聖女なんて、推しの邪魔です
朝の空気が、肌に痛かった。
ビルから出た瞬間、私は思わず空を仰ぐ。
(……空が青い。寝てないのに腹立つくらい綺麗)
徹夜明け三連続。
炎上中のプロジェクト対応で、ほぼ会社に住んでいるようなものだった。
でも今日は、どうしても外せない用事がある。
「よし……推しのBD発売日」
スマホの画面には、カレンダーにでかでかと入力した予定。
【推しBD発売日(予約受取&全力拝礼)】
これを逃したら、限定版も、封入特典のシリアルも、ライブ抽選も全部水の泡だ。
(世界が滅んでも、今日だけは絶対に死ねないんだよね)
冗談半分、本気半分でそう思いながら、私は小走りで駅前のタクシー乗り場へ向かう。
足取りは重い。目の奥はずきずき痛い。
それでも、頭の片隅に推しの笑顔を思い浮かべると、不思議と身体は動いた。
「タクシー、タクシー……!」
一台、ちょうど空車のランプを光らせて停まる。
私は手を挙げて駆け寄り――
その瞬間、世界が、白く弾けた。
――バチンッ!
「え?」
目の前にあったはずのタクシーが消えていた。
代わりに、足元には眩しい光の紋様。円形の、魔法陣みたいな模様が床いっぱいに広がっている。
床?
(……いやここ、アスファルトじゃない)
慌てて目を上げると、そこはどこかの大聖堂だった。
高い天井、色とりどりのステンドグラス、白い石柱。香のような甘い匂いが鼻をくすぐる。
「……え?」
もう一度同じ声が出る。
「成功だ……! 聖女様の召喚に、成功したぞ!」
私の目の前で、派手な法衣を着た男が叫んだ。
白と金の刺繍、いかにも「胡散臭い宗教関係者です」と自己紹介しているような格好。
その後ろには、鎧を着た人たちがずらりと並んでいる。
銀色の胸当て、紺のマント、腰には剣。少女漫画から抜け出してきたみたいな整列ぶりだ。
「……撮影現場? ドッキリ? 寝てないから幻覚?」
思わず口から出た独り言に、法衣の男がきょとんとした顔をする。
「聖女ルーナ様。我らが女神に選ばれし、救済の御子よ」
「誰が?」
反射で返してしまう。
「あなた様です」
「いえ、私、佐藤花ですけど。ルーナじゃなくて花。社会人一年目、絶賛プロジェクト炎上中の社畜ですけど」
法衣の男が一瞬固まった。
「あ、えっと、落ち着いてください、聖女様。こちらの世界では“ルーナ”という加護名が与えられております」
(名前勝手に変えないでもろて)
頭が追いつかないながらも、私はスマホを探してポケットをまさぐる。
ない。カバンも、社員証も、Suicaも全部、消えていた。
(うそでしょ。推しBDの予約引換券も入ってたのに)
心臓がぎゅっと掴まれたみたいに痛む。
「ここは……どこですか?」
「ここはアルセリア王国・大神殿。我らは滅びゆく世界を救うため、異界より聖女様をお招きしたのです」
法衣の男が、演説じみた口調で続ける。
「大地は魔物に蝕まれ、人々は恐怖に怯えております。魔王復活の兆しが現れた今、女神の奇跡によって、聖女様が――」
「ムリです」
私はぴしゃりと言った。
法衣の男――たぶん神官長?――が、ぱちくりと瞬きをする。
「……はい?」
「ムリです、断固拒否します」
空気が凍った。
鎧の人たちの視線が、一斉にこちらを向く。
その中で、ひときわ重厚な鎧を着た男が、眉をひそめた。
長い黒髪を後ろで束ね、碧い瞳がじっと私を射抜く。
顔が、バカみたいに整っている。
あれだ、推しグループのセンター候補にいてもおかしくないビジュアル。
「……理由を、伺ってもよろしいだろうか」
低く落ち着いた声。たぶん、この人が騎士団長だ。
私は深呼吸して、徹夜で乾いた喉を鳴らす。
「まず、私、今月中に終わらせないといけないプロジェクトが炎上中なんです。ガチで。
私がいないと、多分、明日にはサーバーが炎上して会社が死にます」
「さ、さーばー……?」
「そしてですね」
畳みかける。
「来月、推しのライブがあるんです」
「……おし、とは?」
「尊い存在のことです」
説明になってないけど、今はこれでいい。
「そのライブは、今日発売のBD-BOXをフラゲして、封入されてるシリアルで応募して、さらに現地でグッズを戦争のごとく買い込むことで完成する、尊さの集大成なんです。
世界が滅びようが、私の推し活の予定は絶対に変更できません」
沈黙。
神殿の中の空気が、さっきよりももっと冷たくなった気がした。
「せ、聖女様……世界が滅びても、ですか?」
「世界が滅びたら推しも滅びますけど?」
言いながら、あ、理屈破綻してたわ、と気づく。
「……でも、それとこれはそれです。
私は、推しのBD-BOXを受け取ってライブに行くまでは、死ぬわけにはいかないんです。
ていうか、そもそも帰れるんですか? 元の世界に」
法衣の男が言葉に詰まる。
その沈黙だけで、だいたい察した。
(あ、これ、簡単には帰れないパターンだ)
胸の奥が、ぎゅうっと重くなる。
会社のこと。推しのこと。積み上げてきたオタ活の歴史と、予約済みの円盤たち。
でも、涙は出なかった。
徹夜で枯れているだけかもしれない。
「……あなた」
騎士団長らしき男が、一歩前に出た。
「名は、花と言ったな。こちらの世界では、ルーナという名になるだろう」
「勝手に決めないでほしいんですけど、まあ呼びやすいほうで」
「ルーナ殿」
きっぱりと言い切られてしまった。
「我々も、いきなり異界から人を呼びつけたこと、決して正しいとは思っていない。
だが、このままでは本当に国が滅ぶ。民も死ぬ。
女神が選んだという“聖女”の力に、縋るしかないのだ」
「だからって、私の推し活を踏みにじっていい理由にはなりません」
目の前の美形騎士と、真正面から睨み合う。
私、眠い。正直、立っているのもつらい。
でも、ここだけは引けなかった。
私の人生は、推しに照らされてここまで来たのだ。
ブラック企業も、徹夜明けも、全部「推しに会うため」と思えば乗り越えられた。
その推し活を、「世界が滅びるから」の一言で諦めろと言われても、納得できるはずがない。
「……一つ、問いたい」
騎士団長が、少しだけ目を細めた。
「その“おし”のために、そなたはどれほど働いてきた?」
「は?」
「そなたは先ほど、自分がいなくては“会社”が回らぬと言ったな。
炎上している仕事とやらにも、責任を感じているようだった。
推しのために働き、仕事のために尽くす。
それほどまでに、ひとつのことへ尽くせる者は……」
そう言って、彼は小さく息を吐く。
「優秀だ」
「え?」
「そのような者を、何もせずに放り出すほど、我が国は愚かではない」
騎士団長は、法衣の男――神官長らしき人物――のほうに視線を向けた。
「神官長。聖女として前線に立たせるのはやめましょう。
彼女は……そうだな、“聖女補佐”だ」
「ほ、補佐?」
「名目上は聖女の側付き。実際には、王都で我らの“裏方”として働いてもらう」
裏方。
どこか耳慣れた響きに、私の社畜センサーが反応する。
「ちょ、ちょっと待ってください。裏方って、具体的に何するんです?」
「情報の整理、計画の立案、書類の作成、遠征の準備、人員の割り振り……」
「それ、完全にプロジェクトマネージャーじゃないですか」
思わずツッコんでしまう。
(異世界まで来て、結局PMやるの? 私)
「だが、その代わりだ」
騎士団長が、まっすぐにこちらを見る。
「我々は、そなたが元いた世界に戻る術を探ると約束しよう。
古き文献、神殿に伝わる秘術、あらゆる手段を使って」
「本当に?」
「我が名にかけて誓う。
アルセリア王国第一騎士団長、アリオス・ヴァルグレインの名に」
(名前までイケメンかよ)
そういうところだぞ、と心の中で突っ込みながらも、私はぐらりと揺れる気持ちを必死で押さえる。
元の世界に戻る方法を探してくれる。
ただし、その代わりに、この世界でまた社畜をする。
――選択肢は、正直ほとんどなかった。
ここで完全拒否しても、多分どこかに監禁されて「聖女様、お祈りだけでも」とか言われる未来が見える。
それなら、まだ仕事をしていたほうがマシだ。
私には、働くスキルしかない。
そして何より。
(働けば、帰れる可能性が上がる)
そう思えば、身体は自然と答えを出していた。
「……わかりました」
私は深く息を吸い込む。
「聖女はムリです。でも、“聖女補佐”ってやつなら、やってみます」
「ルーナ殿!」
神官長が安堵の息を吐き、アリオスはほんの少しだけ口元を緩めた。
「ただし」
私は指を一本立てる。
「ブラック職場だったら、秒で辞めますからね」
「ぶ、ぶらっく……?」
「残業代なし、休日なし、寝る時間なし、メンタル破壊コースの職場のことです」
アリオスが、ほんの少しだけ困ったように目を逸らした。
「……善処しよう」
怪しい。
でもまあ、それでも。
私はさっきより、ほんの少しだけ前向きな気分になっていた。
その時、不意に頭の中に、透明な板みたいなものが浮かび上がる。
視界の片隅に、文字情報が流れた。
【ユニークスキル:推し活スキル・マスタリー】
・徹夜耐性:HP/MP自動回復(睡眠不足ペナルティ軽減)
・情報収集:未知の情報源を高速検索・解析
・交渉術:限定品・予算・スケジュールに関する交渉の成功率上昇
(……これが、こっちの“ステータス画面”ってやつ?)
私は思わず、口の端を上げた。
「ふふ……」
「何がおかしい?」
「いえ。ただ――」
私は、徹夜でガサガサになった自分の手のひらを見下ろす。
「推し活で鍛えた社畜スキルが、異世界対応に変換されただけなら、別に怖くないなって」
仕事は嫌いだ。
でも、働き続けてきた自分のことは、嫌いじゃない。
「推しのために魂削って働いてきたんです。
世界の一つくらい、ついでに回してやりますよ。……帰るために、ですけど」
アリオスが、わずかに目を見開いた。
「ルーナ殿。改めて、ようこそ」
彼は片膝をつき、胸に拳をあてて頭を垂れる。
「アルセリア王国第一騎士団がある限り、そなたの帰還の道を閉ざさぬと誓おう」
王道ファンタジーみたいな台詞だ。
でも、その声には嘘がなかった。
私は、彼の差し出した手を見て、ほんの少し迷ってから、そっと重ねる。
――こうして私は、聖女をクビになりかけたOLとして。
異世界での、社畜生活を始めることになった。聖女なんて、推しの邪魔です




