八
薄暗く徒広い部屋に男が二人。
「知仁様、お目通りのご許可頂き、感謝いたします」大橋は男の後ろ姿に頭を下げる。
「ははは、造作もないさ、それに……」その知仁と呼ばれた男は振り向いた。「ん? なんだ宗英、そんな風に畏まって。僕と君との仲じゃないか。どうか頭を上げて君の顔を良く見せてくれ」男は二歩三歩、コツコツと高い靴音を立てながら近付いた。
大橋は頭を上げ男を見た。
男は大橋と同程度の長身で、翠の髪は肩まで伸ばし、軍服らしき物の上に白衣を羽織っている、垂れ目で優形な男である。優しい、柔らかく、低く透き通った声である。
「珍しいね、君から僕に会いに来るなんて」にこっと知仁が笑った。
「はい、折り入ってご相談したいことが御座います」大橋は表情を崩さない。
「相談とは、益々(ますます)君らしくないね。一体どうしたんだい?」
「はい。……実は、犬山市の事なんですが」
「ああ……幸於が、あの『桂馬』の幸次君を追って純情にも赴いた所だね」そう言って知仁は楽しそうにくすくすと笑う。「全く、彼女は羨ましい位に自由だね。この国、愛知全体が大変な時だというのに。我関せずと言った様に」
「何と言うか、言葉もありません。申し訳ございません」と頭を下げる。
それを聞いてまたくすくすとおかしそうに笑う。「君の所為じゃないさ、君が謝ることなんてない。許可を出したのも僕だしね。しかし……しかし君たちは本当に仲が良いね」
「そ、そうでしょうか?」と大橋は首を傾げた。
「ああ、そうさ。彼女が羨ましい。で、その犬山で何があったんだい? 最近、結構致命的な欠陥が見つかったと聞いたけど」
「それに関しては既に大部分が修繕完了しています。ただ、気になる事が。これはまだ誰にも報告していないのですが。その何と言うか……水色の髪の少年が居たらしいんです」
「ほう、それは?」と知仁は子供っぽく無邪気に首を横に傾けた。
「幸於からの報告ですが」と忍らの名は伏せた。「その姿は現実世界と虚数空間で変わらなかったらしいのです」
「ほう、虚数軸と実数軸とで値が等しいんだ。それは凄い。まあ、強いかどうかは分からないけどね。確実に『駒』だ。そうか、そんな子がいたんだね。その子はどうしたの?」
「戦闘中だったため確保できなかったそうです。それと、その後その水色の髪の少年を探す、ピンクの色の髪の少女が現れたそうです。その子も話の内容から『駒』ではないかと推測できるようですが」
「へえ、またそれは凄いことだね。仲間、なのかな。……よくは分からないけど。そうか。それは面白い。それにその髪の色。二人とも自然のものでは無いね、染めていなければの話だけれど。……虚数空間では現実空間のごまかしなんて効かない、水色の方は確実に人造物だろうさ。僕や幸於君の様な、ね」
「……最早完全に禁止されています」
「そうだね。僕と幸於は対『駒』用に作られた『機械』とでもいえる代物さ」
「そんなことは!」と大橋は声を荒らげる。
その口元を知仁は指で制して笑う。「本当に君は優しい人だね。気を遣って。でも駄目だよ、あんまり気負い過ぎると君が心配だ」そして指を戻し真面目な顔をして「しかし……しかし気になるな。何故、女を作ったのか。精神は別にして、戦闘用にならば、体だけは運動能力で勝る男を作るべきだと思うのだが。僕と幸於の様にね」
「それはですね……どうやら女性科学党が絡んでいる可能性があるんです」
「成程。ならば合点がいく。それが自然かもしれない。そうか……」
「如何いたしましょうか」
「そうだな……出来ればこちらに引き入れたい。無理矢理にでもね。……ハハ、そんな顔をするな。こちらの保護下に置くというだけだ。それが、きっと本人の為になるさ」知仁はにっこりと柔らかく笑った。
昼休み。幸於は学校の中庭のベンチでぼーっと手製の弁当を食べていた。手製と言っても金平牛蒡など大半は夕飯の残りで、冷凍食品のハンバーグも一つ存在する。ほうれん草の胡麻和えは、一度に茹でてその後冷凍したものである。
「仲村先生、どうしたんですか? ぼーっとしちゃって」小春が首を傾げた。
「なンでお前がいる」本来ならば独白にすべき言葉ではあるが、既に本性はばれてしまっているのではっきりと言葉にする。
「美味しそうですね、ご自分で作られたんですか?」小春はお弁当を覗きこむ。
「そうだ。いや俺の話聞けよ」
「ん? だって、お昼ごはんをご一緒しましょうって言ったら、仲村先生ご返事なさったじゃありませんか」と今一度小春は不思議そうに、先ほどとは逆に首を傾げる。
「ふーん」と気の無い返事を返す。そうだったかな、と頭で考える。「それよりお前、そんなんだけでいいのか?」幸於は小春の姿を顔を向けず眦で見た。
小春の手には焼きそばパンが一つとパックの牛乳がある。「ええ、ちょっと今日は寝坊しちゃいまして。へへ」と恥ずかしそうに笑った。
「ぬわーにが〈へへ〉だ、ったく。そういう所がいちいち気に食わねえ。いちいち媚売ってんじゃねえぞこの野郎」
「うーん、媚を売っている訳じゃないのですが」今度は困り顔で幸於を見た。
「ッたく、自然にできて羨ましいこって」冷えた飯を口に運びもごもごとさせながら喋る。
「でも、良かったですね、意外に早くギプスが取れて」と幸於の左腕を見る。
「あん? こんなもん現代科学を駆使すりゃどう(お)ってことねえよ」幸於は左手を握って見せる。しかし、その手に殆ど力が入っていないことは幸於自身が分かっている。一応これで〈完治〉である。これ以上は良くならない。少し不安は残る。
そんな事とは露知らず「そうですか、良かった」と小春は能天気な笑顔を見せる。
そこで会話が途切れ、二人は黙々と食べる。
ふと、小春は渡り廊下に視線を移し「あ、谷川君だ」と言った。
(谷川? 誰だそれ)と何気なく渡り廊下に視線を移すと、幸次と男が仲良く歩いていた。
「凄いですよね。あんなに若いのに戦い続けているなんて。……『駒』として選ばれたからにはそういう運命を歩まざるを得ないんですよね。それなのにあんな風に明るく気丈に振舞っていて。ねえ、仲村先生……仲村先生?」小春は横を向いたが、すぐ隣にいた筈の幸於の姿が消えている。はて、と探すと傍らの銀杏の木からぬっと顔だけをのぞかせた。
細目で顔を赤らめながら、室内へと入って行く幸次を確認する。ほっと一安心しながら、そんな行動をした自分にはっとする。
「えーっと……仲村先生、どういたしました?」と小春は不審の眼差しで幸於を見る。
「これは別に、何でもないぞ、何でものだ、問題ない」幸於、しどろもどろに言い訳。
(うう、この間の言い争い(ラスボス戦)以来恥ずかしくって幸次と目が合わせられない。泣きながら『好きなんだもん』とか、痛すぎる、みっともない、恥ずかしい、死にてえ! あー、でもー、こうやって話できないのはもっとつらい。でも、でも――)
幸於は頭を抱え、蹲りながら涙目で顔を更に紅潮させた。
「えーっと、恋する乙女?」小春が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「うるっせえよ、うるっせえよ! てんめェ初対面ン時とキャラ違ェじゃねえか! もっと、びくびくしてたくせに、やっぱり作ってたのかよ!」
「いえいえ、そんなことは。それは単に仲村先生が親しみやすくなったからで。先生も普段からその方がいいのに、生徒からも人気が出ますよ」
「知らねえよ、人気なんていらねえ。お前や生徒共と仲良くなってもどうしようもねえよ」
「あらら、そうでしたか。それは残念ですね……あ、次の授業の用意しなくっちゃ。じゃ、仲村先生、また後で」そう言って立ちあがって、両手でずれた眼鏡を直した。
「知るか。今日はもう会わん」顎に手を置いてぷいっとそっぽを向いた。そんな幸於に笑顔で手を振って去って行った。
(チッ、気に入らねえ。人を食ったような態度とりやがって勝手に去って行きやがって。ああ、こんな時間か。はあ、俺も保健室行くか。……意外と仕事が多いんだよな。何か知んねーけど最近来る奴が多くなったし。はあ、何で不良程学校に来たがるのかねえ。俺に何だかんだ言われても、知らねえよ。こっちゃ迷惑なだけだってのに)
そんなことを考えながら、また溜息をついて立ち上がる。
「ねえ、お姉さん」直ぐ傍で、子供の様な、それにしては落ち着いている声がした。その方を見る。緑色の髪の少女がそこには居た。幸於は落ち着いてその姿を確認する。ちゃらちゃらとプリントが施された紫のTシャツ、ダメージ加工のジーンズ、ごついスニーカー。褐色の肌に、にたりといった感じの笑顔を浮かべ手を腰に当て立っている。
幸於は立ち上がり首を擡げ「何だお前。ここはお前みてえなガキの来る場所じゃねえぞ。とっとと帰んな」と言いながら、それとなく足首を掠め見た。話に聞く足輪はズボンに隠れて確認できない。
「ハハ、ごめんごめん、何となく面白そうだから入って来ちゃった」
「ハン、ガキだからって調子付いてっと、仕舞に足元すくわれッぞ坊主」油断してるぞと表現する為に、幸於は一旦視線を外す。意識は少女に集中したままで。
「私は女だよ、こんな形だけどね。お姉さん、随分派手な髪の色をしているね。地毛?」
「ンな訳ねえだろ染めてンだよ、一生懸命な。そういうお前ェのはどうなんだよ」
「地毛だよ。お陰で派手な服しか似合わなくって苦労してるんだ」
そう言って自身のシャツを引っ張って見せた。幸於もそれを見る。
「ふーん、俺の知ったこっちゃねえが。小娘、いい加減帰ったらどうだ。学校は休みか」
「行く必要の無い身分と頭なのさ」シャツから手を離し肩をすくめ大仰に手を広げた。
「へえ、そりゃあ羨ましいこって。じゃあ高校にいる必要もねえだろ。さっさと手前の塒にでも帰れ。俺も行くからな」視線を外し少女に背中を見せ、少女に手を振って歩いた。(さてこいつはどう出るか)
「ねえお姉さん、あなたは良い人、悪い人?」と少女は何の前触れもなく聞いた。
不意の質問につい立ち止る。こうなれば答えざるを得ない、振り向かざるを得ない。幸於の鎌かけは悉く失敗している。あけすけに質問に答えておきながら隙がない。
「知るか。手前ェで決めろ。頭いいんだろうが」めんどくさそうに頭を掻きながら答えた。
「あなたがどう答えるか知りたいんだ」少女は笑った。
「ふん……『悪人になった翌日は善人に変じ、小人の昼の後に君子の夜が来る』ってな。漱石の文だ。ガキは本を読め。憶えておけ」
「へえ、成程ね、勉強になったよ。一つ賢くなった。ありがとう」
「分かったら、いい加減に帰れ。俺ももういい加減時間がねえんだよ」これは本音である。
「分かったよ、帰る帰る。……『国賊になった翌日は官軍に変じ、敵の昼の後に味方の夜が来る』なんてね。出来れば貴女に仇なしたりしたくないけど、状況と環境次第だね」
いよいよあけすけである。幸於はぎろりと少女を睨みつけた。少女は余裕の表情でへらへらと笑っている。全く心が読めやしない。
「手前ェ、何者だ。どうして俺を構う。目的は何だ……『駒』か」幸於はドスを効かせて見せたものの、顔が可愛らしい所為か迫力には欠ける。
少女は笑う。「ははは、質問は一つにしてくれなきゃ、答えられないさ。そうだね、答えるとしたら、……私と貴女は、似ている。でも同じじゃない。その差異が、この立ち位置」
「へ、俺は手前ェ程正直じゃねえさ」
昼休みの終りを告げるチャイム。鳴り終わるまで二人は黙って見つめあっていた。
「時間みたいだね。本当の目的は他にあったけど、貴方みたいな素敵な人に会えただけで今日は満足かな。私は帰るよ。じゃあね、さようなら、紫髪の可愛い人」
「チッ、いけ好かねえヤツだ」
少女は笑顔で手を振って、振り向いて歩き始め、幸於はその無防備な後姿を見送った。
(お互い〈人工〉だってことは気付いているらしいな、どうやら。本当の狙いとやらは青髪の少年だろうけど。しかしヤツらが何者かは全くもって謎のままだ。さあて、敵となるか味方となるか、状況次第か。……恐らく選択次第だろうな。その選択そのものに俺達自身がどれ程関係できるかも分からんがな。作られた人間か、いや『駒』か。俺達に施された『キマイラ技術』。人を人為的に『駒』にする技術。あいつらにも同様か、後継のそれ以上の技術が施されているかもしれん。あれは均衡を極端に崩す。故に二十年前、大災害が起こった。だから禁止された。……あいつらの歳を鑑みるに、施されたのはここ最近か。……だが禁止されて以来、敵方の侵攻状況は一定している。それならば全く新しい技術なのだろうか? 分からない。しかし、――しかし俺とあいつが似ているか。――そうだろう。恐らく俺は幸次達よりもずっと、あいつらと似ているのだ。実験体として作られ、人に施すのを躊躇われた技術を押し付けられた、徹頭徹尾実験体である俺と)
胸がずきんと痛んだ。どくどくと心臓の鼓動が速くなる。呼吸も苦しくなる。
(糞ッ! こんな気持ち、とっくの昔に乗り越えたと思っていたのに。幸次と会えて、消えたと思っていたのに。こんな、自分ではどうしようも出来ない気持ち……)
死ぬまで思い続けるであろう責苦、背負い続けるであろう宿命。それらは詰まる所、消えていたのではなく誤魔化されていたにすぎなかった。
――幸次……幸次、つらいよ、寂しいよ、幸次。
逃げるように目を閉じ、眉間に皺を重ねながら自身の胸を押さえた。しかし、つらさも寂しさも何処にも追いやる事は出来ず、じっとそこに居座り続けた。ずっと心臓は速いままだった。目を開けた。少女の姿は完全に消えている。目を上げると、自身の気持ちとは別の胸の透く様な真っ青な空が在って、世界に置いて行かれた気がして寂しくなった。
立ち尽くしたまま、その空をじっと見つめていた。
幸次は母親と二人、老人施設へと入って行った。そこに、幸次の祖母がいる。施設内は適度に冷房が利いていて過ごし易い。そこらじゅうに花が生けてあり、中庭には松が立って、他に色々の草花が良く整備されており施設内部でも四季を感じることは可能である。
明るくて雰囲気も良くて、良い所である。
しかし、この施設は幸次の住んでいる住宅街からは遠く、車でも四十分ほどかかる。その為、襲撃の確率の低い時に、隊にしっかりと許可を得てからでないと、祖母に会うことさえも許されない。ここ最近は特に予測が不安定だった為に足を向けることができなかった。今は改善されたが、不具合らしきものは残っているようで、不安は隠せない。
「幸君、一か月ぶりだね、ここに来るの。お婆ちゃんも喜ぶよ」母親が幸次に笑いかけた。
そうか、既に一か月も会っていなかったのか。大分間が開いたと思ってはいたが、そこまでだったとは。罪悪感に似た何かが心を掠める。いや、仕方がないのだ。精一杯やった結果がこれなのだ。悪くは無い。悪くは無い筈であるのだが――。
「ああ、うん」生返事をしてぼうっと歩む幸次を首を傾げて見つめる母。
やがて祖母のいる個室へと着く。開けると、可動榻背寝台を高く上げ、座る祖母がいた。
「お婆ちゃん、幸君が来てくれましたよ」母親が優しく声をかける。
しかし、じっと窓から外を見つめたままで、まったく反応は無い。幸次が近付いて、窓を背にして祖母の視線の先に座った。そして祖母の手を握り、「お婆ちゃん、幸次だよ、ごめんねなかなか来れなくて」と、極力優しい声で、極力自然な笑顔で語りかけた。反応は、分からない。じっと幸次を見つめているように見える。そうでないようにも思える。
祖母は認知症がかなり進行していて、最早立って歩くことも、自分で食事を取る事も出来ない状態である。碌な反応さえも期待できない。喜んでいるかどうかなども機微を好きなように解しているにすぎない。――が、それでも、と思うのである。それでも何らかの記憶をこの祖母の頭の中に刻み込めればと思うのである。そうして、懸命に語りかけるのである。――いや、語りかける他無いのである。
ここは良い所だ。料理もおいしいらしい。前に名前の知らないお爺さんの話し相手になって聞いた。静かで、明るくて寂しくなくて。
ただし、お金があれば、の話だ。お金が不足すれば、更に遠くの施設まで飛ばされるかもしれないし、そこの評判が良いか悪いかなかなか分からない。――こうなったら、益々隊は辞められない。いや、辞めるつもりなんて無いんだけど。
ふと、がんじがらめに縛られている自分を発見した。
仕事に、土地に、お金に、家族に、仲間に、足を鎖でつながれている自分を想像した。
「どうしたの?」祖母を前に急に黙り込んでしまった幸次を心配するように母が覗き込む。
「ああ、うん、何でもない。ちょっと考え事」笑顔でごまかした。
誰一人、何一つ不満も責任もないのに、そんな風に思ってしまう自分に、腹が立つ。
どんなに苦しんだ所で時間は過ぎる。
学校。忍と小春は仲良く連れ立って歩いた。二人の片手にゴミ袋。
「磐根さんっておっしゃいましたよね、ありがとうございますね、手伝って貰っちゃって」
「いいですよこの位。ッたく、こんな仕事先生に押しつけなくっていいってのに、あいつらは気が利かねえんだから」
忍は小春が両手いっぱいにゴミ袋を持っているのを見かねて声をかけ手伝っていた。
「本当に、優しいんですね、磐根さんは」小春がにっこりと笑った。
こんな風に真っ直ぐに褒められると少し照れる。「別にそういうのじゃありませんけどね」
「成程、磐根さんは所謂『ツンデレ』と言うやつですね」
「え? 何が成程?」
「あ、あれ、谷川君だ」
「え? 無視?」
視線の先には幸次が一人ゴミ箱を持ってとことこと歩いていた。小春が手をぶんぶん振ると、幸次はそのゴミ箱を置いて手をぶんぶんと振り返した。
(あんたたちのその人懐っこさは一体何なんだ)忍は一人そのノリに付いて行けていない。
「なんか、珍しい組み合わせですね。もうお二人は仲良しさんですか?」と幸次は笑った。
「はいー、そうですよー、先生と磐根さんは仲良しさんです」小春も笑った。
「だから、何なんだよあんたたちのそのノリは」忍は呆れて髪をかきあげた。
その仕草を見て小春が「今のなんか色っぽいですね。そう思いません?」と幸次に聞く。
「そうですね、ぐっと来るものがありますね」幸次はにっこりと笑った。
「お前は本当に軽いなオイ」忍が非難。
「でも磐根さんはいいですねー、背は高いし美人さんだし優しいし、文句無しですね」
「いやいや、そんなことありませんよ。先生の方が可愛らしくってのほほんとしていて、私が男だったら放っておけない」
「いやですよー、私なんて磐根さんに比べたらこんなにちんちくりんで」
「いやいや、何を仰います先生の方が」
幸次は真顔でその光景を見る。「聞いたことがある。女二人が集まると、互いが互いを褒め合い、修羅の門が開く。その先にあるものは退廃と壊滅。ペンペン草さえ満足に育たぬ荒地と、土にかえることすら許されぬ猜疑に満ちた瞳と、……」
「ほう、幸次、お前は好き勝手言ってくれるな」忍がぎろりと幸次を睨みつけた。
「いや、あはははは、じょ、冗談じゃないですか、茶目っけじゃないですか」
「お前は冗談が過ぎるんだよ。そんなんだから浮気がばれて痛い目に遭うんだ」
「いや! そんな浮気だなんて人聞きの悪い!」
「何が『人聞きの悪い』だ。浮気そのものだろ。先生ってそういう男どう思います?」
「え、谷川君ってそんな人だったんですね。最低です。近寄らないでください」と小春は眉をしかめて割合低い声で非難。
「い、いや、あのですね、そうじゃなくって」
「徹頭徹尾、自業自得だ。これが普通の反応だ」――幸於さんも弘恵さんもおかしい。
そんな風に仲良く(?)歩いていると、突然小春が足を止めた。
「……どうしました? 幸次の不道徳な態度に気分を害しましたか?」
「いやいや! 冗談ですよ!? あくまで冗談ですからね! ……先生?」
幸次がおやと思って小春の顔を見ると、切迫した顔で目を大きく見開いている。
「……磐根さん、谷川君、逃げて」
何があるのか? と思い小春の視線の先を見ると、そこには緑色の髪の少女がズボンのポケットに手を入れて目を丸くして口をポカンと開けて立っていた。そして――
「見いつけた」とにやりと口角を大げさに上げると、一陣の風に変じて小春めがけて飛び込んだ。そして少女はそのまま小春の首を左手で掴みきりきりと締めだした。
「ちょ、ちょっと何やってンだよ!」と忍がすぐさま助けに入り少女の腕を掴むや否や、
「邪魔」と、どすんと腹部に重い右肘打ちが入り、忍は力なく倒れた。
小春は首を絞められながら、苦痛に顔を歪めながらも歯を食いしばり、おもむろにポケットに手を突っ込むと、カチっと何かボタンを押す音が聞こえた。すると少女の体がびりびりと電流が通ったように痙攣し、痺れ、怯み、小春の首を離してしまうと、咄嗟にポケット内で第二の操作をし、すると何と小春の姿がすうっと、忽然と消えてしまった。
「糞! またけったいなマネしやがって! 赤外線センサーなんてもってきちゃいねえしなァ」と少女は前屈みに右手を地に着いて、電撃を浴び吹き出した額の汗を拭いた。
その間、眼前の光景にただただ圧倒されて全く動けずにいた幸次が、やっと現実に戻り少女に何かしら苦言を呈そうと試みた途端、今度は少女が幸次の腹部に一撃を与え、そのまま首を締めあげた。強く、きりきりと締めあげられる。幸次は腹部の痛み、首を絞められる苦しみに対抗しようと、少女の左手の人差し指から小指、親指にそれぞれ両の手で掴み開いて逃れようともがくも、少女の力の方が遥かに強く、全く動じることがない。
「おい、さっさと出て来い。でないとこいつらは知らんぞ。出てきて成明を渡せ」
しかし何も起こらない。状況は変化しない。そこで少女は更に締める力を増す。幸次は酸素を求めるように口を開け全身を使い呼吸しようとし、涎が口元から流れる。
「やめて! その子たちを放して! 関係ないでしょう!」と姿なき小春の悲痛な叫びが何処からか聞こえる。少女はにやりと笑い、ちらりと後ろに目をやる。
「そこにいたか。さっさと姿を見せろ。関係の無い奴を巻き込むも巻き込まないも、お前次第だ。さっさと現れろ。さっさとお前の面を見せろ」
少女の視線の先に、バリバリと静電気を発しながら消えていた小春の姿が現れた。
「久しいな、会いたかったぜ。何だかんだ言って私はお前の事が好きだったからな」
「これでいいでしょう。放してあげて」
「……まだだ。まだ足りない。成明の居場所を教えろ。それを聞いたら放してやる」
「そ、そんなの!」
「お前次第だ。助けるも殺すもお前次第だ。ここで今すぐに決断しろ――さあ、どうした。黙っていては分からんぞ。いいのか、こいつがどうなっても」
「ッ……分かったわ、言うわ、だからその子を放して」
「そんな決意表明なんてどうでもいい。居場所を言えと言っている――勝手に成明を奪ったのはお前だ。その上こちらに奪うなとは調子が良すぎる。そうだろう?」
少女の握力が更に増した。幸次の顔が青くなる。小春は唇を噛んで鋭く、普段は生徒に絶対に見せない様な、しかし憐れみを多分に帯びた視線で、それを睨みつけている。
「あなただって、分かっている筈でしょう。成明君は自分の意思であそこを逃げ出した事」
「それがどうした。そんな事、関係の無いことだ。そうだろう。返すか返さないか、二択だ。本当に、このまま関係の無いこいつを――」とその時、少女は何かに気付いた様に突然幸次を放し、同時に腹部を何者かに蹴られて、吹っ飛ばされた。
「……手ごたえはあったんだけどなあ、衝撃吸収素材か、子供の割にいい物着てんじゃん」
蹴り飛ばした方は文である。蹴り飛ばされた方は平気な顔で膝の砂埃をはたいている。
「おいしいスポンサーがいるからね」にやりと口角を上げる。
「ふーん、そんじゃま、こっちも手加減抜きでやらせてもらうね。色々知りたいし」
「へーえ、お兄さん、やんの? そうなると、こっちだって色々とやらせてもら――」
とそこに、突如として現れた幸於に後ろから少女の脇腹に思いっきり回し蹴りを食らわせた。吸収しきれない衝撃が体を襲い、横っ跳びに吹き飛ばされた。頭から落ちる所を右手で地面に着き、そのまま一回転して何とか体勢を立て直した。蹴った側は、ぞくっとする程冷たい視線で少女をひたすら真ッ直ぐに捉えている、所に文が飛び出して顔面めがけ右ストレートを繰り出した。少女はそれをひらりと避ける。次いで文の前蹴りを、右腕で受け止めた瞬間、左手でポケットから棒状のプラスティック製の何かを出し、文のその足に叩きつけた。瞬時に文の全身に激痛が走った。
「ガハッ!?」文はがっくりと膝をついて倒れた。
「こちらも、びりびりっとね。一応害は残らないから安心しなよ……また会ったね、紫の人。ここいらで一つ自己紹介とでもどうだろう。私は、ってうお!?」
少女の言葉が終わる前に幸於の回し蹴りが足元をすくう。予期せぬことに、がくんと体を地に着く。幸於の上から叩きつけられる拳を、回転しながら避け、そのまま起き上がり腰をかがめた姿勢になる。そこにとんと軽く跳んだ幸於の回転とび蹴りが上から打ち下ろされる。少女は先ほど同様右腕でそれを受け、左手に持った何かを振り上げるが、簡単に避けられて、同時にぱんとそれを蹴り上げられてしまう。それが遠く飛ばされる。
「ああもう、ったく!」少女が拳を握りボクシングスタイルで頭を前後左右に揺らしながら左拳右拳と次々と繰り出す。対して幸於はひらりひらりと避けるものの、じりじりと後ろに下がりながらの防戦一方。少女もこれはいけると考え、気が昂ぶり多少動きが大きくなった所を幸於が懐に入り、脇を締め、手刀をびゅっと脇腹に刺す。次いでその姿勢から左足で膝蹴りを腹部に、怯んで後退した所に横蹴りを胸部に当てる。少女が後ろ手を着いて倒れる。「いたたたたた、ちょっと、降参! 止めて!」「集電完了」「…………え?」
幸於は少女に向かって、長剣を突き出した。かちゃりと鼻の先に迄、剣先が届く。
「……マジ?」少女は顔面蒼白。
「いたって真面目だ。今すぐ殺した所で罪悪感を持ちそうにない。子供だからと言って変わらない。お前が思っている以上に俺は今怒っているぞ。――先日俺とお前は似ているだ何だの話になったな。確かにあの時はそう思ったがな、そんなものどうでもいい。聞くべき事も沢山ありそうだが、それもどうでもいい。幸次を苦しめた時点でどうでもいい。幸次を傷つけた時点でお前は敵でしかない。それ以外ではありえない。覚悟しろ」
「へ、へえ、結構一途だね。妬けるや。ちょっと調子乗っちゃったかなぁ」
「余裕ぶるのは結構だが、声の震えはどうしたって抑えられんようだな。いい気味だ」
「……まあね、確かに…………でも、どうやら本当に殺す気はないようだね、優しいや」
幸於の横腹に蹴りが一閃。桜色の髪の色の少女が、勢いよく飛んで幸於に飛びついていた。ずさっと横に飛ばされる幸於。桜色の少女が緑色の少女を助け起こして、すぐさますたこらさっさと逃げ帰ってしまった。そして帰り際に「じゃあねー、お兄さん、結婚しようねーっ!」と文に向かってキスを投げた。
投げられた方は、やっと体の痺れも切れて、深いため息交じりに「まったく」と呟いた。
「いや、何なんですか、アレ。文さんも知っていたんですか?」幸次も起き上がり文に真面目な顔で聞いた。
文も存外真面目な顔をしている。「いや、何と言うかかんと言うか……今ではちゃんと報告していればと後悔している」
「え、報告って? ふ、文さん、もしかして本当にあの子と結婚するとか!?」
「そうじゃなくてだな……幸次、お前はお願いだから突っ込みでいてくれ。出来る限り」
忍もやっと腹部の痛みが消えて、立ち上がり二人の元へ寄った。
そんな忍を退けて幸於が幸次に駆け寄る。「幸次、大丈夫か? 痛む所は無いか?」
「ああ、大丈夫ですから」と笑顔の幸次。
「本当に、本当なんだろうな、大丈夫なんだろうな」と過剰な程に心配。
「大丈夫ですって、本当に」涙目で訴えた幸於の頭を優しく撫でると、幸於は「うー」と唸りながら、涙目のままで恨めしそうに、顔を赤くして子供っぽく見上げていた。
それを見て忍と文がひそひそ。「おい、文、ちょっと最近こいつの幸於さんの扱い上手くなってないか?」「いや、忍、俺もそう思った所だ。怖い位だぞ。末恐ろしいどころの話ではない」「やっぱりなあ。こいつ、よもや本当にハーレムか何か作ろうってんじゃねえだろうな」「うーん、それは無いと思うんだけどな。寧ろ幸次、弘恵さん、幸於さんで三人で幸せに暮らしたい的なものじゃないのか?」「文豪かよ、昔の某漫画家かよ」「良く知ってんな、俺は知らんが。しかし昔、国外じゃ一夫多妻の文化は珍しくなかったらしいしな。案外、女性同士の同意があれば出来るもんらしいぞ? でも浮気は厳禁らしいけど」「良く分からん、頭おかしい。そりゃあ女性科学党の躍進も納得ですわ」と話し合っていた。
「あの、全部、聞こえてますよ」と幸次に苦言を呈される。
「いや、聞こえるように言ったんだぞ?」と文は存外平気な顔をしている。
「ああ、そうですか。……それより、もっとやることが、聞くべき人に聞くべきことがあるでしょう?」と言って、桂は小春を見た。次いでその他三人も見た。じっと押し黙って、眉間にしわを寄せ、口を真一文字に結んで俯いている。やがて顔を上げた。
「お願いです、助けて下さい!」