第6話 夜の始まりにて
静かな夢だった。
――これは夢だ。俺は、そう理解していた。
けれど、それでもあまりにも現実味があった。
温かさ。体温。呼吸の音。
すべてが、まるで本物のようだった。
ベッドの上。俺の隣にはエミリーがいた。
シーツにくるまって、裸の肩を俺に預けて眠っている。
その吐息が、首筋をかすめてくすぐったい。
「ねえ、レン。いつか海の近くで暮らせたら素敵ね」
彼女が笑いながら囁いた。
「朝、潮の匂いで目が覚めて……あなたがコーヒーを淹れてくれるの」
「……俺、そんなに器用じゃないぞ。」
「じゃあ、練習して?」
「お前の方が、うまそうだろ」
くすくすと、彼女は楽しげに笑い、俺の腕に頬を寄せた。
その肌は、温かく、生きていて、確かに――人間だった。
俺は、そのぬくもりに目を閉じた。
ほんの数秒でも、忘れたくなかった。
けれど、次の瞬間。
夢は、闇に引き裂かれた。
俺は目を開いた。
視界を満たすのは、重たい闇と棺の内蓋。
ヴィオレットに言われて、昨夜から棺で眠るようになった。
「体に合えば、渇きが和らぐこともあるわ」
――そう言って、彼女は微笑んだっけ。
ゆっくりと蓋を押し上げ、身を起こした。
息は、穏やかだった。
心臓も――まだ、打っている。昨日の血の残り香が、内臓に残っていた。
でも、胸の奥の疼きだけは、消えなかった。
エミリーの血を喉に流し込んだ夜から、一晩経った。
それでも、あの感覚は消えない。
……カーライル。
ジェームズ・カーライル。
あいつは、五年間の相棒だった。
背中を預けてきた。命も何度も、救い合った。
信じていた。――心の底から。
なのに、俺の背中に、銃を撃ち込んだ。
なんの躊躇もなく、俺を殺した。
あのときの声が、今でも耳の奥に残ってる。
「お前が誰に手を出したか……わかってないんだな」
……意味が分からなかった。
今も、全部を理解したとは思っていない。
ただ――あいつが「誰か」の命令で動いていたことは確かだった。
それでも、あれだけじゃ足りない。
命令だけで、あんな撃ち方はしない。
あの夜。俺が炎に包まれて死にかけていたあの瞬間。
エミリーは――もう別の男といた。
笑っていた。泣きもせず、祈りもせず。
……あれは夢じゃなかった。
ずっと知っていた。
死の淵から這い出したあの夜から。
でも、認めたくなくて、ずっと目を逸らしてきた。
「……あの二人が、俺を裏切るはずがない」
そう思いたかった。
だけど、今なら分かる。
裏切りってやつは――刃より深く突き刺さる。
背中の銃創はもう消えていた。
でも、胸に空いた穴は……何も埋まらない。
……だから俺は、まだ終われない。
カーライルを撃ち殺しただけじゃ、終われなかった。
誰が、あいつを使って俺たちを壊したのか。
誰が、全てを仕組んだのか――
それを、突き止めなければならない。
⬦ ⬦ ⬦
屋敷の廊下を進む。
薄暗い空間。無機質な静けさ。
でも、慣れてきた。自分がもう“人間じゃない”ことにも、少しずつ。
扉を開けた瞬間、鼻腔に甘い香りが流れ込んできた。
血の匂い。それも、温かい――“今流れたばかり”のやつだ。
視線の先。
カーテンの隙間から薄光が漏れる部屋の奥、
ヴィオレットが椅子に座っていた。
膝の上には、少女。若いメイドだ。首筋には牙の痕。
肩を露わにし、意識はあるのかないのか、力が抜けている。
「……目が覚めたのね」
ヴィオレットの声は、静かだった。
彼女は顔を上げ、俺をまっすぐに見た。
その瞳の奥には、喜びでも興奮でもない、ただ淡々とした“常”があった。
メイドの少女はゆっくりと立ち上がる。
服を引き寄せる手つきはぎこちなく、でも慣れたようでもあった。
そして、俺を一瞥し――まるで“穢れたもの”を見るような目で俺を見た。
……なんだ、その目は。
無言でヴィオレットに一礼し、少女は部屋を出ていった。
「……今の、なんだ」
俺の問いに、ヴィオレットは髪を整えながら言った。
「供血者よ。私専属の。あなたも探すべきね。」
「……冗談じゃない。あんなこと、俺はやらない。
昨夜は……お前の罠に嵌っただけだ。」
「ふふ、そうかしら?」
彼女は笑って、それ以上追及はしなかった。
それどころか、俺の顔をじっと見て――こんなことを言いやがった。
「でもその顔色、ずいぶん綺麗になったわよ。
生きた血を飲めば、こんなにも“映える”のね」
「……話を逸らすな」
そう言って、俺は話題を切り替えた。
「……エミリーは? 約束通り、送ったんだろうな。」
「ええ。記憶を消して、安全な場所に移したわ」
彼女はあっさりと言った。
「私は約束は守る主義なの」
その言葉に、俺は頷かなかった。信じたわけでもない。
ただ、その視線の先を、真正面から見つめ返しただけだった。
「……昨夜のこと。狼人どもと〈血梟〉。
あれは何だったんだ。お前、何を知ってる」
「焦らないで、レン」
ヴィオレットはゆったりと立ち上がり、窓際へと歩いた。
カーテン越しに射す月の光を、ただ遠くから眺めるように。
「真相なんて、そう簡単に現れない。
これはまだ――始まりにすぎないわ」
そう言ってから、彼女はゆっくりと振り返った。
赤い瞳が、俺を射抜く。
「それに……今のあなた、弱すぎる」
「……は?」
「こんな状態で、“彼ら”に会わせるなんて無理よ」
「“彼ら”?」
まさかと思いながら問い返すと、彼女は淡く笑った。
「吸血鬼たちの“内側”。
五大血族。あなたが人間だった頃、追っていた者たちよ」
その瞬間、全身が強張った。
「……知ってる。だが、断片だけだ。
中枢までは――誰もたどり着けなかった」
何人もの同僚が、情報を探って消えた。
名前も残らず、痕跡も断たれて。
「……そんな連中と、同じ場所に立てって? 冗談じゃない。
それって、ただの――自殺だろ」
怒りというより、吐き捨てるような声だった。
けれど、ヴィオレットは静かだった。
「それなら、ここで終わっても構わないわ」
「……なんだと」
彼女は俺の目の前に立ち、
ほんのわずかに、手を胸元へ添えて言った。
「ここで私に壊されてもいい。
でもあなた、自分で言ったじゃない。
“真実が知りたい”って」
彼女の声は、怒りではなく――冷静だった。
「カーライルはただの駒。
あなたを殺したのも、裏切ったのも、もっと深い闇の命令よ」
「……っ」
「その敵に迫りたいなら、あなたはこの“世界”に踏み込まなくちゃいけない」
黙るしかなかった。
全て正論だった。
「……で、どこに踏み込むって言うんだ」
俺が問うと、ヴィオレットは妖艶に微笑んだ。
「今夜、〈夜宴派〉が社交会を開くわ。
〈灰血派〉、〈月蝕盟〉の上位も顔を出す予定よ。
私たちは、そこで――挨拶をするの」
吸血鬼社交界。
まさか自分が、そんな場に足を踏み入れる日が来るなんて。
「……また俺を弄ぶ気じゃないだろうな」
「信じなくてもいいわ。
でも、“そこ”に行かない限り、何も始まらない」
ヴィオレットの声は、どこか遠くを見つめるようだった。
逃げる理由はもうない。
このまま黙って終わるつもりもない。
だから俺は、彼女の視線を正面から受け止めて言った。
「……なら、行こう。
牙を研ぐ場所があるなら、見せてくれ」
吸血鬼たちの“夜宴”。
――人間で言えば、そう……地獄の舞踏会だ。