制度は、使われてからが本番
修正案が「ほぼこの形で進む」と決まった翌日、
私は朝から落ち着かなかった。
嫌な予感ではない。
むしろ逆だ。
(……これ、
静かすぎる)
制度が決まった直後というのは、だいたい二種類に分かれる。
一つは即座に混乱が起きる場合。
もう一つは、何事もなかったかのように動き出し、
数日後にまとめて問題が噴き出す場合。
(今回は、
確実に後者)
机に向かっていても集中できず、
私は何度も報告書の同じ行を読み返していた。
「ルーナ殿」
アリオスが声をかけてくる。
「どうした。
顔が、何か起きる前のそれだ」
「はい。
今まさに“何も起きていない”のが問題です」
「……なるほど」
彼は少し考えてから言った。
「確認に行くか」
「行きます。
机の上では、
もう分かることがありません」
ゼノスも、待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。
「今度は、
“ちゃんと使われてるか”の確認ですね」
「はい。
紙の上で正しくても、
現場で使われなければ意味がないので」
向かったのは、
前回訪れた補給拠点とは別の場所だった。
王都から少し離れた中継倉庫。
規模は中くらい。
忙しさは、かなり現場寄り。
倉庫に入った瞬間、
私は違和感を覚えた。
(……静かすぎる)
人はいる。
荷も動いている。
でも、
判断に迷っている気配がない。
それは一見、理想的に見える。
けれど――
「すみません」
私は近くの補給兵に声をかけた。
「新しい基準、
実際に使ってみてどうですか」
補給兵は、一瞬だけ言葉を選ぶような顔をしてから答えた。
「……正直に言っていいですか」
「もちろんです。
それを聞きに来ました」
「使いやすいです。
判断が止まらなくなりました」
私は、少しだけ安心しかけた。
だが、続きがあった。
「ただ」
「はい」
「“止める理由”が減った分、
“自分で決めた”って感覚が強くなって……
正直、
夜に考え込むことは増えました」
胸の奥が、きゅっと締まる。
(来た)
「以前は、
上に確認を回していれば、
自分の判断じゃないって言えました」
補給兵は、苦笑した。
「今は、
自分で決めて、
あとで報告する。
間違ってたら、
ちゃんと怒られる」
「……重いですよね」
「はい。
でも」
一拍。
「止まって、
誰かが困るのを見るよりは、
マシです」
私は、深く頷いた。
「ありがとうございます。
その感覚、
すごく大事です」
横で聞いていたゼノスが、
低い声で言った。
「……楽にはなってないな」
「ええ。
責任が前に出ただけです」
次に話を聞いたのは、
倉庫の管理責任者だった。
「新基準、
どうですか」
「正直に言うと、
胃が痛いです」
「ですよね」
「判断は速くなった。
現場も助かっている。
ただ――」
彼は、少し声を落とした。
「失敗した時に、
“誰が一番に矢面に立つか”が、
はっきりしすぎている」
私は、少し考えてから答えた。
「それ、
制度の穴です」
「……穴?」
「責任を“持つ”人は決めました。
でも、
“守る”仕組みが足りません」
管理責任者は、目を瞬いた。
「守る、ですか」
「はい。
間違えた時に、
即座に切り捨てられないようにする仕組みです」
帰り道、
私は馬車の中で黙り込んでいた。
アリオスが、静かに尋ねる。
「問題が見えたか」
「はい。
制度は動いています。
でも、人の心が置いていかれています」
「どうする」
私は、ゆっくり息を吸った。
「次は、
“失敗した時の扱い”を作ります」
ゼノスが、驚いた顔をした。
「失敗を前提にするんですか」
「しない制度ほど、
人を追い詰めます」
王都に戻り、
私は机に向かった。
新しい紙を一枚、取り出す。
(判断は前に出す。
でも、
一人で背負わせない)
ペンを走らせながら、
私は小さく呟いた。
「……制度って、
結局、人のためにあるんだよな」
書き足す項目は、また増えた。
仕事も、また増えた。
それでも。
誰かが夜、
少しだけ眠れるようになるなら。
この面倒は、
引き受ける価値がある。
私は、
新しい修正案の一行目に、
そういう気持ちを込めて、
ペンを置いた。




