第7話 夜宴
出発前、ヴィオレットは煉に服を投げた。
深い黒のシャツ、艶のある革のロングコート。
シンプルながら、明らかに上質な仕立てだった。
裏地には銀の刺繍が走り、光の角度でわずかに文様が浮かぶ。
「吸血鬼の宴には、それなりの“形”が必要なの。」
煉は無言でそれを受け取った。
素直に従ったわけではない。ただ、わかっていた。
今夜、自分は“見られる側”になる。
「……まるで、仮装パーティーだな」
「いいえ、これは“牙を隠す舞台”。」
ヴィオレットの声には、いつものように遊びが混じっていた。
だが、その眼差しは、ずっと真剣だった。
煉がコートのボタンを留めた瞬間、彼女はふっと目を細めた。
「……やっぱり、黒が似合うわね。」
「は?」
「その黒髪。うちの血族じゃ滅多に見ない色。
光の当たり方で青みがかって……ふふ、すごく綺麗よ。」
さらりと告げられたその言葉に、煉は少しだけ口元を引き結んだ。
何も返さなかった。
ただ、彼女の視線が冗談でも命令でもなく、「見ている」目だったことだけは、胸のどこかに残った。
ᛜ ᛜ ᛜ
黒塗りの車が館の正門前に停まると、静かに扉が開いた。
最初に降り立ったのは、ヴィオレットだった。
深紅のドレスコートに身を包み、夜風に銀灰の髪を揺らして立つその姿は、まさに吸血鬼の貴族そのものだった。
次に、彼女の後ろから降りてきた男――神城 煉。
黒のロングコートに、深い色合いのシャツと革の手袋。
その姿は確かに整っていたが、明らかにこの社交の場には不慣れで、場違いでもあった。
しかし――その歩みは、怯んでいなかった。
「背筋は伸ばして。牙は見せないで、でも、怯えも見せないでね。」
ヴィオレットがささやく。
「……命令の仕方に慣れてるな。」
「ふふ、習性よ。」
二人は肩を並べて館の中へと歩き出す。
扉を開けた瞬間、重苦しい空気が二人を包んだ。
そして、音もなく注がれる視線の波――。
それはまるで、「外の世界のもの」が紛れ込んだ異物を見るような、そんな目だった。
煉はその全てを、ただ正面から受け止めた。
表情を崩さず、視線も逸らさず、まるで訓練された兵士のように歩き続ける。
足音だけが、絨毯に吸い込まれていく。
そんな中――誰かが小さく息を呑んだ。
「……あれが、紅姫の連れか?」
「随分と……生っぽいわね。」
囁きが広がる。だが誰も、正面から口に出しては言わなかった。
ただ静かに、空気が――歪んでいった。
会場は、ロンドン郊外の石造りの館。
歴史ある貴族の邸宅を改装したらしい、重厚な柱と深紅のカーペットが敷き詰められていた。
音楽も、笑い声も、ない。
ただ、静かな視線だけが、そこにあった。
その視線のすべてが、一人の女に向かっていた。
「……ヴィオレット?」
「紅姫が……ここに?」
ザワ、と空気が震えた。
そして、もう一つの注目が、その隣に立つ男――神城煉へと向けられる。
「へえ……君の後ろにいるのは、何? ペット?」
サリエル=グレイの声は、氷を砕くような軽さで響いた。
それは冗談のようでいて、絶対に冗談ではない。
彼の一言で、空気がわずかにざわめいた。
煉は無言で視線を向けた。
目の前の男は、噂に聞いた〈灰血派〉の幹部。
その白銀の髪と冷ややかな目、全身に纏う圧が何より雄弁に語っている――これは、只者ではない。
「顔つきはまあまあだけど……血の匂いが薄い。
君、活血はまだか? まさか“処女”のままここへ来た?」
“処女”――それは、力なき未熟者の証。獣の世界では、生存価値すら問われる烙印だった。
笑うでもなく、抑揚もないその声に、周囲の吸血鬼たちがまたひそひそと笑い出す。
下級の者たちは、あからさまにクスクスと。
中位以上の者は、遠巻きに眺めるだけだが、その目には「観察」の色があった。
煉は何も答えなかった。
だが、喉がわずかに焼ける。怒りか、羞恥か――それとも、自分の未熟さへの苛立ちか。
自分が、何を見られているのか、理解している。
――これは、品定めだ。
「黙るだけか。ふうん。
ねえヴィオレット、こんな弱そうな男を“隣”に立たせるなんて、随分と趣味が変わったんだね?」
ヴィオレットは答えなかった。
いや――微笑んでいた。
それは「どう出る?」と問う目だった。
彼女は何も遮らない。
ここでどう動くかは、煉自身に委ねられている。
「……俺はお前の“見世物”じゃない。」
煉の低い声が、沈黙を破るように落ちた。
サリエルの眉が、ほんの僅かに上がる。
その反応を受け、煉は一歩前に出た。
……一瞬、言葉を呑んだ。だが、退く選択肢はなかった。
「黙ってるのは、相手に敬意がないからじゃない。
無駄口を叩く価値があるか、測っていただけだ。」
空気が凍る。
数人の吸血鬼が目を見開いた。
若輩の吸血鬼が、口元を手で覆う。
「処女のまま」――さっきの言葉をなぞるように。
サリエルは数秒黙し、それから静かに笑った。
「ほう……口だけは悪くない。牙がどこまで通じるか、いずれ試してみたいね。」
彼はくるりと踵を返す。
だがその一瞬、目だけがヴィオレットへと向けられた。
「……で? 本当にこの男を“連れて来た”意味があるのかい?
吸血鬼の宴で生き残るには、名前だけじゃ足りないんだよ?」
そのとき、ようやくヴィオレットが言葉を発した。
静かで、けれど場の空気を変えるには十分な声だった。
「この男は、私の“血嗣”よ。」
サリエルの足が、止まる。
「――……なんだって?」
「血を与えた。
そして、選んだ。
“力”を与え、“夜”に生かした。」
その宣言は重く、場にいた吸血鬼たちの目を一斉に鋭くさせた。
「紅姫が、血嗣を持った……?」
「しかも混血……?」
サリエルはわずかに鼻で笑い、肩をすくめた。
「ずいぶんと珍しいことをする。
〈ブラッドアウル(血梟)〉の血は、もっと“純粋な器”にしか与えられないんじゃなかったのかい?」
「だからこそ、選んだのよ。」
ヴィオレットは、煉の胸元――心臟を指す。
「この男は、外見や力ではなく……“ここ”が強い。
私の血は、それに応える価値があると判断したの。」
サリエルは数秒の沈黙の後、小さく笑った。
「……なら、せいぜい噛み殺されないようにね、ヴィオレット。」
そう言い残して、彼は若吸血鬼たちを引き連れ、場の奥へと消えていった。
煉は、ようやく息を吐いた。
全身からじっとりと汗が滲んでいたことに、その時気づいた。
横に立つヴィオレットは、まるで何事もなかったかのように言う。
「ふふ、よく言い返したじゃない。」
「……俺は、別にあんたを守ったわけじゃない。」
「知ってるわ。ただ……見てて楽しかったの。」
その目は、獲物を見る狩人の目ではなかった。
傍らに立つ“仲間”を確かめる目だった。
煉は口を閉ざし、何も返さなかった。
だが、彼の足はもう、この夜の中心に向かって動き始めていた。