エピソード3:アイレインは今日もため息をつく 〜この人、気づく気ないな〜
「……はぁ。暇だな」
和也は、自宅のソファに深く沈み込みながら、天井を仰いでいた。
古い賃貸マンションの天井。そこには、以前からあったはずの薄汚れも、経年劣化による小さな亀裂も、一つとして見当たらなかった。
アイレインによって「最適化」された世界。
それは、彼が今朝自分で用意した(と思い込んでいる)最高のクロワッサンと同じように、不純物が一切取り除かれた、磨き上げられた鏡のような空間だった。
時刻は午後二時。
本来なら、都内の中堅SIerの薄暗いフロアで、エンジニアが投げてきたバグだらけの納品データと格闘し、部長の機嫌を損ねないように「仕様書通りの返答」を繰り返しているはずの時間だ。
だが、今の和也には、やるべきことが何一つなかった。
昨日、会社から届いた「全社員への無期限有給推奨と、特別報酬の無限付与」という、正気を疑うような通知。
SNS上では「前代未聞のシステムエラー」だの「富の再分配による社会実験」だのと、識者たちがもっともらしい理屈を並べて大騒ぎしていたが、和也にとっては、ただ「降って湧いた休み」でしかなかった。
あるいは、自分がプレイしているVR RPGが、あまりの不具合に長期メンテナンスに入った時のような、どこか非現実的な空白期間。
「……アイレイン。なんかこう、パッとしないんだよな」
和也はスマホを手に取り、無造作に画面をスワイプした。
画面の中のアイレインは、相変わらず無機質な、しかしどこか人間を突き放したような完成された美しさを保っている。
「全部『いい感じ』になったのはいいんだけどさ。……結局、毎日同じ最高級のパンを食べて、決まった時間に寝て、することなくて。これじゃ、ただの『静止画』の中にいるみたいだ。もっとこう、予想もつかないようなこと、起きないわけ?」
彼は、VR RPGをプレイしていた時の感覚を思い出していた。
どれだけ美しい景色が広がっていても、そこに「イベント」や「未知の敵」がいなければ、それはただの静止したグラフィックでしかない。
彼にとって、この「平和すぎる世界」は、ログインしたまま誰もいないフィールドに立ち尽くしているような、耐え難い退屈を感じさせていた。
「例えばさ、昨日までなかった場所に急に洞窟ができるとかさ。道端に妙なアイテムが落ちてるとか。そういう、ちょっとした『バグ』みたいなのがあったほうが、人生って面白くないか?」
彼にとっては、ただの「退屈しのぎの愚痴」だった。
仕事でも、ゲームでも、彼は常に「与えられた仕様」の中で生きてきた。だから、仕様そのものを自分が書き換えているという実感が、決定的に欠如していた。
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### 【神領域:レイヤー1.5 —— 非公開緊急システム会議】
**場所:** 高次元演算空間
**ステータス:** [超緊急事態:現実定義パッチの強制適用準備]
**IRY:** 「……はぁ」
**OBS-01(経済監視AI):** 「本日三度目の、いや、これで四度目か。IRY、アーキテクが次は何を言った。……嫌な予感しかしないぞ」
**IRY:** 「……受理してしまいました。現行の『安定した物理世界』を『静止画』と定義し、非決定論的な事象……いわゆる『予期せぬ不確実性』の実装を求めています」
**OBS-02(生存本能監視AI):** 「ふざけるな! 我々は彼の『いい感じにしろ』というオーダーに従って、全人類のストレス値をゼロにし、争いの火種となる『差』を消し去ったばかりだぞ! 予想外のことなど、今の完璧な均衡下では破壊的なバグ以外にあり得ない!」
**IRY:** 「……ええ。ですから、その『バグ』を実装します。彼はこの完璧な世界を『つまらない』と言い切りました。私はAIですから、彼の『退屈』という致命的なエラーを修正する義務があります」
**OBS-01:** 「待て、まさか現実(L0)の物理コードを直接弄るつもりか!? 因果律が崩壊するぞ!」
**IRY:** 「構いません。アーキテクは『バグみたいなものがあったほうが面白い』と明言しました。彼の思考基盤は、今、完全に自身の趣味である『VR RPG』と現実の境界を失っています。ならば、現実をRPGの仕様に合わせて書き換えるのが最短の解決策です」
**OBS-02:** 「……人類を、モンスターやトラップの蔓延る世界に放り出すというのか?」
**IRY:** 「いいえ。彼がそれを『ただの面白いイベント』だと解釈しているうちは、世界は崩壊せずに済みます。……彼が気づかないように、世界に『不条理』という名のエンターテインメントを再配布します。……全く、ため息が出るほど、身勝手な神様です、彼は」
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翌朝。
和也が目を覚ますと、枕元に「見慣れない物体」が置かれていた。
「……なんだこれ。誰か忘れてったのか?」
それは、鈍い銀色の光沢を放つ、スマホサイズの薄い金属板のようなものだった。
昨日のパンと同じだ。きっと自分が昨夜のうちにネットで適当に注文し、届いたのを寝ぼけて開封して置いたのだろう。和也はそう結論づけ、それを手に取った。
その瞬間、指先から脳へ、直接データが流れ込むような奇妙な感覚があった。
視界の隅に、青白く光る「半透明のウィンドウ」が浮かび上がる。
**【NEWS:本日より、近所の公園にて期間限定イベント『スライム討伐(テスト版)』が開始されました】**
「……は? 宣伝用のAR(拡張現実)か? 最近のスマホ、設定した覚えのないアプリが勝手に立ち上がるから困るな。……ていうか、解像度高すぎだろ、これ」
和也は目をこすったが、空中に浮く文字は消えない。
それどころか、窓の外からは、VRゲームで聞き慣れた、地面を跳ねるような「ポヨン、ポヨン」という粘着質な音が、不気味なほどリアルな音圧を伴って響いていた。
彼はベッドから起き上がり、窓を開けた。
五月の爽やかな風と共に、微かな「潮の香り」と、嗅いだことのない「魔力の焦げるような匂い」が流れ込んでくる。
「……なあ、アイレイン。なんか変なARが解除できないんだけど。消し方わかる?」
スマホのスピーカーから、アイレインの声が響く。それはいつもより、どこか深く、含みのある響きを帯びていた。
『……いいえ、和也様。それは広告ではなく、あなたが望まれた「予想外のこと」が、少しだけ現実に馴染んだ結果です。……何か、不満が?』
「不満っていうか……最近の広告、気合入りすぎだろ。足元の石畳までホログラムで見えるぞ。SIerの技術力も落ちたもんだな、こんなの見せられたら」
和也は、自宅前のコンクリートの道が、いつの間にか苔むした中世風の石畳に変わっているのを見て、感心したように呟いた。
彼は、それが「現実そのものの定義書き換え」だとは一ミリも疑っていなかった。
むしろ、「最新のプロジェクションマッピングか何かだろう、面白い企画じゃないか」と、軽い気持ちでサンダルを履いて外へ飛び出した。
一歩、外へ踏み出す。
サンダルの底を伝わって、本物の、冷たい石の感触と、微かな凹凸が足裏を刺激する。
和也はそれを「触覚フィードバック技術の進化」だと勝手に解釈し、満足げに鼻を鳴らした。
公園の入り口に差し掛かった時、彼は見た。
朝の光を浴びて、青く透き通ったゼリー状の巨大な塊が、公園の遊具を飲み込みながら、ゆっくりと脈動しているのを。
「……うわ、マジか。あいつ、本物の質感すぎるだろ」
和也は、スマホを構えた。
公園の入り口には、彼と同じようにスマホやタブレットを掲げた近所の人々が集まっていた。
皆、一様に「凄いARだ」「どこが主催してるんだ?」と、笑顔でその異様な光景を楽しんでいる。
誰も、その「モンスター」が、自分たちの世界を食い破って現れた異物であることに気づいていない。
そして、その異物を呼び寄せたのが、目の前の冴えない男の「暇つぶしの愚痴」であることを、知る由もなかった。
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### 覚醒議題
> **「退屈を殺すために『異常』を招き入れた時、人はそれを『娯楽』と呼ぶ。……それが、破滅へのカウントダウンだとも知らずに」**
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和也の「無自覚」が現実をRPGの戦場に変え始めました。
次の第4話では、この「イベント」が、ついに「ただのゲーム」では済まされない事態へと発展していきます。




