六
「いらっしゃい」
今日の弘恵は長い後ろ髪を髪留めで纏めている。幸次は四人掛けの卓に堂々と座らされた。一応二人掛けの物もあるのだからそっちでいいのでは、と先日言ったら、どうせお客なんてそんなに来ないんだから平気よと平然と返された。今日も客足もまばらだし、言った所で同じ返しが来るだけなので、黙って座り、遠慮なく鞄を隣の席に置いた。
「はーい、きつねうどんお待たせー」「あ、うん、ありがと」
水の入ったガラスコップと、刻み葱とあげと天かすと鰹節を乗せた温かそうなうどんが、弘恵の手から幸次の前に丁寧に置かれる。弘恵の言葉に笑顔で、やや甘えるように答える。今は知り合いもいないし別にいちいち敬語で話す必要はない。いや、別に知り合いが居ても別に敬語で接する必要もないけど、やっぱり少しだけ恥ずかしい。などと考えていると弘恵は徐に幸次の鞄を向かい側の席に置き、空いた席に堂々と座った。お客の前だろうとお構いない。流石、肝が据わっている。客商売だけどいいのかな。幸次の方に体を捻じりながら惜しげもなく笑みを向ける。他人に笑顔を見せる事は、殆ど無い。客商売だけどいいのかな。幸次が出されたうどんをすすると弘恵は口を開く。
「なんか久しぶりだね。この間以来。……昨日は襲撃があって会えなかったもんね」
幸次は頷きながらもごもごと口を動かし、飲み込む。「うん。昨日はちょっと色々と手間取っちゃって。来れなくてごめんね」
「ううん、いいの、そう言う訳じゃなくって……昨日は声聞いて無事だって分かったから良かったけど、やっぱりちゃんと会わないと安心できなくって」弘恵はぐっと近づいた。
ふと、弘恵の温かい匂いが幸次に届いた。香水では無い、弘恵自身の香りである。弘恵は普段から化粧っ気が全くない。時々一緒に出かけるときなどはうっすらとしている程度である。紅も薄い。……どちらかと言えば、していない方が幸次は好きである。まあ年齢よりは若く見えるし、この間日焼け止めを塗っている所を見たので、気は使っているのだろう。横からほろ酔いのオヤジが二人の会話を聞いてか聞かずか「おい、ねえちゃん達ラブラブだなあ」と言ってきたので、弘恵がすかさず「うるさい」とぴしゃりと言い返した。
おい、客商売。
「心配しないでください。ちゃんと帰ってきますから」幸次は笑った。
「……うん」弘恵は、幸次の言葉に、やや笑顔を翳らせながら答えた。
やがて店内は人が居なくなった。店の親父が「もう閉めよう」と言ったので弘恵は看板をしまい暖簾を下げた。それではそろそろお暇しようと幸次が立ち上がると「あ、居てていいよ」とだけ言って、店の奥へと入っていった。それを聞いて仕方なく、という訳でもないが今一度椅子に腰かけ弘恵を観察。弘恵は店内の清掃をしている。じっと座っているのは流石に悪いと思って手伝いますと提案するも、「いいから座ってて、疲れてるでしょう」と返された。確かに昨夜は幸於の怪我もあってあまり眠れていない、お言葉に甘えて少し休もう。と机に突っ伏した。どっと眠気が襲う。うつらうつらしてる間にいつしかまどろみの中。すぐ目を覚ました。と思って時計を見ると三十分経っていた。電燈は大部分消してあり、薄暗い中に弘恵の姿があり、隣でじっと幸次を見つめていた。眠気眼を擦り無理な姿勢で寝ていた為に変に固まっていた体を縦に伸ばす。弘恵は「おはよう」と微笑んだ。
微笑んだがどうにも寂しげに見える。何故だろう。今回ばかりは思い当たる節が無い。
すると弘恵はギイっと椅子を押して立ち上がり、後ろに周り、座っている幸次の背中をそっと抱き締め腕を前に回した。
「ねえ、……お仕事、辞められない?」弘恵は抱き締める力を強め耳元にそっと囁いた。甘えるような気色は全く感じられない。何とかして説得しようと試みる風である。
ああ、そういうことか。と納得する。突然の襲来だった上に、仲間が負傷したことも、つい話してしまったし、相当心配だったのだろう。気付かない方が迂闊だ。しかも座ったまま寝てしまう。こういうことを言われるのが道理だ。安心させるように抱き締められた腕にそっと手を乗せ「心配ないよ」と答えた。答えたものの――それ以上に弘恵を安心させる為の言葉を持ち合わせていなかった。心配している人に心配ないとだけ答えるのはいささか心もとない、頼りがない。だが現状で弘恵を説き伏せるだけの材料は無い。
「……介護福祉士の資格、取ったわよ」そんな中、弘恵が口を開く。
「え、おめでとう」幸次はそんな弘恵を見たいが、くっつかれているので振り向けない。
「何年も就職できないでここで甘えていたけど、一応なんとか稼ぐことは出来そう」
「うん、そっか。おめでとう」心の底から喜ぶ。
「うん、だからいつでもお仕事辞めていいわよ」弘恵の声に冗談めいた響きは無い。
「いや、そうは言ったって……すぐには弘恵さんだって決まらないだろうし、僕だって仕事辞めるとなると大学行って学費払って就活してってなると流石になー」
「いいじゃない。慎ましく二人で貧乏のまま生きて行ったって。大丈夫よ私たちなら」
「うーん、でも……それは、やっぱり幻想かな」
「うん。知ってる」
「そっか」ですよね。弘恵さんは身にしみて分かっている筈。幸次は俯きながら考えた。
「……でもさ、ちょっとは夢見たっていいじゃない。今まで大変なことに遭ってきたんだもん。報われたっていいじゃない」
「高額の報酬はもう貰ってるよ」
「……」
沈黙した弘恵の腕を撫でる。「ごめんね、いつもいつも心配させちゃって。でも、僕だって厭々(いやいや)やっている訳じゃないから。ちゃんとこの仕事にそれなりに誇りを持ってるから」
「……皆の為? 幸君が辞めちゃうと困るから?」
「うん。……一人でも欠けると結構差が出るんだ」
幸次ら『駒』の選別は少数で、且つ世代世代に固まって現れる。しかも適性かどうかの判断もなかなかに難しい。結果年端もいかない中高生を戦いに出さなければならない。
幸次は弘恵の腕を掴む力を強めて「心配ないよ」をもう一度言葉を繰り返す。根拠なし。
「そうやって、背負い込んで。……逃げたっていいじゃない」弘恵は優しく囁いた。
「違う!」幸次は叫んだ。
これには流石にびっくりしたように弘恵は幸次から離れた。幸次は自分でも叫んだことに驚いたような顔をして「あ、ご、ごめん」と謝りまた席に着いた。
どうしても考える。逃げることは本当に誤りか。仕事の事を考える。自分の仕事は命懸けである。確かに苦しい思いはしてきた。訓練は厳しかったし、激しい戦闘も幾度となく経験してきた。しかし保証は確りしているし、実入りもいいし、周りはいい人ばかりなので文句は無い。何より幸次はその隊に入る前までの方が苦しかった。母は毎日仕事で忙しくって祖母は負担で、それなのに自分は何一つ出来なくって、もどかしかった。なのに今は違う。自分のおかげで皆が楽を出来ている。家族どころか街中の笑顔を作っている。そう思うと命を懸ける甲斐がある。では辞めればどうか。死んだ時、怪我をして止むなく辞めた時とは違い単に辞めた時の保証は、ほぼ無い。全ては元通りである。しかも時計の針は逆しまには戻らない。母親も仕事を辞めているし、ともすれば前よりも酷くなる。街を守る事も厳しくなる。……矢張り一時の感情に任せ無責任に逃げることは出来ない。
視点を変える。もし、仲間の一人でも辞めた人が出たらどうか。自分は責められないと思う。苦しくないと言った所で皆が皆同じように思っている訳でもないし、ひやりとする場面は何度もあったし、実際今回は負傷者まで出た。医療技術が日進月歩しているとはいえ死や絶望はいつでもこちらに狙いを定めている。そんな状況な訳で、辞めたいと思ったらすぐにでも辞めればいいと思っている。仕方がないし、むしろ推奨する。しかしどんなに綺麗事を言ったって困る事は困る。これも仕方ない。……やはり答えは出ない。
思考を遮る突然の警報。街中にけたたましいサイレンが鳴り響く。腕輪からも電子音が鳴る。予測は無い。まただ。すぐさま店の外へと飛び出す。今度は何処だ。通信を入れる。
「こちら幸次。大橋さん、これは?」
「こちら藤井だ。大橋は今席を外している。私が指揮を執る」
向こうから大橋よりもやや軽い感じの声がした。急遽ということなのだろう。一応藤井とは面識もあるが、直接指示を仰いだことなどは無い。少しだけ不安になる。
「こちら文」「こちら忍」「こちら桃子」と続けざまに反応を示した。一人足りない。
「はいはーい、こちら幸於ですよーだ」遅れてやっと如何にも不機嫌そうな幸於が出た。
一同、その声に少しだけ安心。
「で、どうすりゃいい」と幸於の声。
「分からん」と藤井の落ち着き払った声。
「……は?」
「敵襲の姿が全く見えん」
「ってことは誤報か?」
「警報センサの不具合が完全に修繕していない為に感度を上げている。その所為で誤検知された可能性はあるが……何せ今の所、断言出来ん」
「マジかよオイ、どーすんだオイ」
幸次は不安げに黙って聞いていた。他の者の声も聞こえない。同様の心持で居るのだろう。単なるセンサーの誤作動だとしても、これからそんなものに振りまわされるとなると気が重い、嫌になる。外ではウーウーとサイレンがけたたましくなり続いている。街の人間は不安で眠れないだろう。
「取り敢えず、サイレンは止めたらどうです? 危険状態にある事は周知出来たので、後は未だ予断が許されないことを連絡すれば」と文が提案した。時々頼もしい。
しかし「それが、出来んのだ」と藤井に軽く一蹴。
「はい? マジですか?」
「不具合が発生していてな、サイレンを手動で止めるとセンサからの発信も途切れるみたいで。これは初期不良らしいが」
「なんじゃそりゃあ……」
サイレンは鳴りやまない。こんなに長く鳴り続けるのは初めてだろうか。そんな中、女の声で各所のスピーカーから声がサイレンの合間に途切れ途切れに耳に届く。市民は外に出ないようにという注意事項が確認できる。真っ暗の闇の中、ざわざわと街の人のどよめきも這い出す。子供の泣き声も聞こえる。グダグダと文句を垂れながら外に出てくるオヤジも確認できる。不安を通り越してイライラする。手際の悪さや色々な不運に憤りを感じるのではなく、それだけでは決して無く。このイライラは公園で集団を目撃した時から断続的に続いている何か――
「よし、今日はもう建物内でゆっくり休め」藤井からの通信が入った。
「いいんですか?」桃子が答える。
「いい。確認作業をしているがどうも誤報が有力だ。いつまでも子供らが起きている訳にはならんだろう」
その言い方はどうにかならんものかと幸次は考える。
次に出たのは幸於である。「いいのか? 俺はもう寝るぞ。後になって出撃だ何だって言われても出来ねえからな」と口調もきつめで幸於もイライラしているのが分かる。
「それはそれで困るがな。実際敵襲が来る可能性も未だ捨てきれん」
「お前な、緊張したまんま休めってのか。そんなことできるかよ馬鹿野郎」
それでも室内で待機という結論に纏まった。何一つ腑に落ちないまま通信は切れた。心配そうに黙り柱に凭れじっと幸次を見つめる弘恵の姿があった。その不安を取り除いた方がいい事は分かりきっている筈だが……この街の異常な雰囲気の中何を伝えられるだろう。
「取り敢えず……今は待機らしいです」と事実を簡単に伝えるしかなかった。
「そう。じゃあ、ここに居た方がいい?」弘恵は近付いてサイレンの中懸命に伝えた。
あ、そうかと今頃の事のように気付いた。こっちで待機していた方がいいのか? 「じゃあ、ここにいます」と特に思考する訳でもなく反射的に返す。言った後で気がついた。そんなに簡単に言葉に甘えていいのか、また家にどう連絡すればよいか。実はこの襲撃時は隊以外の通信機器が遮断されている。しかし――ああ駄目だ、何も考えられない。頭がずっとごちゃごちゃとする。イライラとごちゃごちゃが固まって脂汗になって溢れ出て来る。
そんな幸次を見て「大丈夫?」と弘恵はぐっと近づいて心配そうに呟く。
多分今、物凄く不機嫌そうな顔をしているんだろうなと気付くが、笑顔を作る事が出来ない。作れば万事解決するような気もするが、出来ない。何も言わずにずかずかと店の内へと行く。依然耳障りなサイレンが響く。店の椅子にガタッと座り、今度はさも不機嫌そうにしかめ面で机に突っ伏す。そこに弘恵が来て隣に座る。それさえも気に障る。放っておいてくれと思う。サイレンが響く。じっとしてもいられず、ごちゃごちゃと色々考える。考えるものの何一つ形にならない。形になるどころか、穴をそこらじゅうに掘っては半端に埋めるを繰り返しているようで、結果不格好で不愉快な精神を形成してしまう。益にならないことは分かっているのに止められない。嫌になる。弘恵がそっと頭に手を乗せて撫でた。そういう気分ではない。むしろ気に障る。分かってくれていないのも不快だ。だが何を言葉にするのも嫌なので、じっと無視する。サイレンが響く。弘恵はひたすら優しく撫でる。次第に、次第に気にならなくなった。サイレンが響く。それにも慣れてきて、やがては遠い事のように思えてくる。弘恵が頭を撫で続ける。それにすがる様になる。それを頼りに頭をからっぽにする。まどろみに包まれる。ぷつりとサイレンが途絶える。誤報であることが街に流れ、その訳の旨を伝える通信も入る。等閑に聞き流し生返事を返す。ふと時計を見て驚く。警報が鳴ってから既に二時間ほど経っている。弘恵を見る。じっと黙ったままこちらを見ている。安心する。本来なら安心させる立場かもしれないが、まあ、そんなことはいいや。弘恵の方を向いたまま、目を閉じる。すぐに夢の中に入る。
翌日朝帰りした幸次を、母は目に涙をいっぱいに湛えながら、黙って強く、抱き締めた。
その日はだるいからという理由で学校は休んだ。こんな理由で休んだのは初めてだ。自慢ではないが授業で一度たりとも眠ったことの無い自分としては、かなり罪悪感のある行為。真面目過ぎやしないかと苦笑。学校に、流石にそのままの理由を言う訳に無いかないので体調不良だなんだと連絡。仕事場にも連絡。大橋に学校を休むことを言うと、何も聞かずにしっかり休めと言ってくれた。次いで当時居なかったことを謝罪された。仕方なくないか? それ。同時に修繕に全力を注ぐことも約束された。過労死しやしないかと心配。
十分すぎる程休んだせいか次の日はかなり調子が良い。先日感じていたどうしようもない苛立ちなども完全に吹き飛んでしまっている。原因は寝不足にでも在ったということだろうか。どうしようもなく単純だ。単純だが馬鹿には出来ない。先日とは打って変わって涼しく心地よい風が通り細く茶色い髪をさらさらと靡かせる。それだけで雑多なしがらみは緊張を緩ませ、するりと力を失くして落ちる。全く単純。単純だけにどうしようもない。
爽やかな朝を颯と歩く。学校に近づく。が、何やら騒がしい。青く晴れた空に似つかわしくない人混み。「ぎゃー!」という男の叫び声。何事かと走る。叫び声のもとは昇降口前。女の「おらおらおらおらア! さっきまでの威勢はどうしたつまらねえな糞餓鬼ィ! ぎゃあぎゃあ呻くだけじゃ能がねえぞ立ち上がって俺を楽しませてみろ!」という楽しげな声。……どっかで聞いたことのある声だが、気のせいだろう。いくらなんでも生徒相手に手を上げる様な人では無い筈。ほら、それにまだ入院中の筈だし。きっと違う。前へと出る。目を疑う様な光景。男子生徒二人が倒れていて、それを紫色の長髪の女が、左腕を包帯でぐるぐるに巻きながら、嬉しそうに赤いハイヒールでぐりぐりと足蹴にしていた。
「立てっつってんだろうがよッ! それとも何かッ? さっきまで馬鹿にしていたド処女の保健医様に踏まれて喜んでるんじゃねえだろうなァ。ハハ、さてはドMだなお前! ほおら、周りよく見ろ、人がいっぱいいるぞ? 衆目に醜態さらしておっ勃ってんじゃねえのかよ、オイッ!」と言いながら紫髪は恍惚の笑顔で男の腹をドンと蹴った。
いや、周りを見るべきはあんただ。皆ドン引いてるぞ。幸いなのはまだ朝早い為それ程は人数が多くないこと。速く収拾させないと。誰か頼りになる人はと周りを見渡す。小春があわわといった感じで狼狽えている。役に立ちそうにない。くそ、誰か味方は……。
ぽんと幸次の肩に手が置かれる。「な、行って来い。お前の、大切な生き別れの姉さんだろう?」と淡路が親指を立てて笑っている。こ、こん畜生……。
幸次は覚悟を決め肩の手を振り払い幸於を止める為に前へと足を踏み出した。
その三十分ほど前である。幸於は眠そうな目をこすりながら学校へと歩いていた。
「こんな早くに出なくちゃいけねえなんて。退院した途端にこれかよ。やってらンねえ。まァしかし、幸次とエンジョイ・ガクエン・ライフするためには仕方ねえ……」
などとぶつくさ言いながら歩いていた。やがて学校について職員室へと入る。中には教頭のハゲ頭と小春の後姿。小春は振り向いて「おはようございます仲村先生」と笑顔。
(誰だ、仲村先生って。あ、俺だ)幸於も笑顔を作って「おはようございます斉田先生」
小春は心配そうに幸於の包帯で巻かれた左腕を見て「災難でしたね。初日からお怪我なさるなんて。お加減はいかがですか」
いちいちめんどくせえなと思いながらも「治りは順調です。包帯もすぐに取れますし、痕も残りません」と答える。(実際、腕ぶ千切れて順調に後遺症残りそうだけどね)
その言葉に小春は「そうですか、それは良かったです」と心底安心したように微笑んだ。
(……ん? そんなに気にかけていたのか? 俺のことを)
二人は職員室を出て昇降口へと向かう。そこで生徒を笑顔とあいさつで迎え入れるとか何とか。(正直つらい。何が悲しゅうてガキ共の相手せにゃならんのだ。ああ、教師だからか。ガキは嫌いだ。何が嫌だって、ガキは馬鹿だ。馬鹿なのが嫌いだ。はあ、と溜息をつく。……そう考えると幸次はやっぱり大人だな。うんうん、いつも通りの結論だ。またあいつに会えるとなると楽しみだ)
「あの、どうかなさいました?」「えあ?」
不意に不思議そうな顔で幸於の様子をうかがう小春に、間抜けな反応を返した。幸於は自分の顔がだるだるに緩んでいたことに気付いた。口は半開きで口角は上がりへらへらと顔を紅潮させていた。
「おほほ、何でもございませんことよ。さあさあ、レッツビギンでございます」「は、はあ」
(む、反応が悪いな。やっぱり幸次とは格が違うのだよ、格が。……む、そうだ、あいつはよく本を読む。本が好きなんだ。俺も好きだ。そこが違うんだな他の奴らとは。他の生徒で幸次ほど読んでいる奴はいなさそうだし。成績はあんまりらしいけど。俺は工学であっちはバリバリの文系だ(理数教科ずたぼろだったらしい)けど、そこが共通してんだな。……そういや一度、家にある本を全部電子データにして捨てたって言ったら悲しそうな顔をしてたな。あそこらへんの感情、俺はよく分からねえな。同じなのに)
二人は昇降口へと辿り着いた。まだ人の姿は無い。黙って生徒たちを待つ。すると五分と経たぬうちに、朝練を終えた生徒たちがちらほらと登場し出した。元気におはようございますと声をかけられる。体育系らしいはきはきとした挨拶である。本来なら喜ばしいことだが幸於はこういう手合は苦手である。精一杯の笑顔を作りながら「はい、おはよう」とあしらっている。心の中では「速く終われ」としか考えていない。対して小春はというと何とも元気そうに生徒の相手をしている。ああ、教師の鏡ですね、そうですね。
「お、小春ちゃんじゃん、どうしたのねえ」道着らしきものを背負った男子生徒二人がにやにやといやらしい笑いをうかべながら小春に近づいた。
ああ、こういう手合もやっぱりいるもんだな。いつの時代もどんな場所でも。
迫られた小春は慌てふためきながら「えっと、その……」と先程までとは一転して眉を八の字にしてまともに相手を出来ないで困っている。それを見て更に面白くなったのか男二人は調子づいて馴れ馴れしく小春の頭を、「マジで小春ちゃん可愛いじゃん。彼氏とかいんの?」と撫で出した。小春はびくっと体を震わせた。
どうも武道が精神を健全にしてくれるというのは老人の妄想らしい。健全なる魂よ、健全なる身体に宿れかし。小春がこちらに助けを求める様な視線を送っている。……知らねえよ。頑張れよ。教師目指してんだろうがよ。実際教師になったらこんなトラブル日常茶飯事だぞ? 知らねえけど。トラブルってのは異常に積極的な妹やハーレム化を目論むピンク髪や命を狙いに来る金髪や男主人公の女体化のことじゃあねえんだぜ?
「はは、超かわいい。ねえ、小春ちゃんってもしかして処女?」不良がけたけたと笑う。
「この歳でこんなに可愛くって処女とかないでしょ。それ逆に引くわー。この歳で処女とかそんな天然記念物、間違いなくよっぽど面倒臭え厄介な女だよ。百%(パー)糞だよ。ハハ」
全く、嫌になっちゃうわ。繊細で割れ物注意な幸於ちゃんの心がずたぼろ。でも頑張る。耐えて見せる。だってあたしには幸次君という優しくて頭のいい素敵な白馬の王子様がいるもの。こんな野蛮な人たちの相手をして学校生活を終わらせては駄目。我慢するの。あたしには出来るわ。大人だもんね。……って、何でこの男の子ここで倒れているのかしら。あれ、斉田先生さっきまでこんな近くにいたかしら。そんなびっくりした顔でこっちを見て。もう一人の男の子も唖然としてこっちを見ているわ。……うん、右足には確かに何かを蹴り飛ばした感触がある。……あれ、もしかして幸於ちゃん殺っちゃった?
幸於はふわりと体を浮かせると、絡んでいた男の顔面に蹴りを食らわしていた。当たり所が良かった(悪かった?)のか、地を滑った後、なかなか立ち上がれない。突然の事に呆然自失していた男も我に帰り「何すんじゃゴラァ!」と威勢よく叫んだ。
――殺っちまったもんは仕方がねえ。勢いそのまま叩き潰すのみだ。
「覚悟完了。黙れ糞餓鬼ァ!」
「ンだとこの野郎!」男の右ストレートが飛ぶ。大振りで肩に力が入っている。
こんな雑な攻撃、空手部じゃあ無えか。もし柔道部だとしたら掴まれたら厄介だな。
ぐっと下腹部に力を込め、手足の力を抜く。くるりと体を翻し、いなす。腕を伸ばし開いた手の側面でとんと首筋に打ち付ける。周りには軽く当たったようにしか見えないが男はぐらりと足元が覚束無くなる。にやりと笑いヒールをぽんぽんと上に脱ぎ飛ばして、ぐっと腰を落とし体勢を整え前蹴りを腹にどすんと決める。苦痛に顔をゆがめどさりと前のめりに倒れ、ヒールがカタカタっと地面に落ちた。
「造作もない。所詮は下衆よ。地面を舐めるのがお似合いだ」
「と、言う訳だ」「いや、そう言われましても」
幸於は止めに入った幸次に説明した。幸於は話せば分かると思っているのか自信満々で幸次を見上げている。寧ろ褒めてくれと言わんばかりに誇らしげである。
「でも仲村先生」「誰だ?」
幸次、深いため息。「あなたです。流石にそれもういいでしょう、いい加減に慣れて下さい。じゃなくて。流石にここまでするのは教育者として如何なものでしょう」
「政治家みてえだな。『誠に遺憾であります、善処致します』って言えばいいのか?」
「ええっと…………とにかく謝るなりなんかしないと不味いと思うんですけど」
「イヤだ」「でしょうね。そう来ると思っていましたが」
「何で俺が謝んなきゃ駄目なんだ。悪いのはこいつらなのに」「いや、あのですね」
「お前のせいじゃない、知らん顔してればいい」「僕は逃げません」
僕の人生、狙われている?
そんな幸次を尻目に小春が幸於におどおどとしたまま近付いた。「あ、あの、その……さっきはその、ありがとうございました。私が情けないばかりに」
「ん? ああ、いたのか。そうか、そう言えば原因はお前だったな。すっかり忘れていた。そうだそうだ。まったくしょうがねえ奴だな。こんな病み上がり少女にリスキーなコト押しつけやがって。そのまま押し倒されて公衆強姦な流れになったらどう責任取るつもりだ」
小春は幸於を見てぱちくりと不思議そうに瞬いた。「あの、その……仲村先生って、思っていたよりも元気というか、第一印象よりも荒々しいというか。まさかあんな風に人を蹴り飛ばす人だとは全く思ってもなかったんですけど……」
「あん? 俺が何だって言うんだ。悪いが地元じゃノリが悪いって優等生系群に入れられていた程の人間だぞ。まあ周りの馬鹿共を相手にしなかっただけだけどな……って、んあ、忘れてた。しまった、すっかり素が出てた」と幸於もぱちくりと瞬いた。
いちいち言葉にしなくてもいいのに。幸次は一人呆れて心の中で呟く。
小春は、「でも、なんだか物凄く近くに感じられた様な気がします! これからよろしくお願いしますね!」と言って幸於の右手を満面の笑みで取って握った。
幸於は「ぎょ!?」っとこれも言葉に出して不審の態度でそれを迎える。小春は変わらず笑顔のまま。まあ、新任の先生同士仲良くなれたんならそれに越したことは無いか。