと、ありがとうございます旦那ァ!」

「旦那と呼ばずに店長と言って貰いたいのだがねえ」店長は〈緑〉の元気な口振りに苦笑しつつも、既に心は許している様子である。

 この子の名前は〈緑〉? いや、確実に偽名だろう。でもまあ、取り敢えずはこちらもそれに従おう。それにしても雑だな。もう少し(ひね)った名前は無かったのか。

「あ、お茶下さい」店には他に客が一人いて、緑に声をかけた。カーキ色の鳥打帽(キャスケット)を脱ぎ机の上に置き、Tシャツとショートパンツという装いの、お洒落で、髪の長い綺麗な――桃子である。

「えっと、桃子ちゃん。いたんだ」幸次の目が点になる。

「ええ」桃子のごく簡素な返事。

「ええーっと……」と言いつつ幸次は桃子に近寄った。緑を尻目に、机に両手をつき、小さな声でこそこそと、「ねえ、桃子ちゃん。文さんからどれだけ聞いた?」

「全部」

「えーっと…………あの子が、先日僕らを襲った『駒』な訳だけど」

「まあ、それはびっくり」長い睫毛をはためかせ、大袈裟に驚く。

「……してないよね」

「ええ、全然。先程自己紹介がてらその様なことをお互い話し合いましたので」

 それを聞いて幸次は両手を机にかけたまま跪いて俯いた。

「どう言う事ですか、教えて下さい……」その言葉は最早声にならない。

「うん、その人がもう一人の『駒』なんだってね。聞いたよ」後ろから天丼を(むさぼ)りながら緑が能天気に二人に声をかけた。幸次が振り向くとにっと歯を出して笑って見せた。爽快と聡明が混在している印象である。「こないだの騒動は悪かったと思ってるよ。なんせ、あの紫の人に会いに行ったらあの人が居るんだもん、驚いちゃって喜んじゃって、つい」

「嬉しいとつい腹パンきめちゃうってのはどうかと思うよ。結構痛かったんだけど」

「いやあ、ごめんごめん。お兄さんあんまりにも弱いからさ」

「ぐふぅ!」

「ちゃんと鍛えた方が良いよ? あ、でも、一緒にいたあのでかい人は良かったなぁ。力もスピードもあって、かっこよかった。普通にやっていたら負けちゃってたな。あんな人、憧れちゃうなあ」緑は恋する少女といった面持ちで宙を見上げた。

 幸次は桃子に、「あれ、あなたのお兄さんの事ですよ」

「趣味なんて人それぞれですね。私には理解できませんけど」桃子は毒づきながらお茶をすすった。因みにこれは緑ではなく、親父さんが手ずから運んでくれたものである。

 幸次はまた声の音量を押さえながら近寄る。「でも桃子ちゃん、どうして教えちゃったの」

「いいんですよ、その方が抑止力になりますから。かえって隠し通す方が難しいですし。それに私はその青髪の少年の所在を知りません。襲われる理由はない」

「そ、それはそうだけど……さっきも言ったけど、この間はいきなり攻めて来たんだよ?」

 それが洩れ聞こえたのか、「ああ(もぐもぐ)あなた達に(もぐもぐ)危害を加えるつもりはないから(もぐもぐ)安心していいよ(むしゃむしゃ)」緑は懸命に口を動かしている。

 幸次はまた振り返った。緑はこちらを警戒することなく、平然と天丼を食べている。

「旦那ァ、これホント美味しいね。天然もの?」元気な緑。

「ああ、いや、南瓜(かぼちゃ)茄子(なす)は天然だけど、えびは養殖で、小麦は人工プラントだね。高いし滅多に手に入らないしね。全部天然にしたらうどん一杯何千円としちゃうからね。お客が居なくなってお店潰れちゃうよ。味もそんなに変わらないしね」

「へえ、成程ねえ」

「あと、旦那じゃなくって店長ね」

「はーい」

 大分気に入られているのか、話している間店長は終始微笑である。幸次と話している時はこんな顔を見た事がない。娘の前でも然程笑わないのはどうかと思うものの、新鮮な刺激があるのも親父さんにとっては良い事である筈だ。

「いやいやいや。いいのか? いい筈ないだろ。この状況は」

「どうしたんですか、突然自問自答なんて。弘恵さんあたりの毒電波にやられましたか?」

「桃子ちゃん、僕どういう反応すればいいか分からないや」そして緑に向き直って、真面目な顔を作り「こっちに危害を加えないって、どういう事? それ、信じていいの?」

「あ、ちょっと待ってて(はぐはぐ)これかきこんじゃうから」と言いながら天丼を口に押し込んで、喉に詰まったのかどんどんと胸を叩き、親父さんにも背中を叩かれ、お茶を一杯のみ込んだ。そして、ふうっと一度一息ついてから、お茶をもう一杯飲んだ。

「……もうそろそろいいかな」

「ああ、うん、いいよ。話してあげる」そして緑も真面目な顔を作って「あの後ね、帰って報告したら、あなた達に手を出したこと、妹に相当怒られたんだよ。怖かったな、あれ」

「……あのピンクの髪の女の子? そんな風には見えなかったけど」

「本人は『桜色』って言ってるね。その方が気に入っているみたい。ついでに、成明は青色じゃなくって水色って言ってるけど。……話がそれたね。その子じゃないよ、別の子」

「……そうなんだ。それで?」

「ん? それだけだけど? 怒られちゃって」

「…………」長い沈黙。幸次はしゃがんで頭を抱えて縮こまった。

「あっちゃー、なんか凹ましちゃったみたいだね。なんかごめんね」と緑。

「ほっといていい。打たれ弱いけど、あんまり心配するとつけあがっちゃうから」と桃子。

「流石桃子ちゃん、分かってるねえ。私今まであんまり若い男の人と接点無かったから」

「変わらないわ。男は女と同じくらい愚かだし、女は男と同じくらい馬鹿なのよ。自覚して理解していれば大きな失敗はしないわ」

「うわ、そりゃまた痺れる物言いだねぇ」

「仲いいなオイ!」幸次は叫んだ。

 その時である。店の前に白い(この時代にしてはかなり)レトロな車が止まった。

 その車から降りて来たのは、何と幸於と弘恵だった。

「どういう事だよオイ!」思わず幸次は叫んだ。

「幸於さん、ありがとうございます」弘恵は頭を下げた。

「いやいや、どうってコトねェさ、これ位」幸於は笑った。

「仲いいなオイ!」六行ぶり、二度目。今一度、幸次は叫んだ。

 緑は幸於の車に近付いて、じろじろと舐めるように見廻した。「すっげ! これって、いすゞの177クーペじゃん。トヨタ天国のこの国でよくこんな骨董品を発掘したね」

「まァな。整備は仕方ないとして、今基準の安全装置の設置に予想以上に銭がかかった」

「ええー……仲いいなオイ……いや、本当に、どう言う事なんですか。皆さんの適応力について行けません」と幸次は頭を抱える。

「ん? この近くで、偶然弘恵に会ったものだからな。いろいろあって、その後送って行こうってなってな」幸於は腰に手を当てて答える。

「いろいろって、何があったんですか」――聞きたい様な、聞きたくない様な。

「ま、いろいろよ」弘恵が微笑んだ。

「ああ、そうですか。……じゃ、なくって、緑の子の事なんですけど……ってどこ行った?」

 緑は店内に戻り、桃子の傍らに腰かけている。

「ねえ、あの三人ってどんな関係?」

「さあね。少なくともこの時代のこの世界の価値基準じゃ理解できそうにないわ」

 桃子は(もっぱ)ら自分のペースで、お茶をすすった。


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