表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

十一

 小さな三階建のアパート。周りは一様で巨大な団地が取り囲んでいて、一つ、時代に取り残されたように古めかしい外観。古めかしいといっても歴史があるとか風情があるとか、そういうものではなく、フェンスに巻き付いた蔦や、手摺の錆がそのままに、なすがなすままに放置されていて、詰まる所みすぼらしい。巨大な建物に囲まれているせいで昼間も碌に陽の光が入ってこない。だから、冬は寒い。なのに夏は風通しが悪くて蒸し暑い。

 その一室。小春は畳の上で、しかめっ面で、緊張したように肩を怒らせながら、エプロン姿でじっと座りこんでいる。コンコンと優しいノック。小春は玄関に走る。

「ハル姉さん、帰って来たよ。で、その――」

 外から成明の声。続きを遮るかのようにガチャガチャと扉の鍵とチェーンロックを外す。

「成明君!!」扉を開け成明の無事な姿を見止めると、涙目の歓喜の表情で抱きついた。

「はいはーい、現場確保ー♪」幸於は逃さぬように開かれた扉をがっしりと掴み、膝をついて成明を抱きしめる小春をぎろりと見下げた。

 目が点の小春。周りを見ると、忍と幸次と文、あと見知らぬ少女。

「あ、どうも、桃子です。『駒』です」察したようにぺこりと頭を下げ自己紹介をする桃子。

「えっと…………これはどういう事?」小春のひきつった顔。成明を離して顔を見る。

「えーっと、なんていうかな……」成明は困ったように頭を掻く。

「俺、コーヒーな」幸於は我が物顔で、靴を脱いでどかどかと部屋に入った。

「え? え?」こはるはこんらんしている! わけもわからずとおしてしまった!

「お邪魔します」中高生諸君は丁寧に頭を下げて部屋へ、やや遠慮がちに入った。

「え? あれ?」こはるはこんらんしている! わけもわからずとおしてしまった!

 十畳の畳み部屋、ごく普通の円形の卓袱台(ちゃぶだい)。そこに七人となると狭い。ちょこんと座る小春と成明の正面に幸於がアイスコーヒーを机に置いてでんと座っていて、幸次、文、忍が遠慮がちに小さく座っている。桃子は狭いのが嫌なのか、部屋の隅に膝を抱えて座って、ちびちびと両手で持つ麦茶のカップに口を付けている。因みに小春、幸次、幸於、忍がコーヒーで、文、桃子、成明が麦茶。湯呑やガラスのコップなど様々。てんでばらばらの柄で、如何にも急ごしらえといった感じ。カランと幸於のコップが音を立てる。

 小春、溜息を一つ。「酷いじゃないですか。何もこんな、一斉に押し掛けなくっても」

 その非難に、まったく悪びれない幸於。「ハン、お(メエ)がなかなか動き出さねえのが悪い。なかなか居場所も教えてくれねえし。覚悟が足らねえ」

「そんなこと言われたって……これ、多分あちらさんにばれてますよね?」

「ああ。もう逃げも隠れも出来やしねえな。あ、逃げるんだっけ?」

「うう……あんまりです…………」頭を抱える小春。

「ま、成明(こいつ)茉莉香(あいつ)が接触した時点でここがばれンのも時間の問題だ、どちらにしろお(メエ)らから仕掛けねえと駄目な状況ではある」幸於はごくごくっとコーヒーを飲み干した。

「え、成明君、茉莉香ちゃんに会ったんですか!?」

「うん。様子見の予定だったんだけど、そうはいかなくって」成明、申し訳なさそうに。

(……あれ? なんか第一印象と違う)そんな成明を見て忍は思う。

「そうだったんですか……なら、益々逃げ場がありませんね……」がっくり項垂れる小春。

 幸次は、幸於が何を考えているのかとちらりと掠め見る。幸於はじっと成明を見つめている。その成明は居心地が悪そうに肩を揺らしながら、小春と幸於を交互にちらちら見ている。小春は深刻そうに俯いて下唇を噛んでいる。忍はそんな空気を察するように押し黙っている。文は正座で背筋をぴんと伸ばして腕を組んで部屋の中をきょろきょろ。桃子は先程からずっと、こちらの事などどこ吹く風と麦茶を回して氷をからから鳴らしている。

 不図幸次の頭に浮上する疑問。「幸於さん、あの、本部の情報を横流ししていたり……?」

 にっと笑う幸於。「なあに安心しな、そこまで大それたことはしていねえさ。手を汚すまでしてこいつらを助ける程、入れ込んではいねえ。こいつらのやる事を黙っていただけさ」

「だ、黙っていたんですか……」

「あと、こいつらの捕獲命令を握りつぶしたり」

「お、おおぅ…………」

(そんな命令が出ていたんですか)と幸次、文、忍は初耳。桃子はつい先ほど聞いた。

 幸於はそんなのを気にしない風。コーヒーの空いたカップを振って氷をかたかたと鳴らし、首を(はす)に傾げにやりと笑みを浮かべつつ、「で、逃亡の目処(めど)はついたか?」

 小春は眉間に皺を寄せ、俯いたまま恨めしそうに幸於を見て、「目処というか……既にこれしかないっていう方法は、あるにはあるんですけど。でもそれは……」

「まあ、言ってみろ。採点してやる」試す様な幸於の視線。

 小春はちらりと中高生たちを見る。「あの、いいんですか? 言っても」

「何言ってやがんだ。ガキじゃあるめえし」しかめ面の幸於。

(この間と言っている事が違う)と中高生+小春。そんな視線に、横に首を傾げる幸於。

 小春は気を取り直し、コーヒーを口にして、深呼吸。「これはかなり目立つやり方ですが」

「おう」幸於は肘を机に付け、手に顎を乗せる。

「……先ず、〈壁〉の構造からですけど」

 幸於はその言葉を遮って、「はい、幸次君。壁の構造を答えなさい」と楽しげに先生口調。

 幸次は突然の指名に驚きながらも、少し考えた上で、「愛知の〈国境〉をぐるりと遮って、高さは何キロメートルもあって、材質はすんごく硬くって、厚さは何百メートルもある。って習いましたけど……」小学校で習う知識。

「はい、その通り。よく出来ました。で、それ、実は嘘だ」けろりと言い放つ幸於。

「……え?」声が揃う中高生四人。

「本当の壁の姿、斉田先生、お願いします」幸於は小春に手の平で「どうぞ」の指示。

 少し戸惑ったように、「あ、はい……」そして姿勢を正して、「愛知の〈国境〉をぐるりと遮って、高さは何キロメートルもあるっていうのは合っています。凄く硬いっていうのも、大体あっています。で……厚さは、実は何センチもありません」

「え?」声が揃う中高生四人。

 眉間に皺を寄せる文。「え、じゃあ、たった数センチの壁があんな風にそびえ立っているっていうんですか? 中で折れずに真っ直ぐと?」と理系らしい疑問。

「その通りです」と自信たっぷりの、元女性科学党研究員・斉田小春(本名かは不明)。「自動修復・塵機械機構(ナノ・マシン・システム)・硬化装置実装・炭素繊維(カーボンファイバー)不燃合成複合材料。そして、虚数軸(イマジナリ・パート)操作」

 幸於はそこで遮る。「そんじゃー解説、文」

「おうっす?」しばし考えて文は、「要するに材質はプラスチックですね。それをナノマシンで硬くしている上に、自己修復するようにしてあるって感じかな。虚数軸操作……多分、〈虚数空間〉でも〈壁〉としての機能を失わないんだろうね。そんな事が出来るんだなあ。敵兵を国外に逃さないため、若しくは……」

「私たち『駒』を逃さないため」ぼそっと桃子が言出(ことず)

 しばしの間。それをなぎ倒すように幸於は元気よく、「で、忍。お前はこの壁の維持に何が必要だと思うか?」

 忍は顔をしかめつつ、顎に手を当ててよく考えてから「……電力?」

「良く出来ました。では続きをお願いします斉田先生」幸於は小春に促す。

「……あの、この計画、もう分かっちゃってますでしょう?」

「さあね。俺は知らん。あくまでもお前が思い付いたやり方だ」

「そうですか……では、続けます。その通り、それ程の機能を擁する〈壁〉の機能維持には、大量の電力を要します。……逆に言えば、大量の電力が無ければ、壁はすぐにでも崩れ落ちます。といっても、機能が〈(ゼロ)〉になる事は先ずあり得ないんですけどね」

「大量の電力……」幸次がぼそっと呟く。

 幸於、幸次を見る。「で、大量の電力消費っていうのは、他に何があると思う?」

「え?」

「〈壁〉の維持以外にさ。お前が思い付くモン言ってみろ。俺らによく関係しているモンだ」

「ええっと、……『(こま)能力(のうりょく)装填(そうてん)』時の『集電』?」

「そう。いい感じだな。他には?」

「他? ですか。……『成る』時の消費電力がどうこうとか……」

「そうそう。実際装填時よりも『成る』時の方が消費電力は大きい。……他には?」

「ええー?」幸次はうーん、と考えつつ、「他、ですか? 僕も知ってます?」

「ああ。俺らによく関係している事さ」

「そうですかー。……あ、『虚数空間』?」

 こくりと小春は頷く。「『虚数空間』展開。これは、無理矢理虚数軸優位の空間を広げた後に、実数空間と虚数空間を切り離す作業です。『駒』は、絶対値でいえば実部よりも虚部の方が大きい訳ですから、虚数空間へと行く事が出来る訳です」

「そうですか……」と言いつつまったく理解のできない幸次。

 それを察した幸於。「要するに、『虚数空間』展開時っていうのは大量に電力を消費する。今はそれが一番大事だ」と助け舟。

「そうですね、他は蛇足です」小春はこほんと咳払い。「大事なのはここです。〈壁〉の機能維持には大量の電力が必要、且つ『虚数空間』展開時にも大量の電力が必要。……そして、『虚数空間』展開時の電力と〈壁〉の完全機能維持の電力とを合わせると、ここ犬山市への送電総量を遥かに超えます」

「……」全員黙って、小春の次の言葉を待っている。

「つまり、『虚数空間』展開時には、〈壁〉の機能は一部しか作動していません。……展開時だけ、硬化・自己修復の機能が少しだけ緩められます。実際、展開時に観測すると、数マイクロ単位で僅かにたわむ事が計測されました。……『虚数空間』展開時であれば、〈壁〉に〈穴〉を開けることは、不可能ではないと……思うのです」

 それだけ言うと、小春は全部出し切ったという風に黙る。そして、全員が黙ってしまう。

 中高生組の視線は幸於に、成明の視線は小春に向けられる。託された大人達。

 幸於は溜息一つ。「で、壁に穴を開ける係は、当然そいつだな?」と成明を指差す。

 勝気な表情で幸於を見る成明。「『成れ』ば、不可能ではない」

「ふーん、本当か? 戦闘を見る限りでは、パワータイプって感じでもなかったけどな」

「『成った』姿を見ていないじゃないか」喧嘩腰で幸於を睨む。

 にやけた表情を引き締める幸於。「……マ、ガキだから分からねえと思うから、はっきり言おう。お前だけじゃ無理だ。あの〈壁〉はそんなに甘い代物(しろモン)じゃねえ」そして小春を指差し、「それはそいつがよく知っているだろう。どうせ、観測結果やらハッキングやらで知り得た情報を分析しているうちに尻込みして、グダグダになっちまったんだろうよ」

 その言葉に小春は俯く。成明はそんな小春を見て、察し、悔しそうに唇を噛む。

 小春、ぼそりと独り言のように。「ごめんなさい。私が情けないばっかりに……」

「そんなことない!! もとはといえば僕が……」成明は慰めるように小春の手を取り、真摯な視線でしっかりと目を見る。「ハル姉さんは、むしろ僕が巻き込んだ方だから、だから、……そんな風に悲しい顔をしないで。自分を責めないで」

「へぇ、行動がイケメンやねぇ……」文が感心した様に、二人に聞こえない声で独り言。

(本当に、こんな時に何言ってんだこいつは)と隣にいる忍だけが聞いていた。

 カラン、と一際大きな氷の音。その方を見ると、三角座りの桃子が麦茶を飲み干してコップを揺らしていた。「幸於さん、勝機があるんでしょう? だからここに乗り込んだんじゃないんですか? こんな、かなり強引に。いい加減に言ってあげたらいいでしょう」

 幸於は桃子の目を見た。黒揚羽(くろあげは)の様な、光を吸い込む黒だった。同時に人を惹き付け、魅了する黒だった。吸い込まれる、と言ったら大袈裟だが、その真っ直ぐに向けられる瞳に、何となく及び腰になって、視線を外す。「フン、こっちだって順序だなんだといろいろあるんだよ。一応、試したり見極めたりと、必要な事をしてンだ」

「で、合格?」可愛らしく首を傾がせる桃子。

()くな。そうだな……一遍(いっぺん)コイツと二人(サシ)で話がしたい」と幸於は小春を指差す。

 眉を顰め警戒する成明。口を開かず手と表情で制す小春。

 小春と幸於は台所に移動。居間に取り残される子供達。

 居間。見知らぬ年上に取り囲まれる成明は、居心地悪そうにもじもじとしている。

 それに見かねた忍。「大丈夫だよ。心配しなくっても。あの人、そんなに悪い人ってわけじゃないから」と見当違いだとは分かっているが、声をかけ、隣に寄って、横座り。

 まるで借りてきた猫のように大人しい成明、忍を見上げる。益々第一印象と異なるその姿に、忍は苦笑。自然に手が伸びて、頭を撫でてしまった。その行動に、不思議そうに目を丸くする成明。嫌がると思ったが意外に受け入れてくれているので安心する忍。(ああ、なんだ、かわいい子供じゃん)と微笑ましく感じる。不図、成明はごろんと仰向けに寝転がり、忍の太腿の上の頭を乗せた。

〈意外〉。びっくりする幸次。首を傾げる文。無関心の桃子。

 肝心の忍。突然の行動にびっくりしたものの、悪い気はしない。成明は甘えるように忍の目を見つめる。どこにそこまで心を許す要素があったのだろうか甚だ疑問だが、元来可愛いもの好きの忍に大打撃(クリティカル・ヒット)。そんな疑問はあってない様なもの。

「ねえ、お姉ちゃん」成明の小さな声。

「え、何?」自分でも気付かぬうちに緊張しているのか、上ずった声の忍。

「この間会ったよね、『虚数空間』で……あの時、お姉ちゃんに酷いこと言っちゃったよね」

「え? あ、ああ……」忍は思い出す。化け物だなんだとか。

「あの時の事、謝んなきゃって思ってて。それでもなかなか出来なくって」

「あ、ああ……そうなのか……」

「うん、ごめんなさい」と、殊勝そうに、寝転がって膝枕されたままで。

「いいよ、気にしていない」と嘘。隠すように微笑んで。「あんただって、今日、ぼうっとしている所助けてくれてありがとうな。命の恩人じゃないか。謝ることなんて一つも無よ」

「あれは、茉莉香のせいだったし……お姉ちゃんの過失じゃ……」

「それでも。ありがとうな……〈成明君〉」と忍は成明の頭を撫でた。

 成明、目を丸くして、ぱちくり瞬き。不意に起き上がって、忍の頬にキス。

〈意外〉。驚嘆する幸次。眉を顰め首を傾げる文。ジト目の桃子。

 肝心の忍。突然の事にびっくりし頬を紅潮させるも、これまた悪い気はしない。成明は甘えるように忍の目を見つめている。元来可愛いもの好きの忍だが、流石にどうしてそこまで好かれる要素があったかは疑問がある。

「どど、どどどどうして?」感覚以上に慌てている自分の口に焦る忍。

「……嫌だった?」少し悲しげに首を傾げる成明。

「い、嫌じゃないぞ。決して。ただ、突然だったからな」年上の威厳を保とうと必死の忍。

「子供って、あんなことやっても怒られないんだなぁ」ぼそりと幸次。

「……お前が言う権利があるのだろうか」文、ぎろりと幸次を睨む。

「え?」身に覚えが無いとでも言いたげな幸次の表情。

「いや、何でもない。と、世の中の不公平を一人心の中で嘆く文であった」

「え?」理解できないとでも言いたげな幸次の表情。

 一人部屋の隅で、ちろちろとコップの中の氷を舐める桃子。

 成明、ふうっと息をついて。「そっか……ハル姉さんは、こうすると喜ぶから」

「……は? …………その、ハル姉さんとやらとは、どこまで行ったのかな?」

「ん? 一応、最後まで」平然と言い放つ成明。

「……」訪れる沈黙。(あのショタコンめが)心の中で揃う、四人の独白(モノローグ)


 薄暗い台所。部屋の中の明かりは消えていて、月と街灯のだけ光が差し込んで、照らす。

 そんなに悪い人ではない幸於と、ショタコン小春。流し台を背に二人で二杯目のアイスコーヒーを片手に黙って立っている。小春はひたすら幸於が口を開くのを待っている。その幸於はというと視線を逸らしてじっと何かを考えている。そしてコーヒーを一口。

「お前は結局、〈外〉と〈内〉の関係をどこまで知っている」やっと口を開く幸於。

「……『ジンム』の暴走を〈内〉に閉じ込めたって事は、分かっています」

「そうかい……〈外〉の奴らに〈観測〉される事の意味は考えた事あるか?」

「……一応。でも、どうなるかってことは、まったくわかりません」

「だろうな」そうして幸於は黙ってコーヒーを口に運ぶ。

「どうして、仲村先生は……」

「偽名だ。幸於と呼べ」

「そうですか……幸於さんは、どうして私を逃がそうと?」

「まだ決まったわけじゃねえ」

 小春の真っ直ぐな視線。「そう思えないんです。もう、覚悟を決めてしまった様な……」

「……単に、あいつらが他人の都合で振りまわされてンのを見ンのが嫌なだけだ。マ、都合よく育ってはくれなかった見てえだがな。いい気味だ」

「……どうして……」小春は、どうしてそんなにあの子達の事が? と言い掛けて、口を(つぐ)んだ。昔の大災害の時期、不自然な髪の色、ハッキング時に知り得た知識から、小春は理解していた。幸於がどういう存在かを。どうやって産まれさせられたかを。

「勘違いするな。俺は別にあいつらが同類だから好きって訳じゃねえ」とあけすけにばらしてしまう幸於。「むしろ好きか嫌いでいえば嫌いだ。あンな糞ガキども、気に入らねえ。ただ、もっと気に入らねえ奴らがいいようにしてンのがもっと気に入らねえだけだ」

「そう、なんですか……」小春はコーヒーを口へ運ぶ。また、沈黙。

 不図幸於が口を開く。「センサーの不具合はお前のせいだな?」

 小春の身体がぴくりと反応。黙って俯いて目を逸らす。怯えているようにもみえる。

「そうかい」その反応だけで理解。「『虚数空間』展開時の〈壁〉の様子を見ようと、誤動作を誘発させようとして、失敗したな? 結果、データを掻き乱すだけしか出来なかった。違うか?」

 小春は黙っている。が、その目には、明らかに焦りの色が見える。口以上に饒舌である。

「そうかい。センサーの不具合は単に警報だけじゃねえ。俺らの機能にも少なからず影響を及ぼす。この左手がそうだ」幸於はおもむろに左手を小春の首に伸ばし、締めた。

 苦しい。そんな気がしただけで、実際はまったく痛みも苦しみも感じなかった。弱弱しい力で締めつけられていて、むしろ触れられていると言った方が正しい。

「これが俺の限界だ。多分この先も大して変わらねえ。目を逸らすな、お(メエ)が変えたんだ」

 幸於の手が離される。同時に小春の身体が崩れ落ちる。涙が出る、呼吸が乱れる。

 幸於は屈んで顔を近付ける。「なァに、安心しろ。必ず〈壁〉の向こうに連れて行ってやる。勘違いしているかもしれねえが、俺はそんなお(メエ)が好きだ。そういう、何モノを犠牲にしてでも成明(アイツ)の為に成すっていうのは、共鳴する。お(メエ)は〈壁〉の向こうへ行くべきだ。そしてお前が世界を変えろ。あんなガキ共なんかにゃ無理だ。恐らくお前にしか出来ない。変えるならお前しかいない」

 半ば狂信的な笑みを浮かべる幸於を、小春は、怯え、恐怖の眼差しで見ていた。


 薄暗い台所。幸於と、小春の代わりに今は幸次。流し台を背に、二人でコーヒーを飲む。

「なんだかこんな風になっちゃいましたね」幸次、にっこりと笑って。

「まァ、そうだな。こんな状況だ」少し元気の無い幸於、虚空を見て独り言のように。

「……どうして、あの人たちを助けようって気になったんですか?」

 それには答えずに、「なあ、幸次。俺の事、どこまで知ってる?」と囁く様な声。

 幸次はコーヒーを口に運ぶ。「……一応、全部、です。性別の事、生まれの事」

「そうか……」俯く幸於。「なんていうか……いや、何でもない……」

「……僕はそれを大橋さんから聞きました。多分この先、知っておいた方がいいからって」

「……そうか……うん……」まるで断罪されているかのごとく項垂れる幸於。

 そんな幸於を前に、掛けるべき言葉を考える幸次。この元気の無さは、らしくないと思いつつも、むしろ本質の部分だとも思う。笑いたい時に笑う、泣きたい時に泣く。感情と表情が直結している。などという分析が今、どれだけ必要か。違うだろ、今すべきことは。

 幸次は咄嗟に思いついて行動が出来る忍の様なタイプでもないし、天然のコミュ力でごり押しする文の様なタイプでも、唯我独尊といつも泰然としている桃子の様なタイプでも無い。ひたすら考えて慎重に行動するしか出来ない。そこで、幸於をじっくりと観察。幸於は俯きながらも眦でちらちらと幸次の様子を窺っている。何故こんな真似をするのか? こんなこと、よく考えなくたって分かる。幸次は幸於の顔を覗き込む。目が合うと、どこか怯えたように逸らしてしまう。自分はこの人にとってどんな存在か? 出てくるのは、自惚れにも似た答え。自分に、この人は、何を、どうして欲しいのか。

「幸於さん……」そう言って幸次は幸於を前からひしと抱き締める。「いいんですよ、別に」

「ふあ……ッ!!」始め何が起こったか分からない風に驚き、目を見開いて、やがて顔を耳まで真っ赤に染めた。そして困り顔で顔を上げ目を見つめる。「えっと……あの、幸次?」

「別に、何だっていいですよ。何者だっていいんですよ。今まで気にしてこなかったんです、これからだって、なんも思いません」と微笑み、抱き締める力を強め、頭を撫でた。

「ふわぁぁぁぁ……ッ!!」幸於はくすぐったそうに体を震わせ、目を細め、口をだらしなく開け、湿った吐息を洩らし、腰を抜かしたように幸次に凭れかかり、両手で幸次の服を掴んだ。凭れかかった時、幸於の硬くなったものが幸次の腿に当たる。幸於はそれにはっと気付き、恥ずかしくなって離れようと画策するが、幸次がそれを許さない。抱きしめる強さをさらに強める。そして、幸於は諦めたように身体の力を抜き、目を瞑った。

 暫くの間、幸次はそんな幸於をひたすら抱き締めて撫でていた。

「幸次……もう、大丈夫」と幸於の声。その調子からは先程までの生気の無さは消えていた。幸次は幸於を抱きしめる力を緩めた。と同時に、幸於は幸次に飛びついて抱きついて、その口にキス。そして子供っぽい満面の笑み。「ありがと、幸次!!」


 ――敵襲の際、『虚数空間』にて公務執行妨害の『駒』(男性・子供)を捕捉。この『駒』は、女性科学党で〈造られた〉ものであるが故に、こちらからの攻撃は不可。相手側も、甚大な被害の発生を恐れて、攻撃をしてこなかった。そして、隊員の必死の説得により投降する。その際、本部への連絡制限も約束する。今まで連絡が出来なかったのは、これ故である。そして今日、同行の女性科学党の元・科学技術者(女性)と共に本部に連行していたが、途中、相手『駒』が急に暴れ出し、脱走。その際一名の『駒』、河東文が負傷。只今元科学技術者と共に逃亡中の二人を四名の『駒』が全力を挙げて捜索中――

「大橋さん、見付けました、よく目立つ青い髪!!」通信、幸次の声。

 大橋、指令室(コントロール・ルーム)。モニターに映し出される、『桂馬』『角将』『麒麟』『水牛』の『駒』。

「よし、全員幸次のもとへ走れ。幸次、深追いはするな、四人揃った所で確保しろ」

「「「「了解」」」」全員の通信。

 モニターの『桂馬』の所に『角将』『麒麟』『水牛』が集まる。

 その時、ピコンとモニターに映し出された新たな『駒』、『青龍』の字。

 犬山市。ウーウーとけたたましいサイレン。人は外にまったくいない。

 忍の声。「大橋さん、例の子供、姿を現しました!! 〈国境〉に向け走っています!!」

「こちらも捕捉、昨日と同じ『青龍』の『駒』。何が目的か分からんが、兎に角追うんだ!!」

〈国境〉付近、昨日と同じ青く長い炎の様な光を纏う成明。〈壁〉を背に宙に浮いている。

 建物の陰に隠れる小春を桃子が発見。「女性科学党の元・科学技術者の女、いました」

「よし、どちらも追え」「大橋さん!!」「忍、どうした!?」「少年が建物を破壊!!」

 小春を助けに飛んだ成明は忍を振り切って、小春の隠れる工事中の建物に突進。がたんがたんと音を立てて崩れ落ちる鉄骨、ばらばらと吹き飛ばされる足場、巻き上がる粉塵。

「河東建設の、建設中のビルに追突しましたが、無人の為、怪我人はいない模様」と桃子。

「それはよかった!! 運がいい!!」大仰に大きい大橋の声。

 幸於の声。「大橋、人のいる建物を破壊されては困る。怪我人が出てからでは遅い。『虚数空間』の展開を要請する。せめて『駒』だけでもあの空間に閉じ込めるんだ!!」

「ああ、既に準備済みだ。犬山市、〈国境〉近くの『虚数空間』展開まで、残り七分!!」

「そいつはよかった!! 準備が良くて助かる」大袈裟に抑揚のある幸於の声。

 指令室。突然、モニターの『青龍』の文字が消える。「どうした!? 何が起こった!?」

 幸於の通信。「今、相手『駒』が身に纏う〈青い炎〉を消した!! 推測だが、『駒』の性質・機能を一時的に消したのだと思われる。だが目視では捉えている、引き続き、追う!!」

 小春の手を引いて建物の間を縫って逃げる成明。小春の肩に掛けてあるバッグが揺れる。

 ぴょんぴょんと身軽に跳躍しながら追う幸次。「そっちは〈壁〉だ、追い詰めたぞ!!」

 成明と小春はやがて〈壁〉間近の、コンクリートを敷き詰めた、立ち入り禁止の区画へと入る。そして成明は小春と距離を取り、幸次に向き合う。「来い、相手をしてやる」

 大橋からの通信。「『虚数空間』展開まで、残り五分!! 深追いはするな!!」

 幸次の後ろから幸於らが到着。と同時にまた大橋からの通信。「後ろから『駒』が接近中だ!! 『(げん)()』『朱雀(すざく)』『白虎(びゃっこ)』だ!! まだ遠いが……三分以内には到着する模様!!」

 目を合わせる忍と幸次。どうする? パチンと通信の青の(ボタン)を解除する幸於。「壁は俺が何とかする。二人はあいつらの足を止めてくれ」ひそひそと三人に伝える。

 こくりと頷く三人。壁を背に、迎え撃つ態勢。と同時に三人とも通信を切る。

 緑髪の少女、黒い炎を纏う『駒』『玄武』。迎え討つは黒い布に覆われた桃子の『水牛』。「桃子ちゃん、悪いけど退いてくれないかなァ」緑の、落ち着いた、しかしドスの利いた声。這うように地を疾走する。それに対し、桃子は優雅に五メートルほど跳び上がり、両手両足を真っ直ぐに伸ばすと、黒い布が蜘蛛の巣のように縦横無尽に張り巡らされ、緑の行く手が阻まれる。次に桃子は緑に向かって手を伸ばす。するとその手から黒い布が伸び、緑の手に絡まる。

「しゃらくせえ!!」疾走したままぶちりとそれを引き千切る。

「あれ、僕と友達になりたいんじゃなかったの?」と桃子にしては珍しい、にやりとした笑いが、包まれた布の合間から見える。

「そういう脅しっぽい関係は嫌いさ!!」地面を蹴って桃子に飛びつく。

「気が合うね、僕もそうだよ」桃子の腕の黒い布が途端にしゅるしゅると縮んで、一瞬にして緑の斜め後ろへと移動。

「こら、待て!!」緑は追う、本来の目的を一瞬で忘れて。

「ハハハハ、友達になりたいのなら、追ってきなよ」楽しそうな桃子。


「桃子ちゃんが楽しそうでなによりだよ。毎回、戦闘中のあのハイな感じはどうしてなんだ」と、桜色の髪の少女を前に、メタリックな翼を広げ飛翔する忍は一人ごつ。

「どいて」小さい声で囁く、長い癖っ毛の少女。

「まァ、私もあんまり気は乗らないんだけどね」手を腰に当てる忍。

「なら、僕を通して」少女を纏う赤い炎が、鳥の翼のように広がった。

「僕かー。桃子も昔はそうだったんだよな。狙ってるだの媚びてるだのと周りからねちねち言われて矯正したんだっけなぁ。つらかったろうに。あの時私は何もできなかった」懐かしむ様な口調の忍。

「どいてって言ってるでしょ!!」少女の甲高い怒号、赤い炎の翼をはためかせ、突進する。

「ま、なるようになるか」正面から受け止める忍。


「あの子達、攻撃はするなって言ってあるのに……!!」幸次を前にして、恨めしそうに歯を食いしばる茉莉香。

「えーっと、まあまあ、きっとあの子達も必死なんじゃないかな」そんな茉莉香を、何故か宥める幸次。

 きッと幸次を睨みつけて「あなた達、何で成明に肩入れする訳!? あなた達には関係の無い筈でしょう!!」と責める。

「うーん……なんていうかな、本人の意思を尊重というか――」

「何が本人の意思よ!! 子供が勝手な真似したら止めてやるのが、大人っていうものでしょう!?」幸次の言葉を遮って怒鳴る。

「まあ、その通りだね」と幸次は苦笑しつつも、「でも、大人の勝手な思惑から守るっていうのも、それはそれで筋は通っているさ」

「そんなの……そんなの詭弁よ!! じゃあ私達はどうすればいいっていうの!?」茉莉香の震える声で紡ぐ、弱音。幸次は黙って聞いている。茉莉香は続ける。「あの子に置いていかれて、私達は、三人だけで!! ねえ、教えてよ、大人だから分かるんでしょう? あなただって、仲間の誰かが逃げたいだなんて言ったら、どうするの? 引き留めるでしょう? 自分だけ逃げるなんて言われたら、困るでしょう? 迷惑でしょう? 嫌でしょう!!」

 目には涙を湛えて、必死の説得。幸次は不図考える。この子の気持ちは痛いほど分かる。この子の悩みは、きっと自分が悩んでいた事とおんなじことだ。

 ――逃げる事は大切なことだ。逃げる事は大事な権利だ。その逃げるという判断を、否定は出来ない。ただ、逃げる事が正しい事だと言われると、悩む。必死にここを守る自分が馬鹿らしくなる、食い縛ってここに留まっている自分を、否定されているようで苦しい。

 しかし、――と幸次は口を開き、「確かに、今誰かに逃げるって言われたら、困るし、迷惑だし、嫌だ。それは紛れもない事実だよ。引き留めるかもしれない。……でも、最終的にはその判断を尊重すると思う。正解も間違えも無いんだよ、これには。議論をしたってどうにもならない。どちらを選ぶかって、結局本人が決めるしかないんだよ。だから、――僕は、留まるという判断と同じくらい、逃げるという判断を尊重する。君の判断と同じくらい、彼の判断を尊重する。そして、これは彼自身の事だから、彼の判断を採用する。これにも正誤は無い」

 きっぱりと、自分でも驚くほど淀みなく言葉が口から吐き出された。それを大人しく聞いて、俯く茉莉香。……しかし、ぎゅっと拳を作ると、真っ白な炎を纏う。

「お、い、え、あ、け、結局やるんだ」先程までの姿が嘘のように、しどろもどろの幸次。

「当たり前でしょう。私は私の判断を採用するわ」平気な顔で眉を吊り上げ、構える茉莉香。


 パチンと通信の釦を入れる幸於。それと同時に聞こえる大橋の声。「通信の調子が悪いが、幸於、聞こえているか!? 空間展開まで残り三十秒だ!!」

「分かった!! 空間展開まで残り三十秒だな!?」幸於の、成明に届く程大きい確認の声。

 二人でアイコンタクト。成明、大声で「さあ、決着をつけよう!! 本気で行くぞ!!」

 幸於は手元の時計でタイミングを見計らって、「『成る』!! 『(りん)()』!!」

 続いて成明は目を見開いて、「『成る』!! 『(しん)(りゅう)』!!」

 同時に、空間全体がぐにゃりとひずむ。

 幸於は持っている大剣を地面へと投げ捨てる。大剣は地面に刺さり、青白く光り、唸りを上げて、溶解したかと思うと、みるみるうちに巨大なドロドロの塊になり、やがて形作られ、甲殻類を思わせるような質感・形状の、四足の、頭には立派な一本の角を生やした、そして右前足だけが異常に大きい、全身真っ青な化け物が生まれ出た。幸於は降りて、すたっとその背に仁王立ちする。

 成明は歯を食いしばり、前屈みになりながら、全身に力を入れる。すると身体から(ほとばし)る青色だった炎は、大気を震わせて、その色を金色に変え、巨大で美しい〈龍〉を描いた。

 空間が更にひずむ。『虚数空間』の展開である。……が、なかなか形作られない。

 指令室、男の声。「システムに異常、『虚数空間』がなかなか展開できません!! 二騎の強力な『駒』が『成った』影響による電力不足と……何ものかによるクラッキング攻撃!!」

「何!?」大橋、目を見開いて大仰に叫ぶ。

「今すぐクラッキングの追跡を――」「ま、待て!! そんな事は後だ!! 今は目の前の事態に全力を注げ!!」男の言葉を、慌てる様に遮って指示をする大橋。

 アパートの一室、五台のパソコン、十台のモニターを前にカタカタッターンと、目にもとまらぬ速さでキーボードを汗水垂らして打ち続ける、負傷した筈の文。目に隈を湛えながら、「どぉおおおおお!! いかんいかんいかんいかんいかん!! 用意していたファイルだけじゃ、ぜんっぜん対処できぬぁい!! 間に合え間に合え間に合え!!!」と悪戦苦闘。

 大橋の声。「幸於、聞こえるな!? 『虚数空間』展開まであと五分はかかる!!」

「分かった!! あと五分だな!!」矢張り大声の幸於。

 頷く成明。

 そして、二人同時に、

「「いくぞおおおおおおおおおおおお!!」」

 ドゴオォォォォォォォォオン!!!

 爆音。

 幸於の呼び出した『霖鬼』は巨大な右腕で、成明の『神龍』は頭から、壁に激突。

 閃光。

 太陽の光の如く明るく照らし、不意を突かれた『駒』達は目を覆って、戦闘を中断。

 バリバリバリバリと雷鳴の如き轟音が轟く。

 目を細め幸於は〈壁〉を見る。

 肝心の〈壁〉は……小さな直径三十センチメートル大の穴が開いているだけ。

 だが二人は攻撃を止めない。ひたすら押し続ける。同時に〈壁〉に押し返されてもいる。

 幸於+成明対〈壁〉のおし合いへし合い。また、修復機能も不十分であるが機能していて、〈壁〉の穴は広がりと縮まりを繰り返している。

「幸於、『虚数空間』完全展開まで、後三十秒だ!!」大橋から、速くしろのメッセージ。

「分かっている!!」幸於の必死の応答。通信を切る。全神経全精力を〈壁〉の破壊に注ぐ。

「うわぁ!!」成明が〈壁〉に吹き飛ばされた。

 幸於一人で壁に相対す。途端に〈壁〉の穴は直径三センチ大に早変わり。

「く……ッ!!」幸於は右腕を前に突き出している。その腕がズキズキと痛む。苦悶の表情。

 幸次と忍。「「『成る』!!!」」「『金将』!!」「『麒麟』!!」

 機転を利かせ『成り』、消費電力を上げる二人。桃子は現実世界の街中で『成る』事は出来ない。ひたすら祈るしかない。

「ふおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおお!!!」がたがたと半狂乱でキーを叩く文。

 その甲斐あって、〈壁〉の穴が少しずつだが大きさを増す。それでも、先程と同じ直径三十センチメートル大。

 歯を食いしばる幸於。「負けられっかよゴルァ!!!」威勢のいい声。

 しかし裏腹に、右腕は悲鳴を上げている。血管がぶちりと切れ、血が噴き出す。服を真っ赤に染める。汗が全身から噴き出す。

「さ、幸於さん……」そんな光景を、目を細め、涙を溜めて見続ける小春。小春の距離からでは真っ赤に染まる服も歯を食いしばる表情も見えない筈なのに、涙が勝手に出る。

 そんな小春を、ちらりと眦で捉える幸於。そんな表情分からない筈なのに、安心させるようにニヤリと笑う。「へッ、威勢よく〈壁〉の向こうに連れて行ってやるなんてほざいたクセに、ざまァねえぜ。……でもよ、お(メエ)も大それたこと計画した割に、弱気じゃねえか?」

 そして、ぎゅっと歯を食いしばり、拳を握り、力一杯腕を伸ばす。

「くれてやるよ、この両腕をな!!!」

〈壁〉の悲鳴の如き轟音が響く中、その声は、確かに小春のもとに届いた。

「うおぉぉぉぉぉりゃあああああああああああああ!!!」

 ドゴオォォォォォォォォオン!!!

 天を、大地を劈く様な、二度目の爆音。

〈壁〉の悲鳴も、放っていた光も消えた。後に残った、ぽっかりと大きな穴。

 街中に木霊する〈壁〉の断末魔。

「やっ……た…………」『霖鬼』が消え、地に落ちる幸於。すんでの所で受け止める成明。

 指令室、男の声。「〈国境〉の〈壁〉大破!! 修復に時間が掛る上、『虚数空間』展開は不可能な状況です!!」

「良し!! じゃなかった、えっと、兎に角空間展開は中止!!」歓喜をかくしきれない大橋。

「……勝負、あったようね」茉莉香がぽつりと零す。

「……みたいだな」全身ぼろぼろで、肩で息をしている幸次。顔は腫れ、全身から血が出て、左腕は折れて、だらんと垂れている。正に満身創痍。「会いに行かなくってもいい?」

「何を言っているのよ」きつい視線を投げかける。「そんな事、出来る訳ないでしょう」

「でもさー」

「でもも何もないわよ。止めといて今さら何よ。……次会う時は、こんなほのぼのじゃ済まないわよ」

「えー、今の僕、ぼろ雑巾なんですけど……」

 茉莉香は、フンとそっぽを向いて、大跳躍して気配を消した。

 幸次は苦笑いを浮かべ、ぴょんぴょんと跳んで幸於のもとに急ぐ。

「うわ、何だその顔!!  ぼろ雑巾かよ!!」途中、空中で合流した忍が翼をはためかせる。

「え、無傷!?」びっくりした途端に口の中が痛んだ。どうやら切れているようだ。

 その言葉の通り、忍には傷一つない。

「まァ、手加減してくれたんだろうよ。人相手となるとな」と、どこか感慨深げ。

「えー……」とそのまま地に降りる。すると地を走る桃子に出会う。

「どうしたんですか?  ぼろ雑巾じゃないですか」黒い布の眉間のあたりに皺を作る。

「だから、なんで無傷? 僕だけこんなんなの?」

「能力の違いじゃないですかね。僕は指一本触れさせませんでしたよ」桃子は不敵ににやりと笑う。

 やがて三人は同時に幸於のもとに着く。成明と小春も一緒にいる。

「幸於さん、その怪我!!」幸次は変身を解除して駆け寄る。

 幸於の右腕は、押し潰したようにぼろぼろで、焼け焦げた様な跡もある。――恐らく、治す事は出来ない。それでも気丈に振舞う。「なァに、心配すンな。こンなもン」

 成明は抱いている幸於を幸次に託す。

 その瞬間、成明が感じた不思議な感覚。幸於を離すと同時に、何か、しがらみとかごちゃごちゃとかが、全部抜け去って、この幸次に手渡した様な感覚。こんな、殆ど話した事が無い様な人に。幸次は、そんな戸惑っておろおろする成明に向かって、

「いってらっしゃい」

 微笑んで、力強い一言。何かに引き寄せられるようにしっかりと立ち上がる成明。小春を見る。小春は未だに怪我をしている幸於に対しておろおろと。

 幸於、ジト目で。「何やってんだ。さっさと行け。〈壁〉もどんどん修復されてくぞ」

 その言葉の通り、大きな穴だが、端の方から段々と修復されていく。

「でも、でも……っ!!」

「でもじゃねーよ、ヴァーカ。さっさと行け、俺らの苦労をふいにする気か、行け。……そして、振り向くな。これは世界中にある(まじな)いだ。いいか、俺らが見えなくなるまで、絶対に振り向くな。心が残る。同時に失う」力強く念を押す幸於。

「……はい」小春は成明を見る。成明は準備万端といった風情で小春に手を伸ばす。立ち上がり、その手を取る。そして、〈愛知国〉に背を向ける。

「……さようなら」小春の声。

「ああ」疲れ切った幸於の声。

 小春と成明、二人は手を繋いでこの国を後にした。


 河東ビルのてっぺんで見送る、三色の頭。

「ぐすん……成明君、行っちゃった」膝を抱え涙を流す桜色。

 その頭をそっと優しく撫でて、「なァに、いつかまた会えるさ」と緑色。

「そんな適当なこと言って」黄色の非難。眉間に皺を寄せ、キッと緑色を睨む。

「いや、適当なんかじゃないさ。アイツは、帰ってくる。いつになるか分からないけど、絶対に、必ず戻ってくる。確信している」

「何の為に……何を根拠に言っているのよ……」

「そんなもんないさ。でも必ず戻ってくる。ハルと共に」真面目な顔で力強く断言する緑。

 黄色は眉間に皺を寄せつつも大して悲しんでいない自分に気付いた。緑と同様の事を信じて疑っていなかった。――あの子は必ず帰ってくる。

〈壁〉の穴を見る。穴はどんどん修復されて、最早一メートル程の大きさになっていた。

 既に成明らの姿も、幸於らの姿も消えていた。

「……どうなるかしらね」

 茉莉香は一人呟く。強い風が通り、三人の色とりどりの髪を靡かせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ