一
今は、ずっと先の未来。科学の進歩により食糧問題、エネルギー問題が解消された未来。世界が到った先は、所謂『村化』だった。以下はSF作家である佐々木雄二氏がこの百三十年前にとある科学討論番組で語った言葉である。
「現在既に特殊時空量子、所謂ジャバウォック弦子から爆発的なエネルギーを取り出すヴォーパル技術は確立しつつあります。この技術により取り出せるエネルギーの総量は、今現在の世界の消費電力の五倍で計算しても、十万年分程にもなるという。つまり人類は半永久の発電システムを手に入れつつあるのです。そうなればありとあらゆる問題が解決されるでしょう。石油その他のエネルギー資源を巡る悲劇的な争い、不毛な国際的干渉は無くなり、工業農業により食糧問題さえも解決。世界は豊かになり医療技術もますます進歩し多くの人々が苦しみから解放されます。さて皆さんはこの先世界はどういう風になると思いますか。私は各都市が『村化』すると思います。丁度、各々の都市が引きこもりになるように。(ここで論客、観客から笑いが漏れる。それを受け佐々木氏本人も笑う)確かに賢明な皆さんにはおかしく聞こえるかもしれません。しかしですよ。今現在シリコンからレアメタルへの連金技術過程で問題視されているのはその時に消費する甚大な電力です。逆に言えば電力の問題さえ解決してしまえば希少金属をわざわざ頭を下げて他国にねだらなくても良い。ヴォーパル技術を含めたあらゆる技術が世界に行き渡れば全ての途上国は自立できる。技術と共にもし文化が行き渡れば……もし世界が一様な様相を示すならば、別に外国との面倒な交渉など必要なくなるわけです。中には半ば強行的に鎖国してしまう都市なども現れるかもしれませんよ。……まあ、何千年も先の事でしょうけどね。(佐々木氏が笑う。固唾を飲んでいた聴衆もそれを見て破顔)」
それ程の時間はかからなかった。当時この発言はネット上で(佐々木氏の意図とは関係なく)一部保守層に絶賛され、グローバル団体やロハスの連中から必要以上に糾弾された。だが人口に膾炙する程には到らなかった。ただの夢物語としか受け取られなかった。
しかし、このヴォーパル技術は夢物語さえも超える技術だったのである。
ここ、首都を名古屋市とする〈愛知国〉は百年前から完全な鎖国状態である。その名古屋市の北、岐阜との国境近くに位置する犬山市がこの物語の舞台である。
小高い丘の上のうどん屋。瓦屋根、焼杉板で作られた黒い壁、古めかしい日本家屋のお手本のような外観で、遠慮がちな看板には〈うどん・香屋〉とだけ書かれている。突きだした長い廂は初夏の日差しから屋内を涼に保っている。店内にカウンターは無く、大小のばらけた大きさの卓が六つほど整列されているだけである。厨房はやや奥まっていて席からは白髪頭に三角巾を縛った主人が時々見える。六つの机の内、入り口近くの小さな机に店員らしき二十代前半程の、ジーパンにエプロンという出で立ちで黒ぶちの眼鏡をかけた化粧気の無い黒髪のそばかす女が、勿体らしく寄りかかっている。
店の時計は三時近くを差している。それ故か客は四人の姿が見えるばかりである。いや、この店の規模からすればこの時間で客が在るのは滅多なことかもしれない。
学校の制服らしきものを着た男が二人と女が二人。その内の、丸顔で小太りで大柄の男が汗をだらだらと流しながら椀を両手で持って残りの汁をすすっている。それを飲み干すとダンッと勢いよく机に叩きつけた。「御馳走さま! あー、旨かった! しかし足りねえな、やっぱり二つは欲しかったわ~!」満面の笑みでそんな不満をこぼした。
それを聞いてもう一人の男がうどんをすするのを止め苦笑しながら口を開く。「一杯で十分ですよ。〈文〉さん、さっき菓子パン食べてたじゃないですか」茶色いサラサラの髪で、気を使っているのか眉は細く良く整っていて、その文と呼ばれた男とは対照的に顎の線が細く、しゅっとしていて優しそうな目元からも如何にももてそうな風貌である。物腰は柔らかで声は少しだけ低く、伸びやかかつ澄んでいてよく聞こえやすい。「ていうか文さん、始めから大を頼めば良かったのに」
「1+1。2杯だ」文は指を二本立てて茶髪に見せた。
「いや、訳分かりません。うどん屋だからって態々(わざわざ)そのネタで勝負しなくっても良いでしょうが」と茶髪は呆れたように文から視線を外した。
「お前なら分かってくれると思っての所業だ。実の所、結構お腹いっぱいなのだ」
「知らんがな」
「……しかし、ネタ振ったのそっちな気もするけどな」
「文兄、行儀悪い。食事中にごちゃごちゃうるさい」女の子が眉をひそめながらうどんから文に視線を変えた。他のより小さい椀に盛られたうどんはまだ半分ほど残っている。女の子の体も同じように小さい。声も小さく微かにかすれている。墨色の髪は長く丁寧に梳られた様に艶やかで美しい。目は真っ黒で大きく、二重瞼で、で憂いを多分に含んでいる。
「いやあ〈桃子〉、飯っていうのは多少騒がしく食った方が旨いというもんだ。行儀よく清ましているより気持ちが良いぞ?」
「そんなの人それぞれ。騒ぐ言い訳にならない。私は静かな方が美味しい。うるさいの嫌」
「そう言っても、なあ、〈幸次〉」
「え、あっと……」茶髪の、幸次と呼ばれたその男は突然振られた話題の返事に窮した。桃子の白い肌に、垂れた目元についつい見惚れて話が入っていなかったのだ。この河東文と河東桃子は従兄妹の関係にある。なのだから多少は似ている所もあると考えるが、どう見回したってありはしない。文は大柄でどこか威圧するような風体で、言葉も粗暴で見た目通り。そして話す事には中身がない。対して桃子は山林の奥にひっそりと咲く一輪の野菊の如くひっそりと美しい。言葉も見た目通りでぽつりぽつりと遠慮がちだが、相手を刺す様な鋭さがある、毒がある。
などと考えているうちに間ができた。話を振った桃子は特に気に留めることなくまたうどんをすすった。幸次も所在なくうどんをすすった。文が笑った。
幸次はもう一人の女を見た。栗毛色のボブヘアーで、立つとすらっと縦に長く幸次よりも背は高く、気の強そうで自己主張の激しい釣り目も、整った体の線もともに美しい。桃子とこの女、忍には衆目の視線を一点に集める美しさがある。が、桃子の美しさは隠していても溢れ出てしまう、覗き見たくなるような美しさで、忍は見上げるような美しさである。その美しさの主は早々(はやばや)と平らげたうどんの椀を横に避けて、机に突っ伏して寝ている。美しさにも天気と同様陰りがあるのである。
その時、大きな警報が外から。電子音が四人のポケットから鳴り響いた。
「よっしゃ来た! 予報通り! 行くぞてめえらぁ!!」寝ていた栗毛ボブが勢いよく立ち上がり男勝りの大声で叫ぶ。無遠慮な警報よりも、けたたましい電子音よりもそちらに驚いて冷静な桃子には珍しく体がびくっと反応。珍しいものを見た事が嬉しくて幸次は一人笑みを浮かべる。
「はいよ!」と巨漢もそれに続いて元気よく立ち上がる。
茶髪と野菊が立ち上がる頃には既に二人は店の出口近くまで走っていた。
しかし、「文坊、〈忍〉」と女性にしては低く重い声が二人の耳に入る。店の出口付近で座っていた眼鏡そばかす女がのっそりと立ち上がる。栗毛ボブと巨漢は気圧されて先程の威勢は吹き飛んでピタッと止まる。「お代」ゆったりと、しかし重々しい声である。
「えっと〈弘恵〉さん。あの、急いでるんですけど」先ほどまで快活だった文が丁寧にそう返した。その間に桃子と幸次が忍の後ろに追い付く。
「いや、付けといてくれると嬉しいなーって」文は依然気圧されたままたじろいでいる。
「どんだけたまってると思ってんの? もう一カ月は払ってないよ」弘恵も変わらない。
それを聞いて忍が負けじと前に出て、「いいじゃん、いいじゃん! 今から国救って来るんだし、急いでるんだし! それに何で桃子と幸次には言わないんだよ! 不公平じゃん!」ビシッと二人を指差して不平をまくし立てた。
しかし、依然弘恵は変わらぬ調子でゆっくり口を開き、「桃子ちゃんは、あんたたちと違っていつもちゃんと払ってるの。……それに幸君は」と言った後、幸次の胸元をむんずと掴む。幸次と弘恵で身長は同程度である。幸次が何事かと考える猶予も与えず目を瞑り強引に口付けた。幸次の頬が真っ赤に染まる。軽い口付けですぐに離される。「この通り特別扱いだから」狼狽える幸次を尻目に飄々(ひょうひょう)と言い放つ。
「えっと、あの、流石に人前では……」幸次は他の面々を見る。文はきょとんと眼を丸くしている。桃子は何をやっているんだという風に呆れている。対して忍は……意外にも目を見開いて驚いている。やがて頬も真っ赤に染まって恥ずかしそうに目を逸らす。
こういうのに耐性が無いのか、と普段の闊達な忍を顧みて、幸次は意外に思う。
「何よ」そんな不平が弘恵からこぼれたのでそちらに視線を戻す。ジトッとした目で幸次をずっと見つめている。すぐに、先ほどの忍と桃子への視線が原因だと思い当たる。
いや確かに心の中で褒めまくったけど一番は弘恵さんですから、何ていうことは言えずにドギマギしていた。
「ああもう、分かった! 今度来た時絶対に払うから!」忍が助け船を出すかのように(勿論そんな意図はないだろうが)大声でその場を収めた。
四人は〈香屋〉の外へ出た。出ると文が付けている銀色の一際目立つ太い腕輪の、三つあるうちの青い小さな釦を押した。四人とも同じ腕輪を装着している。よく見るとその銀の腕輪から枝が生えて腕に食い込んでいるように見える。
「遅い。何をやっていた」重く低い大きな声が四人の耳に響いた。
四人が目を瞑って痛そうに頭を押さえる。
「ちょっと〈大橋〉さん、骨伝導でちゃんと聞こえますから。あんまり大きな声を出さないでください」腕輪に向かって文が避難の声を上げる。
「ふん。全く。予報で警戒水準が3程度だからと言って舐めてかかっていないか。予想通りにいくとは限らんのだぞ。気を張れ」
「はい。分かってますから。で、実際の規模は?」
「確認できる敵兵は『雀歩』五騎、『盲犬』十二騎」
「……水準2程度ですね」と文は拍子抜け。
「……そうだろうと気を抜くな。命がけに変わりはない」大橋はそれでも説得。
「了解。住民は?」今度は忍が腕輪に声をかけた。
「全て避難は完了している。市内の全住宅の防護壁も機能を確認。だがそれも絶対ではない。虚数空間の形成まであと一分程度――」
「空間のゆがみを目視で確認。市内都市部上空」腕輪の向こうの大橋の言葉が終わらぬうちに桃子が口を開く。いつの間にかガードレールに寄り添い崖から地上を見下げていた。
四人が居る丘からは均質な屋根が綺麗に立ち並ぶ市街地が一望でき、そのはるか上空に、青く美しい空に似つかわしくない黒、茶、紫、鼠、様々な油絵具をぐにゃぐにゃと数回混ぜたような染みが点々と描かれている。
「糞! こちらも確認。予想とずれた。虚数空間の形成まで七……いや、十分程度かかる。直ちに迎撃に向かってくれ、被害は最小限に!」怒気のある大橋の声。
「了解!」四人同時に返信。声から緊張感が伝わる。
忍の目元がキッと鋭くなる。「とにかく、私の『麒麟』と幸次の『桂馬』は崖からとぶ。文の『香車』と桃子の『水牛』もすぐに坂を下って追え」
「分かりました」幸次が静かに返事。腕輪の釦の内の赤を押す。そして息を吸って、吐く。全身がぽうっと妖しく光る。構わずに膝を曲げ、跳ぶ。風を全身に受ける。ぐんぐんと高度を上げる。雲に届きそうなほどに。……実際には遠く届かない。分かっている。こうして空を行く度にそんなことを思ってしまう。下を見ると街の家々が小さく見える。着地点を探し、定める。突然「幸次、後ろ!」という忍の声が聞こえた。忍は幸次よりずっと上を飛翔。その背中には銀色に輝く鉄のような質感の翼が生えていた。ハッと気付いて言われた方を振り向くと、そこには翼を広げ幸次を狙う全長五メートル程の、白と黒の金属質の流線型の物体があった。
「『燕羽』!?」幸次の吃驚の声。その物体は首をもたげると、先をにゅっと尖らせ幸次に向かう。「くっ!」と手を開き、力を込めると空間が歪みナイフが瞬時に形成されその手に確りと握らる。それでもって敵の攻撃を受け止める。
横から『燕羽』に向かって忍が全身を金色に輝かせながら突進。直径一メートル程の穴がぽっかり空いた。かと思うとバラバラに砕け散り地面へとひらひらと落ちてゆく。幸次も同様に地上へ迫ってゆく。やばい、と思う頃には両足を住宅の屋根の上に勢いよくドシンと着いていた。屋根からミシッと多少の音がしたがどうやら何ともない。ひとまず安心。
忍はそれを上空から見て保護者らしい態度で安心。それも束の間、新たな空間のゆがみが点々と形作られそこから先程と同じ形の物体が三つほど這い出て来る。「ちょっと大橋さん、どうなってんの!」忍が腕輪に向かって叫ぶ。
「『燕羽』形六騎の追撃を確認。虚数空間展開まであと七分」脳内に響く事務的な大橋の声。
「一騎撃墜、残り五騎。言い訳をどーぞ」
「……だから予測はあてにならんと日頃言っているだろうが」
「厚い手当を所望しまーす、どーぞ」
「分かっている。今回は警戒水準4程度と計算する」
「ったく。後手後手にまわりやがって。現場に血が流れたらどうすんだよ」
「……私ではどうする事も出来ん。お前たちの無傷を所望する」
「……はいはい、ご立派なこって」忍はそう言って腕輪から口を離した。「だから恨めないんだ。もっと嫌な人だったらよかったのに」
一旦忍は幸次のいる住宅の屋根へゆっくりと着地して翼を畳んだ。そこへ丁度地面を飛ぶように走る文の姿が見えた、かと思うと既に二人の立つ住宅のすぐ隣まで来ていた。左手には五メートルもあろうかという槍をかついでいる。屋根の上の二人に向かってにっと快活な笑顔を見せた。「おう、幸次! あんまり無茶なのは感心しねえな!」
「文さん、状況見てくださいって。……桃子ちゃんは?」
「すぐ来るだろうさ」忍が空を見上げる。
「上空の奴らは私に任せろ。二人は『盲犬』と『雀歩』を」忍の言葉が終わらぬうちに、
「よっしゃあ! うらうらうらうらあああああ!!」文は槍を構えて敵陣へ突っ込んで行く。
「えっとじゃあ僕も行きます。忍さんもお気をつけて」幸次は忍の機嫌を窺いながら苦笑。
「あのボケが」忍は一言毒づいてから翼をいっぱいに広げ飛翔。
幸次は小さくとび跳ねながら屋根を伝って敵陣へと向かった。
文が住宅街を、槍を突き出して突進する。その先でガシャンガシャンと機械的な足音がする。見えた。『盲犬』と呼ばれるものである。四足の、その名の通り犬のような形だが、全長悠に五メートルはあり、つるつると金属のように光る赤い表面に、顔は目も鼻もなく大きな口と鋭い牙だけがある。それがうようよと三騎。向こうも文に気付き一斉に顔を向ける。が既にその内の一騎に槍をつき立てていた。血など出ない。内臓も無い。動く為の機関もその内に有していないかのよう。ただの鉄の塊のような感触である。だが実際に動きまわり這いずり回り人を襲う。槍を通されたそれはぴくんぴくんと痙攣してすぐにぐったりとしてばらばらと砕けた。ニヤッと不気味な笑いを文が浮かべる。
「成る! 『白駒』!」と叫ぶと全身が真っ白の甲冑に包まれ、左手にも長槍が現れた。その左右に握った槍で残り二騎の『盲犬』の胴体に早々(はやばや)と穴を穿った。先ほどと同様にその二騎もばらばらに砕けた。その直後、文の斜め後ろに硝子のような透明で七色の翼をもった、全長三メートルほどの巨鳥が降り立ち大口を開けて襲いかかった。『雀歩』である。文は気付かない。ガンッと金属を無理矢理切り裂くような音がする。どしんとその『雀歩』の首が落ちた。幸次が上空から狙いを付けてナイフで切り落としたのである。幸次は血を払うようにピッとナイフを振る。相手の破片がキラキラと舞う。
「文さん、ちゃんと周りを見て下さ――」「うらうらうらうらうらあああ!!」「おおう、もう……」文は何事にも気付かなかったように新たな戦場へと突撃していった。
四人に大橋から新たな通信が入った。「後一分で虚数空間展開。展開後、通信は一切遮断される。一旦戦況報告を提示して欲しい」
「こちら幸次。『盲犬』三騎、『雀歩』一騎、撃墜」「こちら忍。『燕羽』二騎駆逐」
駆逐って。物騒な物言いに幸次は突っ込もうとしたが飲み込む。『燕羽』は地上の敵より強い。矢張り苦戦しているのか。気になり上を見る。その位置からは忍の姿は見えない。
「こちら桃子。『盲犬』二騎撃墜」桃子の囁く様な声。
いつの間にやら幸次の後ろにいる。真っ黒な衣が全身を守るように包んでいて、布の端が浮遊しながら自由に意思を持ったように蠢いている。
「うらうらうらああああ!!」大橋の声が聞こえていないのか文はひたすら狩り続けている。
呆れたような大橋の溜息と声。「こちらの観測では恐らく文は『盲犬』六騎と『雀歩』三騎を撃墜している。残り『盲犬』と『雀歩』が一騎ずつ。『燕羽』が三騎だ……恐らく相手方も『成る』だろう」
「空間展開次第、私が『成る』」桃子は変化なくいつも通りの微かな声で返す。
その言葉に大橋も気を取り直して、「分かった。では後十秒。通信は遮断され、敵の反応が消え次第空間は解除され――何だ、追撃だと!?」そこで通信が切れた。
幸次と桃子が目を合わせる。「えっと……なんか嫌な予感がするんだけど」不安げな幸次。
対して、桃子は存外平気な顔をしている。「予感では無いと思います。矢張り幸次さんが店でイチャついたことが原因かもしれません」
「矢張りって何!? そんなこと関係ないでしょ!」あれは自分のせいではない、と幸次。
「冗談ですよ。『成り』ます。時間を稼いで下さい」聞いていない風な桃子。
虚数空間展開。建物、空、街路樹の色が一瞬にして抜ける。全ての風景が真っ白になる。枝葉の風に揺らぎ擦れる音さえも消える。止まる。様子が変ずる。ひしと整然としていた街並みは廃墟と化す。家々は崩れ落ちて、色を抜かれた木々は根っこから折れ地面にはぼこぼこと無数の穴が開いている。歩めば灰塵が宙を舞う。――人の、動物の気配を全く感じられない。この世界には一応四人と、先ほどの異次元からの来訪者が居る筈なのだが。幸次は桃子を見た。身を包む黒い布は先ほどまでと変わらない。
しかし布の間から見えるその中身は――無機物だ。
動物にさえ見えない。桃子の先程までの、きめ細かい泡雪のような肌は消え、黒く金属のような光沢を有し、長く綺麗な髪は針金のように硬く、顔は目も鼻も口も失い悉く人の面影を失している。不気味でしかない。
「その姿、どうも未だに慣れないな」幸次が喋る。音が全く通っていない様。まるで水中で必死に口を開いているようだ。
「あんまり慣れるのもどうかと思う。こういうのに慣れるのってどんどん普通から離れて行くことだから。悪いけどその幸次さんの姿も好きになれない」桃子の声が頭に直接届く。
幸次の姿も全く変化している。学生服は消え、全身銀色の肌に顔には一つの大きな赤い目のような光るものが中心に据えてあり、緑で蛇に巻き付かれた様な模様が頭からつま先に向かって描かれている。手と鋭いナイフは完全に一体化してしまっている。
「まあ、自分の姿はこっちの世界じゃなかなか見られないからなぁ。やっぱり酷いモンなんだろうと思うけど」建物は全て灰に染まり、自分を映す鏡の役割をするものは無い。
「……ごめんなさい。好きになれないなんて無神経なこと」
「ああ、いや、いいよ。こればっかりは……そう言えば他の二人のこっちでの姿って殆ど見ないんだよな。文さんは突進していくし、何故かいつも忍さんはこっちの世界だと離れて戦っているし」
「ふん。天然のたらしめ」桃子は小さく非難。
「え? 何?」幸次の耳に届いているが意味が解せず。自分の所為なのか? 分からない。
桃子が呆れたように俯く。目も口も眉もなく表情は見えないが、恐らく呆れられている。そして溜息交じりに「何でもありません。いい加減に『成り』ます」と言うと桃子の全身の黒い布が伸び、全身を包み卵の形になる。「『成る』。『火鬼』」全身が明々(あかあか)と燃え始めた。
上空。敵方の姿は、この『虚数空間』に於いても何ら変わらない。忍はと言うと幸次らと同様異形の姿に成っていた。全身桃色で硝子のような半透明で、首は長く伸び、鋭く長い角がぐるぐると螺旋状に頭から伸びる。手足も細く伸びている。だが指は無くなっていて、手は両面凸のしゃもじのような形を成している。こんな自分の姿は好きじゃない。好きじゃないけど成らねばならない。一人空中で『燕羽』三騎に相対している。その三騎が動きを止めると同時にぴちぴちと音を発しながら薄く白い膜に覆われ始めた。『成る』気だ。「そうはさせっか!」翼を靡かせ突進、角がその膜を突き破り体に迄通る。鋭く甲高い断末魔が響く。ばらばらと体が崩れ落ちる。他の二騎をはたと睨む。既に変形は完了していて、膜が破け巨大な中身が姿を現す。先ほど迄と同様鳥の形をしているが、翼を思い切り伸ばせば十メートルはあり、太く力強そうな首は三つあり、その先は悉く鋭い。
忍が眉を顰め、口元に腕を近付ける。「こちら忍。『燕羽』二騎が『燕行』に『成』った。」
慌てた声で応答したのは幸次。「二騎か! 援護します、こちらに引き寄せて下さい」
「いや、お前たちを危険にさらすわけにはいかない」――見せたくない。
「いや、でもそんな!」幸次はそんな忍の態度が解せずに声を荒げる。
「いいから!」忍も対応するように声を荒げた。
「こちら文だ。『盲犬』は仕留めたが『雀歩』が見つからん……って、何だありゃ」その時、文のいる所の上空に始めの襲来同様の空間のゆがみができた。「なんかわらわら出てきやがったぞ。目視で確認できるのは……黄色い足にでかい翼と嘴。恐らく『飛鷹』だ。それが五騎。それと鹿みてえにでかい角に太い四つ足。黒く光る体。『盲鹿』だ! 確認できるだけでも十騎!」
「これって結構ヤバいんじゃ……」焦る幸次。とその時後ろからドスンと大きな音。砂塵が舞い、煙が立ち込める。劈くような奇声が耳に届く。振り返りその姿を桃子の後ろに確認する。風が起こり煙が忽ち晴れる。金色の体に輝く翼が背中から四枚。背丈は十メートル程。二股に分かれた首に、鋭い牙を幾重にももった大口を、いっぱいに開き威嚇している。「『金鳥』発見、恐らく『雀歩』の成ったもの!」桃子を守ろうとその『金鳥』に飛びかかる幸次。上空から頭を下にしてナイフを振り下ろす。『金鳥』は首を仰ぐとギュンと伸び幸次を襲った。くるりと体を翻しながら紙一重で避ける。もう一方の首も迫る。片手で鼻先(鼻自体は見えないが)を抑え、縦一線に切り開くように首を刈る。切られた首は力尽きたようにドシンと地に落ちる。片方の頭から今一度劈くような悲鳴が轟く。……痛いのだろうか。自分の腕の力が抜けるのが分かった。そんなことは露知らず、『金鳥』は両翼をいっぱいに広げ、翼から無数の硬く尖った羽根を勢いよく飛ばしてきた。すぐさま我にかえり飛び退きつつナイフでそれを落とした。せめて今は、あまり考えないようにした。
上空では忍が敵隊に囲まれている。多くの視線が、それぞれ不気味な形相で真ん中の忍の隙を窺っている。こういう時こそ落ち着かなければいけない。忍の目の色が変わる。周りを見渡す。不意に翼を立てて急降下。敵隊は虚を突かれたように固まったがすぐさま一斉にそれを追う。猛スピードで地面が迫る。地にぶつかる直前、翼を丸く広げ全体で風を受け、旋回しながら地に着く。風が巻き起こり真っ白な砂埃が勢いよく辺り一面に巻き上がる。忍の姿が包まれ視界から完全に消える。敵隊の前列も巻き込まれ統率が乱れる。敵隊後列は逃れており、じっと砂塵が晴れるのを待つ。ガサンガサンと砂ぼこりの内より鉄を無理矢理通す様な音がする。それとほぼ同時に脱兎のごとくその粉塵内部から飛び出す忍の影が見える。その姿を見止め上で待機していた連中はすぐさま忍を追う。やがて埃が晴れる。ピクピクと弱弱しく痙攣する首の落ちた死骸が幾つも転がっているのが見える。
「『飛鷹』一騎、『燕行』は全部片付けた!」忍の元気な声が他の人間に伝わる。
「良かった。こっちも『金鳥』仕留めました」幸次が答える。
「こっちゃ『盲鹿』五騎片づけたぜぇ!」文もそれに続いた。
それに呼応するように、桃子を包み卵型に成す黒い布がドクンと鼓動。メラメラと燃え盛りながらどんどん巨大になってゆく。どんどんどんどん大きくなり、悠に三十メートルは超えた。辺りの建物をどんどん潰してゆく。――この影響は現実世界に出ない、と聞かされている。そして卵は割れる。中から無機質の巨人が現れる。胴は細く長く手足も細長く伸び、全身真っ黒で大きく、白い右目のみが顔に存在して大仰に見開いており、こめかみからは八つに分かれた角が生き生きと天に向かっている。桃子はその巨人の胸辺りに浮遊している。桃子はその巨人を従えているかのごとくである。「焼きつくす」桃子は右手を上げ前に突き出す。するとその巨人は左手を同様に前に突き出す。
「よっしゃ行けぇ桃子ぉ! 一気に決めちまえぇ!」文の力強い声が桃子の頭を揺らす。
「……うるさい」桃子は避難するように小さく呟き、上げた手をぐっと力強く握る。すると巨人はその手を開いた。途端に各所から火の手が上がる。敵兵共が残らず赤黒い炎で焼かれているのだ。炎は天まで届かんとばかりに渦を巻いて燃え盛っている。
幸次はそれを見てほっと息をつき肩をなで下ろす。――終わった。敵兵の中には炎に巻かれた後もそれでも何とか逃れようと飛び、走り回っていたりした者もあった。しかし今では悉く元気なく、断末魔を上げる力さえも残っていないかと思われる。それをじっと見る。何を考えるわけでもなくひたすらに見る。炎の中に何か見えるかと考えながら見る。しかしそこにはただ敵どもを燃料に辺りを照らす遺恨の焔以外何物も見えない。最早僅かでさえ動くモノはいない。今まで何度も見て来た光景。――そしてこれから何度も見るであろう景色。そう考えると何をする気にも慣れない。惰性で一応形ばかりの戦闘態勢は残すものの、脱力し過ぎて咄嗟の行動は出来そうにない。大丈夫だろう。特に根拠の無い自信でぼうっと佇んでいた。
やがて火が消える。敵兵が全て灰に帰す。形など残ってはいない。それとほぼ同時くらいに、空間全体がゆがみ焦点がぼやける。色が迷うように移り変わりながらやがて固定される。焦点もぴったりと合致する。虚数空間は解除され尋常通りの犬山市の風景が現れる。初夏の、青々とした銀杏の葉が、誰にも顧みられない小さな花が、やがて熟れて地に落ちる算段の実が、ごく弱弱しい風に揺られざわつく。幸次にその音が共鳴する。
「やっと終わった」桃子は囁くように呟き、ふう、と一息ついてから伸びをした。目元にはやや疲れが見えるが平生通りの美しい桃子に戻っていた。黒い甲冑も解除されている。「こんなに苦戦するなんて思わなかった。『火鬼』まで出さなきゃならないなんて。予測の信頼度って上がらないものなのかしら。こんなのが続いていたら……幸次さん?」桃子は反応の無い幸次の正面にまわり顔を見て驚き固まってしまった。涙を流していた。息を飲み、どう言葉をかけていいか分からず戸惑うしかない。
「ッたく、こんな大事だってのに何がレベル2だっての! 後でぐちぐちと攻めてやる!」忍が空から二人の傍に迄飛んできて羽を畳み地に着くと、やがて背の羽はバリっと外れるように落ち、地に触れると途端に粉々になった。そして二人に歩み寄り、「本当に死んだらどうすんだって! こっちゃただの駒でもお前の噛ませ犬でもないっての! 地球よりもヘビィな一人の命……ってぇ! どどどどどうした!?」忍が幸次の涙に気付く。桃子と目を合わせる。桃子は分からないという風に首を振る。幸次は心ここにあらずというように二人に何ら反応を見せない。
二人がひそひそと話しあう。「ちょっとちょっと、桃子ちゃん。何、何があった?」「いや、知りませんって。勝手に泣いているだけで」「勝手って……いや、まあいい。こういうときってどうすんの?」「それこそ知りませんって」「そうは言ったって」「いいですって。取り敢えず放っておいた方が良いと思います」「待ちなさいって、ちょっと冷たくない? それ」「じゃあ代案あるんですか!」「政治家みたいなこと言うな!」「いいでしょう! 弘恵さんにでも後で慰めてもらえばいいじゃないですか!」
忍が俯き肩を落とす。「え……いや……そう……か……別に私らが何しなくたって……」
「あ」桃子がしまったという風に口を押さえた。
文が未だ変身を解かずに白い甲冑姿のまま槍を両肩に担ぎながら、「いやー。いいわーいいわー。スリルだわー。生きてるってカンジしたわー。毎回こんな感じだといいのにー」と言いながら呑気に三人に近づいた。そしてそんな風な良く分からない雰囲気の三人を確認して目をぱちくりさせた。
三人に大橋から通信が入った。「こちら大橋。敵騎の殲滅を確認次第、虚数空間を解除した。そちらの無事を確認したい。応答せよ」
「せんせー。女子が幸次君いじめてまーす」文が腕に口を近づけ、告げ口。
「あん?」大橋はそんなこと言われても勿論状況が飲み込めない。
「ちょ、ちょっと文! 変なこと言うんじゃないよ!」忍は慌てながら否定した。
「えー、でもー」文はじとっと忍を見た。
その視線が気に障って語気が強くなる忍。「でもじゃない! ちゃんと状況飲み込んでから事を報告しろっての!」
忍と文二人の言い合い(?)が始まる。「幸次君がかわいそうだと思いまーす」
「何キャラだてめーはよ!」
「いや。おちゃらけた方が良いふいんきだったのかなって頑張った結果なのだがな」
「変換できねえよそれ! じゃなくって! テメーは世間と感覚がずれ過ぎなんだよこの御曹司! ちったあ常識身につけろ!」
「おう!? 今それ関係あるのか!」
「えっと……何が何なんだ?」大橋が二人の言い争いを訳が分からないままに聞いている。
「こちらは四人とも無事です。怪我ひとつありません。ですけど幸次さんが戦闘終わった後、放心して泣いていて……」忍と文を無視して最年少・桃子が大橋に冷静な口調で報告。
「幸次が泣いて? ……幸次、幸次、聞こえるか、幸次」大橋は幸次に向かって語りかけるように声をやや抑え気味にしながら声を出す。反応を待つが応答がない。「幸次、聞こえるか、幸次」音量はそのままに、なるべく優しくを心がけながら話しかける。
「あ……はい」やっと幸次が気付いた。
「幸次、大丈夫か」「あ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてて」「怪我はないか」「はい。どこにも異常ありません」
やや力無いように聞こえるが、精神に異常をきたしている感じはしない。「そうか……」大橋は少しばかり安心。「報告は後日でいい。今日はもう帰って休め……何日か学校も休んだらどうだ。今日のは流石に堪えただろう。エラかったら(標準語訳・疲れていたら)休むのも仕事だ」
「でも……」と断ろうとしたが、幸次は一旦考える。今日は水曜日。二日ずる休み(そういう訳でもないが)すれば土、日と四連休。楽をするのも手か。「じゃあ、そうして下さい」
「ああ。では学校にも連絡しておく。今日は本当にご苦労だった。帰って休め」
通信終了。幸次は腕輪の緑の押しこんでいるボタンをパチンと弾き、通信を切った。