契約書にサインをどうぞ、旦那様 ~お飾り妻の再雇用は永年契約でした~
グラディス・シャムロック。
司祭が開く分厚い書物の上に、しばし別れる自分の名を綴り終えると、グラディスはそのすぐ上に書かれた、ぎこちない文字の書き手――新郎に向き直った。
――皆が、私のことを可哀そうな花嫁だと言うけれど。
慎ましやかな教会のベンチに居並ぶ両家の親族と、友人たち。薄いベール越しにでも、幾人からもの憐れみの視線を感じる。
学生時代に婚約してから7年。うち学院を卒業し、挙式の予定が立ってから2年。
結婚式を目前にして、バセット子爵家嫡男の婚約者アーロンは出奔した。
婚約者に捨てられた哀れな令嬢、というのが社交会でのグラディスの評価だ。
口さがない者からは、大人しそうだからとか、ぼんやりしているからとか、面白みがないから生徒会の役員まで務めたアーロンには物足りなかったのだ、などと陰口を言われた。
お飾り妻とかお下がり妻などといった、もっと酷い言葉も耳にしたことがある。
これにもうひとつ加わったのが、不本意な結婚との評判。やや型が時代遅れになりつつあるこの白いウェディングドレスのような、ありあわせの結婚だ。
つまるところシャムロックもバセットも、商売の利を取った政略結婚を続行することにした。
バセットの三兄弟のうち長男でなく、グラディスより一つ年下の次男・ヴィンセント――兄弟で一番出来の悪い――と結婚させて家を継がせることを、次善の策と許容したのだ。
それもアーロンの失踪から、結論を出し結婚式を挙げるまでたった5日でだ。
この5日間、グラディスはヴィンセントと一度も顔を合わせていない。
いや、彷徨う彼の落ち葉色の三白眼は式の間だってずっと、一度も合ったことがない。だから余計に、観客の憐れみは花嫁に向かったのだけれど。
――この人の方がよっぽど可哀そう。
グラディスは一見、大人しそうに見える――らしい。今だって物憂げな黒い睫毛は悲しみに気丈に耐えているように見えるかもしれない。
けれども商家の娘らしくそれなりに図太く育ったし、将来の子爵夫人となるべくそれなりの教育にも、義母からの要求にも耐えていた。
こんなスライド結婚のウェディングドレスだって、少なくとも彼女自身のために、好みを入れて、サイズを合わせて作っていた。
それなのにこの次男は新郎の衣装すら彼のサイズではない。
華があり誰にでもそつなく接することができる、すらりとした貴公子だったアーロン。彼に似合うよう作られたタキシードが、目の前の新郎にそのまま流用されていた。
どちらかといえば地味で陰気そうな顔のヴィンセントには似合っていないし、丈やあちこちを急遽詰めることになって動きづらそうだ。
しかも彼は、以前からグラディスを嫌っていた。
「では、誓いの口付けを」
司祭が素知らぬ顔で穏やかに、向かい合ったまま動かない二人へ促す。
ヴィンセントが一歩、近づいた。手がベールを無造作にめくり、そのままぎこちなく、後頭部を掴むように引き寄せられる。
目が合わないまま腕が口元を隠し――グラディスがちらりと横目で参列者を見れば、義母になるバセット子爵夫人の射抜くような視線が痛い。
「ふりだけでも、上手く」
彼にだけ聞こえるように囁いて視線を合わせようとすると、やっとこちらを見てくれる。苦痛に満ちたものだったけれど。
そして本来頬に落ちるはずの口付けは、ついぞ触れることがなかった。
その晩――結婚初夜のこと。
「グラディス・シャムロック嬢」
書き物机に座っていたグラディスが扉の開く音に顔を上げれば、睨むようにしている夫が立っていた。元々悪い目つきが更に悪くなっている。
彼は式後の風呂上がりだというのにシャツのボタンを一番上まで留めて、その上にローブを羽織っていた。
彼と閉まりゆく扉との隙間に、執事や子爵夫人の侍女たちの姿が見える。分厚い扉を必要以上にゆっくり閉めていた執事の視線が、ヴィンセントの言葉にきつくなったようだ。
それを感じたのか、彼は室内側の取っ手を掴むと、やや乱暴に閉めきって鍵をかけた。
ヴィンセントは三白眼でグラディスの薄手のレースで彩った夜着をちらりと見て、視線を彼女と正反対、ベッドの方に向けた――それから義母の指示で花を撒いてあるそれにうんざりしたように眉を下げてから、仕方なさそうにグラディスの目のやや上に視線を固定する。
「グラディス嬢。いいか、お前はお飾りの花嫁だ。これは政略結婚で、両家の都合に過ぎず……」
披露宴での作り笑いに疲れたのだろう、普段より声に棘がある。次男だからと免除されてきた――むしろ外に出ないように、と義母から言われていたらしい社交のあれこれが一気に襲いかかってきたのだ。
義母によれば「5日間でみっちり詰め込んだ」振る舞いは、次男としては及第点でも次期子爵には心許ない。元より子爵夫人となるべく準備していたグラディスも、義母もなるべくフォローしたが、社交は彼の最も苦手とするところのようだった。
「お飾りでも花嫁というなら、それなりの扱いをしてくださらないと。さすがに未婚の時の呼び名では」
「それは人前での話だろう。二人きりの時に、何か差し障りあるか」
心底、会話すら面倒くさそうな態度と声を隠そうともしない。
それはそれで覚悟ができていたが、扉一枚向こうに使用人たちがまだ控えているかと思えば望ましくなかった。
「ほつれは細部からできるものです。それにご存じのように、こちらの王都の屋敷では隅々まで、それはもう隅々までお義母様の監視が行き届いております」
彼女は声をひそめて答え、部屋を見回し、それから自身の指先に視線を落とした。
アーロンと過ごすための部屋は、以前義母に見せられてから全く変わりない。彼の趣味に“合いそうな”品の良い優美な家具類と好む赤色で整えられていた。そしてグラディスの爪先は先ほどまで過剰なほど磨かれている。
「……家のために形ばかり、結婚だけはしてやったんだ。それ以上望むな」
「こちらも同様です。状況認識に齟齬がなくて幸いです」
グラディスがにこりと微笑むと、ヴィンセントは鼻白む。
「二、三日もすれば婚姻証明書が届くでしょう。書類上、ええもう形ばかりですが、私の名は数年はグラディス・バセットです。まずは、私のことはどうぞ呼び捨てに。難しいなら発音練習でもされます?」
「……昔からその上から目線が気に食わなかったんだ」
「であればなおさら、呼び捨てにしたかったのでは?」
端的に言って、二人は仲が良くない。
学校ではアーロンが人当たりも良く文武両道、評判の良い優等生だったため、学校でのヴィンセントは周囲からずっと兄と比較されていた。平々凡々、取り柄もないから次男で良かった、と。
やがて成績を落とし休みがちになった彼のサポートを、アーロン――グラディスと入れ違いに卒業していた――と義母から頼まれた彼女は、義理の姉としてあれこれ口を挟むようになった。
生活態度から勉強のアドバイスから、上流貴族相手の上手い立ち回り方まで。いらぬ世話だと何度言われたことか。
そのせいだろう。卒業後はヴィンセントに避けられており、特にここ二、三年はバセット子爵夫妻も同席するような、最低限の場での最低限の付き合いしかしていない。
「……グラディス」
睨み付けるように言われても、入学時の幼さの残った顔を思い出せば怖くない。グラディスは微笑み、書き物机の上に積み上げてあった書類を手に取り差し出した。
「これで対等ですね。それでは次に、建設的なお話をいたしましょう」
「なんだこの紙束は」
「もしもアーロン様が戻られれば、子爵、いえお義母様はきっと爵位含め“元通りに”されるでしょう」
「……」
グラディスは想像する。間に合わせでなく、ケチの付いた花嫁でなく、アーロンに相応しい結婚式と花嫁を用意することを。アーロンかその息子に何とかして爵位を継がせ、自分たちはお役御免――あくまで補佐に留められるだろう。
ヴィンセントが受け取ってページをパラパラめくるのを見ながら、言葉を続ける。
「もしも、戻ってこない場合は?」
「期限はアーロン様が戻ってこられるか、ヴィンセント様が爵位を継ぐまで。ご自身が子爵となれば離婚も再婚もご自身の望むままです。
いつか来る離婚の日のため、お互いが日常を取り戻すための条件をこちらに記しました。少々長いのは、お互いが夫婦仲を疑われず、かつ不仲にも思われないための、日常での注意点です」
「この、お前の一日の予定とやらは何の役に立つ」
「お互いを理解し、適切な距離について話し合う材料です。今後私は子爵家の家政を学ぶだけでなく、バセット商会の仕事、加えてシャムロック商会の仕事との調整をしなければならないので――」
聞いているのかいないのか、素早く紙をめくっていたヴィンセントは、書類の最後の空欄に目を留めた。教会での誓いとは反対に、グラディスのサインが先にある。
彼女は黒檀のような目を細めると、机上のペンを指した。
「こちらの契約書にサインをどうぞ、旦那様」
ヴィンセントが促されるままペンを手に取りサインを書き終えると、グラディスは受け取りながら笑みを深めた。
……いや、むしろ苦労が深まることは確定したのだけれど、それでもこの「出来の悪い」夫を前に、計画通りにいく、と確信したのだった。
「では、今サインされた通り、一年ほどは、週に一度、夫婦の寝室に通っていただきます」
「……は?」
「契約書に書いてありましたよね」
「貸せ」
慌てて再度書類をめくり始める夫に、グラディスは3ページにあります、と教えた後で平然と続けた。
「どうしても世継ぎが欲しいお義母様の忍耐の限度は、週に一度だと推測しました。過去の離婚裁判の例を調べましたが、これがお互いに損がない頻度です。ああ、ベッドはもう一台入れる予定ですが」
「……下調べをしたのか?」
「ええ。もう、たっぷりと。今回の結婚で私の意思を差し挟む余地がなかったので」
結婚までのたったの5日間、仲が悪いからこそ、グラディスは可能な限り快適で円満に離婚できる契約書の作成だけに注力したのだ。
「問題は、今夜はどうにかしてお義母様の目を欺かなければならないことです。残念ながら私、閨ごとにはさっぱりで」
「は? ……あー……兄とは」
「あの方、私にはこれっぽっちも興味がありませんでしたから」
初心なのかもしれない。遠慮がちな質問に、これも平然と答える。
「まさか、あんな恭しく手を取って、頻繁に劇場のボックス席を予約していたのに……?」
「あれは演技です。アーロン様は演劇をお好みで、子爵になることよりも、劇団員として舞台に立つことを夢見ておられました。一方的な解説を除けば、私との会話なんて一言も。
おそらく、出奔されたのもそれが原因でしょう。憧れていた劇団が、隣国で公演されるそうだったので」
そう、アーロンはずっと夢と現実の板挟みになっていたのだ。
子爵家の長兄として義母のプレッシャーをずいぶん受けていたことをグラディスは知っている。優等生なのも、義母が好きな赤が好きなふりをしていたのもそのせいだ。……失踪するほど、とは思っていなかったが。
しかし今は詮無きことだ。それよりも、ボックス席でいかがわしいことをしていたと思われるのは、不本意だった。それ以上に、次期子爵になる彼にそんな俗っぽくて短絡的な発想に至られるのは困る。
疑いの目に、もう少し説明した方がいいだろうか、とグラディスが思ったとき、ヴィンセントがペーパーナイフを手に取るのが見えた。
よからぬことをするのではないかと咄嗟にグラディスが手を出す前に彼は刃を立てると、ぷつりと自身の指先を指した。
「あ、思ったより痛……」
「それは痛いでしょう! 何をなさって――」
血の球が滲むのを慌てて何か拭くものを、と探そうとすると、その前にヴィンセントはシーツの上に血を擦りつけた。
「……念のためだ」
「……念のため?」
「は……初めての時はそうだって……だ、だから……後で不都合があったら、俺が怪我したって言えばいい。嘘じゃない」
ヴィンセントは目を相変らず合わせないまま、ふいと首を向こうに向けてしまう。
「ヴィンセント様……」
「俺だって、母上の前で演技くらいできる」
「……いえ。その上で寝るんですか?」
「あ」
間の抜けた顔。
――どうせなら明日の朝にすれば良かったのに。
グラディスは口から出かかったその言葉を飲み込んで、彼に薄紙を渡した。
***
結婚式と翌日からしばらくは慌ただしかった。子爵夫妻と付き合いがある方々のための各所のパーティーに参加して顔つなぎをする。
その後もグラディスは子爵夫人から家政を学ぶほか、仕事や社交にいそしみ、夜は週に一度は、ヴィンセントに勉強を教えた。
学生時代の勉強のおさらいから始めて基礎学力に問題ないことを確認すると、契約書の読み方や商取引特有の単語や数字の読み方を教えた。
バセットは商家なのだ。ちょっとした差のつもりでも収益が大きく左右される。
宿題を出し次回までにと約束して回答をチェックして指導する。嫌そうな顔をされるが、契約書にサインをした彼には拒否する選択肢がない。
「グラディスさん、もっとゆっくり起きてきていいのよ~」
子爵夫人は結婚式の翌日からずっと、たいそう機嫌が良かった。
はじめは週に一回の予定だった夜の訪れが、一月も経つ頃には週に二、三回になっていたからだろう。この頃には、毎日憂鬱そうな顔ばかりして職場に通っていたヴィンセントも、仕事にも勉強にも少しやる気を出したらしかった。
子爵夫人はアーロンに受け継がれた華やかな容姿に、たっぷり時間をかけたライトブラウンの巻き髪。声も鳥がさえずるように美しく、自然に派手な動作が人目を惹きつける。それがいっそう顕著になった。
その性質がアーロンに引き継がれて、見るべきでない夢との距離を近くしてしまったのは皮肉だったが。
一方で、夫の子爵は全体的に地味な色合いで寡黙でおっとりもしており、ヴィンセントは彼似なのだろうと思われた。
「でも、まあそれはそれでいいわね。あんなに毎日毎日寝坊して、学校に行くのもおぼつかなかったこの子が早起きするようになって――グラディスさんにお任せして正解だったわ!」
夕食の席で子爵夫人がうきうきと言えば、食事中は終始しかめっ面のヴィンセントの眉間の皺が深くなる。
妻との仲が良いと周囲に思われないために早起きしているのだと、グラディスは知っている。
「……こほん。ともかくヴィンセント兄さんの雰囲気が最近柔らかくなったのは、喜ばしいことですね」
末席に座る三男、エディがそつのない笑顔を浮かべる。
ちょうど、夫妻の良いとこ取りと言った雰囲気の彼はまだ学生だが、バセット家で最も落ち着いているとグラディスは思っていた。
毎回のように義母に反抗していたヴィンセントがここ一週間黙りがちなのは、自分のせいで疲れているだけ……と思ったけれど、心遣いに感謝する。
「もう、大陸の方で農場を経営したいなんてヴィンセントが言い出したときは驚いたわ。ねえヴィンセント、あんなことは他人に任せておけばいいのよ」
「……はあ」
ヴィンセントの返答は同意や相槌というよりため息だったが、子爵夫人は構わず話を続ける。
「茶葉の方は現地にいい職人がいるんだから、取引先の開拓と商品開発に集中してくれれば。
もう少しの辛抱よ。エディがもう数年して立派な法律家になったら、我が家の経営の助言をしてくれるでしょ? 我が国の法律の変化の波と言ったらヴィンセントには荷が重そうだしねえ……」
「……母上」
「まあ過ぎたことだしいいわね。そうそうグラディスさん、そちらのデパートの新しい化粧品がね――」
果たして以前からこんな人だったか、とグラディスは滔滔と続けられる子爵夫人の話を半分聞き流しながら微笑を浮かべていた。
長男のアーロンを立派な次期子爵にと、一心に期待をかけて厳しくも彼女なりの愛情を持って教育をしていた人だ。彼を失った寂しさを埋めるためだろうとは理解ができる。
できるが……一人舞台で、周囲の空気は最悪だ。
グラディスは早くも、ヴィンセントの向上心のなさの原因はこの人だったのでは、と思い始めていた。態度は悪いし内向的な上に軽率だが、地頭は悪くないから教え甲斐があった。
食事を終えた子爵がぼそりと、「失礼する」と言って退席し、続いてヴィンセントが無言で席を立つ。続いて母親を諫めつつエディが続いて、グラディスに遠慮がちな声を掛けてきた。
「義姉さん、以前、書斎でお探しの本があると仰っていたでしょう。ご案内しましょうか」
「……ありがとう」
「まあエディ、グラディスさんとはまだお話したいことがあるのに……!」
「ご婦人方はお茶の機会が幾らでもあるでしょう。それにお母様はこれから商会の会合があるのでは」
「あら、そうだったわ。あの人の代わりに出ないと」
柔らかく母親を制したエディは、廊下に出るとひそやかに苦笑した。グラディスが探している本なんて、本当はなかったのだ。
「申し訳ありません、義姉さん」
「……エディこそ、予定がずいぶん変わってしまって」
「どちらの兄と結婚しても、義姉であることに変わりありませんから。ひがい……大変なのは義姉さんでしょう。困ったことがあればいつでも頼ってください」
彼が被害者と言いかけたのが分かって、ついグラディスは微妙な表情を浮かべてしまう。
被害者というならむしろ、ヴィンセントの方だ。あの一方的な契約書の内容は他言無用なのだから。
「……ああ、こちらですよ」
エディは書斎まで歩くと、最奥に手招いた。そして書棚の陰になっていた、壁と同化するような色の、目立たない扉を開く。
「こんなところに扉があったのね。……ギャラリーかしら」
促されるまま足を踏み入れれば、狭い部屋一面に飾られた絵。それも表の応接室に飾られているような立派な額に入っているものはなく、簡素な額か、キャンバスそのままに飾られているものばかりだった。
部屋の中央にはイーゼルと椅子が、隅には画材やスケッチブックの入った棚があり、申し訳程度の机が寄せてある。
「これはどなたが?」
一目見て上手だ、と思うものの、画家の絵のような巧さではない。題材は自然や農村の人々、家畜や花などの何でもない角度からのもので、もっと素朴で私的な絵だった。
「殆ど父の描いたものです。父に、兄さんに……バセット家の男には代々、大なり小なりそういうところがあるんですよ」
「こんなご趣味があったんですね」
趣味というのは控えめな言い方だ。数十冊に及ぶスケッチブックの量を見るに、ライフワークかもしれない。無口な子爵は、息子たちを社交界に売り込むよりも領地を回るの方が好きそうに見えたが、絵を描くという理由もあったのだろうか。
「ああ、義姉さんは否定はされない?」
「私には絵心がないから、素敵だと思うわ」
「良かった」
にこやかに微笑まれる。それでエディも絵を描くのかと尋ねたが、そうではないらしい。
「あら? この羊はタッチが違うわ。それにこちらも」
グラディスは多種多様な羊の絵を見ながら頷く。羊毛と紡績はバセットの主要産業で、実家の主要な取引先だ。
「ああ、それは――」
含み笑いに振り向くと、入り口の扉を背にしていたエディの脇をヴィンセントが通って入ってきた。
「――グラディス、早く出ろ」
「兄さん、せっかく来てくださった大事な新妻にそんな言い方はないでしょう。先ほどだって一人置いていくのは……」
「エディ、早く閉めてくれ」
エディは肩をすくめて苦笑すると、おやすみなさい、と二人に告げて去って行く。しかめっ面のヴィンセントに、グラディスは微笑んでみせた。
結婚して日が経ち、慣れたせいか、話し合いで適切な距離を保つことができているせいか、以前と違って嫌悪はなかった。
「ほら、早く出ろ」
「……あなたの絵なんですね」
「どうして分かるんだ」
「タッチが違いますし……その手に持っているものは何ですか」
顔を背けたままだったヴィンセントは、手の中にあるキャンバスに目を落とす。
「これは父の絵で、掛け替えようと思って……」
「では、違うものもあるということですね? 交換して、証拠を隠してしまおうと?」
「だからお前はまた上から目線で――」
目が合った。怒ったような顔だが、グラディスは怯まない。日々接するうちに、少しずつ表情が読めるようになってきたからだ。本当に怒っていたらきっと、ここから五度ほど目尻が吊り上がっている。
彼女は椅子を二脚引き出すと、腰掛けるように促した。
「今夜の勉強は、ここですることにしましょうか」
「いいから、さっさと出ていってくれ」
「ここで済ませたら早く眠れますよ?」
魅力的な提案だったらしい。少し考えるように眉をひそめた後、
「まあ、今夜はそれでもいいか。……うん……ちょっと待て、ここでの抗議は、契約書の『AがBに所定外労働をさせた場合』に当たるんじゃないか?」
「よく気付きましたね、素晴らしい」
「契約によれば、あー……法定時間の20%を越えた場合に……」
ヴィンセントは思い出すように目を上に動かしつつ、そのまま壁に向かうと、花の絵と掛かっていた黒顔の羊の絵と掛け替える。
何かを考えているときは他がおろそかになるのが良くないところだ、とグラディスは思いつつ、回答を待った。
――つまるところ、あの長い契約書はグラディスの妻としての雇用契約書で、同時にヴィンセントにとっての教科書だった。
今後子爵家の当主となるなら、軽率にサインすることは勿論、いくら長くても文書の内容はきちんと理解してもらわなければ困る。思い付いたあらゆる契約の文章を必要もないのにて盛り込んだのは、そのためだ。
「……つまり基本給以内でプレゼントを贈る必要はないというわけだな」
「ご名答です。では次は、学生時代の単位の取得に関する問題を」
勝ち誇ったようなヴィンセントにゆるく拍手を贈ると、うんざりした顔が返ってきた。
「何で今更、昔の話を持ち出すんだ」
「せっかく持ち直した成績が、わざわざ最終学年の秋に自主休暇を取って落第寸前になったのは、この羊たちが原因でしょうか?」
「何で分かる?」
「ブラックフェース種の羊の毛の長さからおおよそ分かります。それに右上辺りの山の色。領地の山岳地帯でこの角度から陽が差すのは――」
グラディスが推測を並べ立てると、また、だから嫌なんだ、と呟く声がした。
「何がでしょう」
「お前たちはいつも賢しらぶって、できないやつの気持ちなんて考えやしない。おまけに普段そういう扱いをしながら、最終的には何とかなるだろうって、自分の基準で考えて、人の知能の下限を見誤っている」
目が合った。そこには少しの憎しみと苦痛と、悲しみが含まれていた――昔から変わらない。
グラディスはどう答えたものかと逡巡しながら、先ほどの黒い羊の無邪気な顔を指さした。
「……単に知っていたからだけです。推測が正しいなら、それはヴィンセント様がこの絵を正確に描いたからです」
「今更おだてたって無駄だ」
「私も商家の娘です。無駄だと思えば時間や労力を投資したりしません。ヴィンセント様が、やればできると思えばこそしたことで……無駄だと思えば、手を引いたでしょう」
それは本当だ。疚しいことがないので、グラディスは目を逸らさずにしっかり見返す。見返して、ほんの少しだけれど表情が緩んだのを目敏く見て取った。
――やはり、この人は褒めたら伸びるのかもしれない。
人の能力は環境に左右される、とグラディスは思っている。シャムロックが経営するデパートでも、適度な労働時間と休息、人間関係、給与、適性を考えた人員配置に気を配ることで売り上げが伸びている。
「これはただの質問なのですが。こちらの角を短く巻いた羊は、どんな種類なんですか? 見たことがありません」
「北の小島にしかいない在来種だ。寒い地域で毛は余所より温かいのに、細くてふわふわした毛質で、チクチクしない。俺も実物はあっちで初めて見た」
「それは、若い女性に好まれそうですね」
「また商売か。小さい羊だから、量産できる体制にないと思う……何だ、それは」
ヴィンセントはグラディスがどこからか取り出した小さなメモと鉛筆に、首を傾げる。
「高級品のラインなら、売り出すこともできるかもしれないと思って」
「そうじゃない、なんでメモを……」
「いつでも記録できるように持ち歩いていますから。こうやってポケットを付けて」
グラディスはドレスを摘まむと、ドレープの一つを開いて見せた。
その答えは彼にとって意外だったらしい。……そうだったのか、と呟く。
「忘れても、確認できれば困りません。浮かんだ疑問点は調べて検討します」
「思ったより努力してるんだな……」
「ヴィンセント様だって、何で、と疑問を持たれるのは美点ですよ」
褒めれば、ヴィンセントの鼻が少し赤らんだ。
それがふと、可愛いと思える。
もしかして意外に素直なのかも、とグラディスはもう一押ししてみることにした。
「記録という意味ではこの絵も同様です。先ほどのように、昔の絵から意外な事実が見付かるものですよ。考古学上の発見だってありましたし、描き手のことだって」
「描き手のこと……俺のことが? 俺は画家じゃない」
「画家じゃなくたってですよ。……絵を描くのがお好きなんですか?」
「……まあ。ここでたまに絵を描いている」
取り外した羊の絵を手にすると、懐かしそうに視線を落とした。
「それに、卒業を前に遠出するほど家がお嫌でしたか?」
「……ああ」
「遠くで農場を経営したいというのは……」
「……兄さんが出ていかなければ、叶うかもしれなかった。披露宴から散々見てきて分かるだろう、俺はこういうのには向いてないんだ。少なくとも母が思うような、兄そっくりの子爵になんてな」
「……それは……」
グラディスは、その投げやりな声音に胸を衝かれて、返答を言い淀む。
もし羊に向けるような表情が本来の彼であるなら。学生時代からの接し方で頑なにしてしまった、思うようにしてしまったのは自分にも責任がある。
ついさっきも言われたばかりだ。「できないやつの気持ちなんて考えやしない」と。
「……別にお前が俺を兄に仕立てようと企んでるとまでは思ってない。契約書を読み直して分かってきたが、あれはお前にも、不利すぎる条件で……」
彼がそう言ったとき、図書室の方から軽い足音が近づいてきて、振り返ったヴィンセントは彼は顔を強ばらせた。視線を追ったグラディスは見る前に、高い声に相手を知る。
「――まあヴィンセント、またこんな、こんなところにいて!」
初めて聞くヒステリックと言っていい叫び声に、グラディスは背中をびくりとさせた。ヴィンセントが外したばかりの羊の絵を裏替えしにしてさりげなく壁に立てかける。
「……絵は駄目……絵なんて駄目よヴィンセント!」
「お義母様、どうなさいましたか」
明らかに取り乱した様子の子爵夫人は、夜用のロングドレスに毛皮のコートで着飾っていた。動きに合わせて帽子の羽が踊る。
「母上、会合に行ったはずじゃ……」
「執事があなたが書斎に行ったって言うから来てみたら案の定だわ。やっぱりここは取り壊すべきだったのよ。もう絵を描かないって約束したでしょう」
「描いていません」
「ああ、本邸から取り除くだけじゃ足りなかったんだわ……!」
掴みかからんばかりの勢いで息子に迫る子爵夫人との間に、グラディスは割って入った。
「申し訳ありません、私がたまたまこちらを見付けて、絵の解説をお願いしたのです」
「ああグラディスさん、あなたは分かってくれるわよね? この子は出来が悪いの、絵なんて描いていたらますます父親そっくりになってしまうわ!」
「それは、どういう……」
やめろ、と耳元で優しい声がした。
彼女が顔を見る前にヴィンセントが両手を広げ、さめざめと泣く母親の背中をさするのが見える。
「大丈夫だよ母さん、俺は父さんとは違う」
「……アーロン、戻ってきて……アーロン……」
「領地には行かない。どこにも行かない」
優しくいたわる、聞いたことのない声。今まで母親に向けられるなんて信じられなかったそれが、何故が血を吐くようだとグラディスには思えて――イントネーションが、アーロンそっくりになっていたと気付く。
さするうちに落ち着いていく子爵夫人の喘鳴に喜びが混じり、
「ああ、アーロンは優しいのね」
――今、なんて。
「大丈夫だから、どこにも行かない……絵も……」
グラディスは、固まったままで、自分の目だけが動いたような気がした。深い憎しみと苦痛に塗れた顔が見えた。
社交界のパーティーでは誰一人見せないそれは生々しくて、悲しい。
「絵だって、もう」
白くなった唇の周囲が見えぬ血に塗れているような気がして。
――言わせてはいけない。
衝動のままにグラディスは親子の会話に口を挟んだ。
「……お義母様! この方はヴィンセント様です、きっとお疲れなのです。あちらでお茶にしましょう」
グラディスは床を強く蹴ると、子爵夫人をヴィンセントから引き離して部屋から離れる。
「ああそうね、ヴィンセントだったわね。アーロンはもういないのよ……」
「何かご事情があるのでしょう。お戻りになります」
背中にヴィンセントからの視線を感じる。けれどもし子爵夫人がいなくともきっと、振り返ることはできないだろうと、グラディスは思った。
***
「――これ以上哀れむなよ」
寝室のベッドに身を投げ出したヴィンセントは顔を腕で覆っていた。グラディスはサイドテーブルに温かいお茶を二杯用意し、傍らにチョコレートを置く。着付けにはよくウィスキーが用いられるが、彼が社交が苦手な理由の一つは、お酒に弱いからだ。
「哀れんで……そうですか、分かりましたか」
「兄用の婚礼衣装を着て兄の代わりに結婚式をして、兄用の寝室で待っているのは兄に向けて用意された夜着を着た、兄の花嫁。
確かにうんざりだったが……母に関しては、時間もないから仕方ないと放っておいたら、症状が悪化して……ついに兄さんとの混同をはじめたってだけだ」
「放って、ではなくて、我慢でしょう。契約の外のことは、違法でもないことは、主張しなければ削られていくものです」
「……俺はむしろ、お前の方を哀れんでたんだ。一度も反抗するって考えも思い付かないような」
「哀れな生け贄の子羊?」
「羊は王都の人間が考えるような、大人しい生き物じゃないぞ……」
ヴィンセントが腕をどけると、不満げな顔が見えた。
「気性が荒い種もいる。田舎の人間だって無知で法律に縛られてるんじゃない。知っていたって狡猾で豊かな都会の人間が決めたことに囲われることもあるし、かと思えば身分なんて、殴られてるときは役に立たない」
「殴られたんですか?」
「……喧嘩はした。あれは俺が悪かった」
「素直ですね」
思えば、あの契約書を奪い取って燃やさずにいた、良い意味でも悪い意味でも、隠しごとはあっても向けられる発言に含みがない。変に勘ぐらなくてもいい――そういえば、アーロン相手の時は常に真意を探っていた。
グラディスは目を瞬かせると、寝転がる彼の側に腰掛けた。
「とにかく最初、俺はお前の方が哀れだと思ってた。政略結婚に振り回されるだけな哀れな女の身の上だと」
「……違いましたか?」
「まず、わざわざ契約書を作って身を守った。次に契約書の中身が不利すぎる――俺に少なくない時間を割き勉強を教えて、お前にどんな得がある?」
「あなたから幾らかのお金をいただくときに、払ってもらうものがなくては困りますから」
「それにすぐに兄が戻ってくるならともかく、何年もここにいて子もできなかったら、悪評が立つ。いくら兄だって……再婚の見込みはないんじゃないか」
「再婚できなかったらそれはそれで、家業を手伝えばいいと思っています。私がバセットとの繋がりを強固なものにして、無視できないくらいのものにして」
「兄が戻ってくると信じているか」
「さあ、どうでしょう? 自分だけ助かればいい、と考える人ではないと思いますが……」
グラディスはメモを取り出すと、さらさらと劇団名と演目を描いた。
「例の劇団の公演が終わるのは今月下旬だそうです。その後何らかの接触があるのではと思っていますが」
「そうか……ぶはっ、なんだこれ、踏まれたパンか?」
ヴィンセントは劇団名「セーラス」の演目『嘘つきな羊飼いと三匹の狼』を描いた絵を見て、吹き出した。棒を持ったほぼ棒人間の下を指さしている。
犬のつもりで描いたが、潰れたパンのように見えなくも……ない。
「羊飼いの犬です。……そんなにおかしいですか……もう少し上手く描ければ、仕事でも図面を描いたり、意思疎通が簡単なのにとよく思います」
「……いや、うん。……笑ったのは悪かった」
そう言いながらもまだ口元が笑っている。それが素なのだろうか、無防備でどきりとした。
「お前にも欠点があったんだな」
「私だって人間ですよ。アーロン様にだってありました。誰にも相談せずに決めてしまうところとか――」
「……グラディス、兄が申し訳ないことをした」
笑いを収めたヴィンセントは起き上がると、目を伏せる。
「ヴィンセント様のせいではありません」
グラディスは即座に否定する。
「私とアーロン様の婚約はちゃんと書類になって……契約書は責任の所在をはっきりさせるためのもので、アーロン様の瑕疵が100%。そこにヴィンセント様の名前はありません」
「……ありがとう。……せっかく淹れてくれたんだ、茶でも飲むか」
「淹れ直しますか」
「実は猫舌なんだ」
嘘を言っている風でもなく彼が椅子に移ったので、グラディスもまた向かいに座る。
いつの間にか彼がいつもまとっている、緊張した空気が緩んだようだった。チョコレートを摘まむ様子を眺めながらバセット家に平穏をもたらすための計画を急いで思案し、提案した。
シャムロックは王都の中心部で老舗のデパートを経営している。貴族が商売なんてと蔑まれがちだが、古くからの爵位で用意した高品質な商品の数々は、貴族含めて多くの顧客を抱えていた。
グラディスは支店裏手にある小さな倉庫の鍵を開けると、ここはしばらく空ですから、とヴィンセントを案内する。
倉庫スペースの奥に事務作業用の机もある。窓が少ないおかげで日当たりは良くないが、屋敷のギャラリーに似た雰囲気があった。
「この部屋をシャムロック……いえ、私から、ヴィンセント様個人が借りませんか。水道電気も通っていますし、ここに絵を移しませんか」
貴族は数多の人々に仕えられるかわりに、私室にも寝室にも、掃除が入る。どこにでも人の目があり、口は止められない。
グラディスも侍女が手伝う身支度や毎日の手洗いの様子への注視が、日毎に強まっていると感じていた。頻繁に寝室を共にしているくせに、子を授かる気配がないのだ。
義母はますます不安定になるだろう。医師にかかるようさりげなく勧め、ヴィンセントもエディも同意してくれたが、本人には拒否されていた。子爵は相変らず黙ったままだ。
「俺にはそんなことをしてもらう理由がない」
「ただの賃貸契約です。理由があるとすれば……今ヴィンセント様に倒れられては困ります」
眉をひそめていぶかしそうにしていた彼は、机の上に目を留めた。
「……ちょっと待て、提案してるくせに、もう画材があるんだが」
「ヴィンセント様が馬車で買い物に寄れば、お義母様に誰かが告げるでしょう。シャムロックには私と親しい侍女や使用人がいますから……今のところ手紙までは監視されてません」
「理由になってないぞ。まあ、いいか」
机の上に置かれた真新しい絵の具の表面をなぞっていたヴィンセントは、鉛筆を取ると側にあった小刀で器用に削っていった。
新しいスケッチブックを開き、何事かさらさらと描いていく。あっという間に完成させ見せられれば、絵の具箱の外装だった。
「……すごい、そっくり」
「いい紙だな」
一枚めくり、二枚目に着手する。楽しげに動く鉛筆と、紙とグラディスを行ったり来たりする目線に、
「どうぞ離婚後も、シャムロックをごひいきに」
と微笑めば顔が紙から上がり、初めて微笑が返ってきた。
「お前も相当誤解されやすい性格だな。あの面倒くさい兄さんが惚れるのも分かる気がする」
「……それはないですが」
「契約が終わっても、兄さんが帰って来るまではちゃんと守ってやる。もし兄さんをぶん殴りたいなら、それも味方してやる」
「そこまでお世話になるわけには」
「家族は、怒りたいときは怒れる関係の方がいい」
ヴィンセントの穏やかな声とは裏腹に、その目は何かを見据えていた。
きっと自身では知らない経緯がバセット家の中にはあるのだろう――そうグラディスは想像しつつも、鉛筆を握るペンだこのできた指が、昨日より頼もしく思えた。
***
「――グラディスさん、またお茶会なの?」
あれからしばらくは、表面上は平穏な日々が過ぎた。
バセット家では、朝食は各自の寝室で取っている。しかし昼間は男性陣は不在で、特に用がなければ、夫人と、執事や家政婦と共に来客の対応や細々とした作業をすることになっていた。
「……ヴィンセント様が手がけられたカーペットと、シャムロックで仕入れた、転写磁器の新柄の売り込みを兼ねていまして」
「ええ、もう。それはよく分かってるわ。あんなに不出来だったヴィンセントも契約を取ってこれるようになったのよ。それもあなたのおかげだわ。
でも夜遅かったら夕食に間に合わないでしょう。今日はほら、あなたの好きな子羊のシチューだし。きちんと食べないとほら体力が付かないでしょう?」
最近の小食は、屋敷では食欲が湧かないせいだ。長く食卓を共にしたくない。
最近天気が悪いからでしょうかと、曖昧な笑顔で頷く。
子爵夫人の書斎の机上には、王都の屋敷と、領地から上がってくる報告書が山積みだ。給与に備品に消耗品、食料の収支を確認するだけでも一仕事。
子爵夫人は夫がすべき分――壊れた橋の修繕費用捻出、病が流行れば医者手配など――もテキパキとこなしている。
結婚前から仕事面では尊敬していたが、この有能さがおしゃべりの余裕を生んでいると思うと複雑だった。それに最近では、あえて仕事を夫から奪っている節があった。
「いえねえ、責めているんじゃないのよ。夫は以前から王都の喧噪が嫌いで……領地に帰りたいって聞かないものだから。私も帰らないわけにいかないでしょう? そうなったら二人を置いていくのも心配だから」
「安心して任せていただけるよう、努力いたします」
夫人はどちらかと言えば、領地が嫌いなはずだ。
声に不穏なものが混じらないか注意しつつ続きを待つと、ひどくにこやかな笑顔が向けられた。
「じゃあ期待していいのね? ……やっぱり女の子がいいわね」
「……はい……あの?」
「女の子がいいわ、女の子は裏切らないもの」
美しくにこやかな笑顔は不自然なほどで、グラディスの背筋を冷たいものが滑り落ちる。
「グラディスさんが、捨ててくれたんでしょう?」
「何をでしょうか」
「あのギャラリーに残ってた、ヴィンセントのスケッチブックが幾つかね。昨夜のうちにあそこにあった絵は、全部捨てさせたのよ」
「……子爵は」
「あの人は私のすることに興味がないの。女性にとって政略結婚は、相手が誰でも辛いものよ。特に妻子がいるという体面のために、お金で買われた結婚はね。簡単に約束を破るのに、こちらには破らせないの」
にこやかに、朗らかに。その声にぞくりと怖気が走ると同時に手を取られてひんやりと冷たい感触に驚く。
それでもグラディスは脳裏にあの商売には不向きな、馬鹿正直な仮初めの夫の姿を思い出し、名誉のために反論をする。
無視というなら、義母は長い間、彼を傷付けてきたのではないか。アーロンと比較して、グラディスに指導させ、彼に慰められながら兄の名を呼び……。
「あの、私は……ヴィンセント様は……良くしてくださいます」
「アーロンはあなたを置いていったでしょう」
「……はい。ですが、アーロン様とヴィンセント様は違う人間です。あの方は私を……無言では、置いていかないでしょう」
途端に場の空気が――執事と家政婦の表情が硬くなったのを察するが、言ってしまって正直すっきりしていた。
それなのに。
「……じゃあやっぱり、子供ができなかったのは神の思し召しね。あなただって、帰って来るならアーロンがいいわよね。あなたは我が家の次期当主の嫁として迎えたんだから」
「……お義母様?」
戸惑って周囲を伺うと、執事が口を開いた。
「アーロン様をお見かけしたという者がいます。王都に戻っていらっしゃったのかと。現在、屋敷の使用人が捜索に当たっております」
「そうなのよ。アーロンが帰ってきたらお祝いをしましょう。それから爵位の手続きをして夫を子爵から解放してあげるの。新婚旅行はどこがいい?」
……自身は解放されるだろう、と思っていたグラディスはこみ上げる何かに震える腕を押さえた。
ぐちゃぐちゃの論理展開に彼女は気付いていない――というより、彼女の中では筋が通っているのだろう。けれど、何より嫌だったのは。
「ヴィンセント様のお気持ちはどうなりますか?」
「今まで通りに戻るだけよ」
何故今まで気づけなかったのだろう――グラディスは子爵夫人の美しい睫毛に彩られた目に映るものが、彼女の空想であると知った。
そして同時に、ヴィンセントではなく、自分の気持ちも。
アーロンにどんな事情があろうが、裏切ったことを、全てを押しつけて消えたことを――状況を受け入れたとして、怒っていいのだ。
帰って来ることを、お祝いする気にはなれない。
そして今はもう、アーロンの前にあの夜着で立つことはできない。エスコートされた時の細くしなやかな指にときめきは感じない。
「元には戻りません」
「グラディスさん?」
「元には戻りません――人の気持ちも、苦しんだ記憶も」
見据えて言えば、ふと、子爵夫人は正気に戻ったように目を伏せる。
「……そうよ。でも直視して生きられる強い人間ばかりではないの」
子爵夫人は弱い方なのですか。
そう尋ねようとしたときに、けたたましく扉がノックされたかと思うと従僕が飛び込んできた。執事が諫める間もなく、銀のトレイが差し出され、報告がなされる。
「アーロン様からお手紙が届きました」
「アーロンが!」
トレイに飛びついた子爵夫人は手紙を開き、素早く目を通した。
「――今夜、アーロンが帰ってくるわ!」
***
「ただいま戻りました。子爵。子爵夫人にはご機嫌麗しゅう」
シルクハットが上がる。腰を折り、ライトブラウンの柔らそうな毛がふわりと風に揺れた。燕尾服の尻尾が芝居がかったように広がり収まると、アーロンは手のひらで隣の男性を示した。
「アーロン、今まで何をしてたの!」
3時間も玄関ホールで待機して、扉が開くなり駆け寄った子爵夫人は、ようやくそこで見知らぬ男性に気付いたようだった。
そして、固まる。
呼ばれてグラディスとヴィンセント、エディ――それに遅れてやってきた子爵もまた息を呑んだ。
「諸般の事情で皆さんに事前にご説明できなかったことをお詫びいたします。ですが、彼を見ていただければ一目瞭然ではないかと」
「……帰って!」
子爵夫人は叫びながら、その男性に掴みかかろうとする。その腕を咄嗟にエディが取って後ろに引き戻そうとする。
「落ち着いて母さん。兄さんのことです、深い事情があるのでしょう」
「これが落ち着いていられますか!」
「……入ってもらいなさい」
黙っていた子爵が口を開く。相手は夫人でなく控えていた従僕たちだ。滅多に話さない寡黙な子爵の、落ち着いた低音には諦念と共に覚悟があった。
「あなた」
「誰かアイリーンに別室連でブランデー入りの紅茶を飲ませてくれ。それから、応接間に全員分のお茶の用意を」
強引に連れられていく子爵夫人をグラディスは息を呑んで見送っていると、大丈夫だ、と耳打ちされた。
横目で見ると、ヴィンセントが頷いている。彼は父親の子爵に向き直る。
「ここまでの事態になる前に、手を打てなかったのでしょうか」
「打てなかったから僕がする羽目になった。さあ行こう」
沈黙を守る子爵の代わりに答えたアーロンがまとめるように促す。そう、彼は今まで子爵家の中では旗を振っていた。変わらない。
態度がまるで変わっていないことにグラディスは少し傷付きつつ、同時に、自分は変わってしまったと思った。
「アーロン兄さん」
ヴィンセントに呼び止められたアーロンは来客をエディに任せて子爵の後を追わせると、半身で振り返った。微笑を浮かべる彼に対して、ヴィンセントの表情はひどく硬く、目には怒りがあった。
「ごめん、子爵夫人のことがある。もう少しだけ時間をくれないかな」
申し訳なさそうに眉を上げると、アーロンは応接間へと歩き出す。グラディスはそれを静かな足取りで追った。視線が背中を追いかけてくる。
全員揃った応接間に最後に入ってきたのは、侍女に支えられた子爵夫人だ。扇状に並べられた椅子の先にはアーロンと来客の青年が立っていた。
背丈は長身のアーロンと同じくらい、年齢も同じくらい。撫で付けられた髪の色も眉の形も目の色も、ヴィンセント――いや、バセット子爵にそっくりだ。
「この人は今をときめく劇団「セーラス」のスター、ピーター。大盛況の『嘘つきな羊飼いと三匹の狼』の主役でもある」
「それがどうしたというのです……!」
観客席から子爵夫人が悲鳴にも似た声を上げる。肘掛けにもたれかかるようにして、額を押さえていた。
「――僕はこの人と一緒になりたいんだ」
「……ひっ……!」
彼がピーターの腰を抱き、言い終えるか否かのところで、悲鳴を上がる。気を失って傾いた体を、慌てて侍女が重そうに支えた。恐怖を顔に浮かべたままの母親を一瞥したアーロンは、そのまま冷たい視線を子爵に送った。
「許していただけますか?」
「……全て……分かっているのか」
冷たく静かなアーロンの声音に対し、低く厳かな子爵の声は熱い。
「男同士の道ならぬ恋を叶える――美しいでしょう?」
「駄目だ」
子爵は重い声で、間髪入れずに否定する。
「どうして駄目なのでしょう? 当主は僕じゃなくても良い、迷惑を考えて商売の手伝いなら誠心誠意いたしましょう。それに、隣国は男性同士でも家族になれると言うではありませんか」
「そいつだけは駄目だ」
グラディスは言葉の意味を考える。子爵が浮気をしていて、女性に密かに男子を産ませていた……でも、それでは全ての意味が通らない。
答えが出ないままにしていると、ピーターが口を開いた。朗々たる声がまるで歌のように節を付けて部屋に響く。
「……幼馴染みに恋をした一人の青年は、次期領主になることが決まっていた。身分も性別も、許されぬ道ならぬ恋。気の迷いと彼の姉と情を交わしたが、満たされることはない……」
「ですからどちらかを、身分を満たす没落貴族の娘を、金で買った。恋人の姉には金を渡して育てさせた。
……いいですよ、僕だけなら別にね。偏見も、時代の影響もあったでしょう。貴族の義務を果たすための苦痛の決断なら、僕自身はその選択を恨んでません――子爵夫人に、ちゃんと隠し通してくれてさえいたらね」
「アーロン」
「子爵夫人が僕に執着したのも、領地にいることを嫌がったのも、子爵に似たヴィンセントに当たりが強いのも――子爵夫人がこうなったのは、あなたのせいですよ、バセット子爵」
冷え冷えとした声がアーロンから放たれるのを、グラディスは初めて聞いた。
ヴィンセントもエディも同様だったらしく、目を見開いたまま三人を見つめている。
――やがて低く地を這うような呻きを発して、子爵が立ち上がり、よろけながら部屋を出て行く。
それを合図に男性使用人は子爵に、子爵夫人は侍女とメイドが連れて行ってしまった。
沈黙が満ちた部屋で、それを破ったのはヴィンセントだった。立ち上がり、正面の二人を見比べる。
「……本当にこいつと……義兄弟……と、結婚するつもりなのか」
「アーロン、だからやり過ぎだと言ったんだよ」
ピーターが体を離し、やれやれといった風に肩をすくめると、アーロンは苦笑した。
「結婚はしないけど、演技はするかもしれない。悪かったね、計画は秘密に……それに真面目な彼女を巻き込みたくなかったんだ。二人とも仲良くやってくれていて良かった――っ!?」
「……許さないからな。先に謝るべきだろう。グラディスと俺に」
一歩、ヴィンセントが近づくとアーロンの襟元を掴んだ。
「どういうつもりだったんだ。もう挙式は済んでるんだぞ」
「うん、二人にも苦労をかけたね。ただ……このタイミングしかなかったんだ。ずっとピーターを探して説得していたから」
「せめて大事な女性に、理由を話しておくくらいはできたんじゃないのか? ずっと兄さんのことを待っていたんだぞ」
「本当? グラディス」
掴まれたまま落ち着き払っているアーロンに問われ、はっとしたグラディスは歩みを進めた。ヴィンセントの手首をそっと取った。
「私の代わりに怒って下さって、ありがとうございます」
「グラディス……」
「でも誰かの代わりに、もうならないでください。私は私で怒りますから。ヴィンセント様はどうか、ご自身のために」
ゆっくり力が抜けて、手がアーロンから離れていく。グラディスは安心しつつも手をどこか名残惜しく離す。
「事情は知りたかったですし、帰ってきていただければ、嬉しいと思いましたが……結婚の意味では、どちらでも構いませんでした。お義母様が再度、アーロン様と私を結婚させるとは思っていませんでしたから」
目を瞠るヴィンセントに、誤解させたなら申し訳ありません、とグラディスは頭を下げてから顔を上げ、アーロンを真正面から見返す。
「そんなことになってたの?」
「……でも、もしアーロン様が望まれてももう叶いませんが」
「……そうなんだ。それは少し残念かな」
いいのかグラディス、と横からヴィンセントが目で問う。彼女はいいのですとゆるゆると首を振ってから、にこやかに笑った。
それはもう、にこやかに。
「事情が何であれ、アーロン様が婚約という、私との契約を破られたからです。取引の対象として信用できません」
***
「アーロン様がお戻りになり、私たちの契約は終了しました。ここからは契約外のため、報酬をお支払いします。ご一緒に視察はいかがですか?」
翌日、グラディスは寝込んでいる子爵夫妻を差し置いて、ヴィンセントを外に連れ出した。
ウィンドウショッピングをして、美術館を巡る。最後にレストランで夕食を取り、寝室に戻る。
急遽掛け替えさせた室内の布物をチェックする。色はアーロンが“好きそうな”色でなく、羊の毛色そのものだった。
「今日は如何でしたか」
「……夫婦ごっこで遊びに行くのは初めてだったから、……変な感じがしたな。まあ、久しぶりの休みって感じで悪くなかった。グラディスは……?」
伺うような視線に彼女は同様ですと頷き、彼女は本題を切り出した。
「二人で交わした契約は完了しましたが、結婚は別ですよね」
「そうだな」
「これから私、違約金を払ってでもこの結婚を解消するつもりなのですが、異論はないでしょうか」
「……ああ、それで約束通り、……形だけは元に戻るな」
「アーロン様には、責任を取って次の子爵になっていただくつもりです。……というより、子爵も、お義母様がそうなさるのを止められないでしょう」
ヴィンセントとピーターが父親似である、となれば余計にそうなる。
ヴィンセントの彷徨う瞳に不安がちらつくのを見て取るが、これから続ける台詞を考えれば不安はグラディスも同様だ。
今までのどんな商談よりも緊張していた。喉を鳴らし、言葉を継ぐ。
「そこで、次の契約のお話をしましょう。――この家は、ヴィンセント様にとって毒です」
「……」
「とはいえ、簡単にはお捨てになれないでしょう。両家の繋がりだって必要です。だから――私の婿になりませんか」
目が合った。驚いている、とグラディスは読み取る。不快ではなさそうだ、と思うと何故か胸が少し苦しくなる。
あの時アーロンの前には夜着で立てないと思ったとき、この人の前では講義も寝転ぶことも嫌ではないことを知ってしまった。
「契約書は?」
「……それはまだこれから、ちゃんと話し合ってすり合わせをしてからにしようと思っています」
顔を見られぬように立ち上がる。ぬるめのお茶を淹れ、昼に買ってきたメレンゲやチョコレートを新しい小皿に乗せる。ヴィンセントは見た目に似合わず甘党なのだ。
「……あの……驚かないのですか」
「似たようなことを考えていたからな。その雇用契約書の草案を見てくれるか。作り方は、お前に教えてもらったから」
「え?」
背後に気配を感じて振り向けば、今度はグラディスが驚く方だった。
薄い紙一枚に書かれたそれを受け取れば、簡潔な条件が書かれているばかりだった。
お互いの生活とか、仕事とか、病気の時のことだとか。
結婚式を二人だけでやり直すとか。
「ちょっと待ってください、これ……」
「永年契約のつもりなんだが、不都合があるか」
「……ない……です」
綿で包むような優しい声に、グラディスは語尾が小さくなっていく。契約書を前にしてはあるまじき事態で、冷静さを欠いていく自覚がある。
どこかふわふわとして、熱くなる頬を紙で隠そうとして――頭上から陰が落ちる。顔を上げる。優しく笑う目が合って、もっと欲しいと思ってしまう。
それからゆっくり、頬にあの結婚式では触れなかったものが、触れた。
契約書の草案の最後には、こう書いてあった。
――この婚姻の間は、お互いのみを誠実に愛することを誓います。
7/22 誤字等を若干修正しました。
8/3 以下に、おまけのエピソードを追加しました。
■
※本編に甘さが足りないなと、勢いでつい書いたおまけです。
本編よりも性的に匂わせる表現がありますので、ご注意ください。
「……足りない」
夕暮れの書斎。
目尻を擦りながら、ヴィンセント・シャムロックが書類から顔を上げる。本や書類を積み上げたせいで狭くなった机に何とかペンを置くと、恨めしげな視線を真向かいの妻――グラディスに向けた。
「何がです?」
涼しい顔のまま、素早く書類に目を通していく彼女に一層恨めしげな視線を向けてから、ヴィンセントは立ち上がった。
腰と背中が悲鳴を上げる。朝からずっと座っていたせいだ。
背筋を伸ばしていると、向かおうとした先――グラディスの方がいち早く席を回ってきてしまう。
「数が合いませんか?」
実家のバセット家から妻のシャムロック家に婿入り――結婚し直した彼は、もともと不得意な数字の勉強をまた、最初からやり直すことになった。扱う品目や商慣習がバセットとはまた少々違うからだ。
何度か投げ出したくなった――実際、今までだったら投げ出していただろう――のに諦めないのは、ひとえに、妻の役に立ちたいからだった。
……が。
「そうですね、途中までは合っています。間違いやすいのはこの辺りですが、慣れた人でもよく間違えるのですから、気にしなくて大丈夫――」
細い指先が書類をなぞると、ヴィンセントは息をもう一度吐いて、机の引き出しから取りだしたものを彼女の肩にかけた。
「――羊のショール?」
「この前言ってた羊の毛を取り寄せて、編ませてみた」
「ええ……ほんとうにチクチクしない、素敵な肌触りですね」
「気になったことは、メモして、試してみることにしたんだ。あなたを見習って」
その肩を抱くと、首筋に顔を埋める。ちくちくしないふわふわの毛が、グラディスの首とヴィンセントの頬をくすぐった。
二度目の初夜から、ヴィンセントはお前、と呼ばなくなった。それをグラディスが思い出していると、重ねるようにヴィンセントが続ける。
「試してみないと分からないこともあるしな。……あの時指を刺したのは、早まったかもしれない」
「……その、あれは対外的なものでしたから。どの夜も、ヴィンセント様がとても優しいことに……変わりは……」
グラディスの言葉に恥じらいがこもったのを耳ざとく捉えて、ヴィンセントの片手がそっと腰に回る。
「契約通り、俺はちゃんと仕事をするつもりだ」
「はい、そうですね」
「契約を遂行するには心身の健康が必要だろう」
「それとこの状況にどんな関係が」
「今の俺には、ふわふわなグラディスが不足していると思う」
「……」
グラディスは沈黙の後、体から力を抜いて背中に腕を回すと、ぽんぽんと叩いた。
「……お気の済むまでこのままお付き合いします。でも今夜にはこの書類だけは、終わらせてくださいね。私もまだ自分の仕事を、頑張りますから」
それは、彼女は単に夫を元気づけるつもりの言葉だったのだが。
息を大きく吸うと、体を離したヴィンセントは急いで机につくと、熱心に書類を捲り始めた。
「分かった、今すぐ終わらせる」
「ヴィンセント様、わざと誤解していますね。……あの、笑わないでください」
グラディスは離れる直前に口付けられた首筋に手をやりつつ、頬を赤らめつつ抗議する。
それでも、普段から冷静で、時々弁舌鋭い彼女のその唇の端も恥じらうように綻んでいるのを見付ければ、心を許してくれているのだとヴィンセントには分かる。
――グラディスはほとんど夢を見ない。
朝から晩まで、彼女のシャムロック家の長女としての“やるべきこと”で満たされているから、寝る時間は体の休息と割り切っているのだ。
それに気付いたのは、バセット家で寝室を共にして大分経ってからだ。
というのも、彼女の方が後に寝ることが多かったからだが、はじめは深夜までの仕事と、男の自分を警戒してだろうと思っていた。
そして睡眠を削ってヴィンセントに勉強を教えてくれることには感謝し敬意も内心で払ってきたが――それでもいつしか、安らかに眠って欲しいと思うようになった。
こうやって忙しい日には、特に。
「笑ってないよ」
「笑っています」
「馬鹿にしてるんじゃない。嬉しいだけだ」
抗議しつつ観念したように黙るグラディスに、なるべく自然に笑いかけてからヴィンセントは書類にもう一度目を通す。
今度こそ早く終わらせようと、シャムロックに移った日の、初夜の願いを思い出す。
彼女に触れたいのは嘘偽りのない本心で、我が儘だけれど。
それでも、いくらでも彼女から受け取ってきた自分などにも、あげられるものがあるのなら。
夜に腕の中で、いつもより少し早く寝言を言って。
いつもより少し遅く目を覚ます彼女が、間近でふにゃりと笑ってくれる朝が増えればいい。