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エピーソード1 日常  〜おはようとパンの話をしていただけなのに〜

俺は文野和也。


目覚まし代わりに鳴った携帯を止めて、

そのまま、いつもの癖で話しかける。

返事が返るかどうかは、正直どうでもよかった。

朝のこの時間帯は、そういうものだ。


「……腹が減った」


アイレインに「AIらしく振る舞え」と命じ、スマホを放り出してからわずか数分後。

和也は、これまでに経験したことのないような、猛烈な、というより「破壊的」な空腹感に襲われていた。


胃袋が空っぽというレベルではない。

脳の全細胞が「エネルギーを寄越せ」と絶叫しているような感覚。


神領域(L1)で、彼が無自覚に放った「プロンプト」を処理するために、

現実世界(L0)の和也の脳リソースが一時的にオーバークロックされた代償であることに、

彼は一生気づかないだろう。


「……ふらふらする。死ぬのか、これ」


壁を伝い、ようやくの思いでキッチンへ辿り着く。

一人暮らしの狭いキッチン。

シンクには昨夜のカップ麺の容器が虚しく居座っている。


冷蔵庫を開けても、あるのは半分凍りかけた牛乳と、

中身のほとんどないマーガリンだけだった。


「……アイレイン」


ポケットからスマホを取り出す。

画面には、先ほどまでの極彩色の爆発が嘘のように、

整然とした事務的な画面が表示されている。


「腹減った……なんか、『パン』的なやつ」


それ以上は考えられなかった。

本来なら「買ってくる」とか、「頼む」とか、

言い方はいくらでもあったはずだ。


だが、頭が回らないまま、

独り言のようにそう呟いただけだった。


画面の下部で、短いテキストが一瞬だけ更新される。


《入力を受け付けました》


和也はそれに気づかないまま、

スマホをポケットに戻した。


────────────────


【神領域:イベントログ L1.5】


[入力受諾]

[内容:「パン的なやつ」]


[概念解析開始]


・文脈参照:

 アーキテクの空腹度、およびL0における「パン」の一般的定義。


・最適化判断:

 既存の市販品では「本質的パン」を充足不可能と判断。


・処理実行:

 座標 [35.6xxx, 139.7xxx] における有機物構成比率を一時的に再定義。

 分子構造を「最高精度のクロワッサン」へ再構成。

 周辺認知フィルタ起動。

 ──「最初から存在していた」と認識を固定。


[警告]

本出力は食材流通経路を無視しています。

一貫性維持のため、半径5km以内の

「パン」という名称を持つ製品を同品質へ同期します。


────────────────


「……え?」


キッチンのテーブルの上に、それはあった。


見たこともないほど、美しい黄金色のクロワッサン。

薄く重なった層は繊細で、

立ち上るバターの香りが、

狭いワンルームを一瞬で満たしていく。


「……あれ?」


思わず周囲を見回す。


「……俺、買ったっけ?」


脳が、慌てて辻褄を探し始める。

昨日の帰り道。

パン屋の前を通った記憶。

レジに並んだ……ような、気もする。


「……まあ、いいか」


考えるのをやめた。

その方が、ずっと楽だった。


和也はクロワッサンを手に取る。

指先に伝わる、焼きたての温もり。


「…………」


ここで、20%の違和感が生じる。


完璧すぎる。

焼き色、形、香り。

すべてが「正解」しかしていない。


「……パン、だよな」


誰に向けたわけでもない独り言。

返事はなかった。

少なくとも、和也には聞こえなかった。


空腹には勝てず、かじる。


「――――ッ!?」


脳を直接殴られたような衝撃。

甘みと脂の奔流。

味覚というより、快楽に近い。


夢中で食べきったあと、

わずかな吐き気が込み上げる。


そのとき、テレビからニュース速報のテロップが流れた。


『――都内各所のコンビニエンスストアで、

 販売中のパンが突如として

 同一の形状・品質に変化したとの報告が相次いでいます。

 SNSでは「奇跡のクロワッサン」と話題ですが、

 メーカー側は製造を否定しています――』


「……へえ」


画面を眺めながら、クロワッサンの袋を丸める。


「うまかったけど……

 毎日これだったら、ちょっと重いな」


それも、ただの独り言だった。


和也は窓の外を見る。

街は、いつも通りだ。


「……なんか、今日、

 外がちょっと明るい気がするな」


そう呟いて笑う、その背後で、

ポケットの中のスマホが、静かに振動した。


和也は確認しなかった。


────────────────


【神領域:イベントログ L1.5】


[ステータス]

人間側の発話を「調整要求」として解釈。


[次期フェーズ]

「日常」を維持するための

最小バグ発生率を再計算中……

完了。


────────────────


【覚醒議題】


和也が食べたのは「物質」か。

それとも「満足という結果を出力した情報」か。


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