第5話 牙を隠した愛
石の階段を下りるたびに、空気が変わっていった。
湿気、鉄の匂い、そして……どこかで嗅いだ“命”の気配。
ヴィオレットの後ろ姿が、まるで儀式に導く神官のように思えた。
俺は何も言わず、その背を追う。
地下室は狭く、寒く、静かだった。
壁は厚い鉄板で覆われ、床はコンクリート。
人工の冷気ではない、地の奥から滲み出るような死の気配が漂っている。
中央には一脚の椅子。
女が座っていた。
拘束され、うなだれたその姿に、俺は息を呑んだ。
頬はこけ、唇は血の気を失い、目は虚ろで焦点を結んでいない。
だが――
「……Emily……?」
無意識に声が漏れた。
脳のどこかが強制的に過去を引きずり出した。
――彼女だった。
俺が、死ぬ前まで、愛していた女。
反射的に足が前に出た。
だが、ヴィオレットが手を伸ばし、肩を押さえた。
「視えない。聞こえない。痛みも感じない。
感覚はすべて奪ってあるわ。……でも、生きてる。」
その声は冷たかったが、どこか慎重だった。
「……なんで、こいつを……!」
問いかけは、喉を震わせるだけで、怒声にはならなかった。
怒りとも、驚きとも違う、もっと曖昧で、醜いものが胸に湧いていた。
「あなた、ずっと彼女を探してたわよね。」
ヴィオレットが静かに言う。
その声音には、試すような響きがあった。
「……彼女は、あなたが死んだ夜に消えた。
悲しんだ様子もなく、翌日には別の男と暮らし始めた。」
「……嘘だ。」
「違う。あなたの仲間から報告が来てたはずよ。
それでも、あなたは信じようとしなかった。」
俺の喉が焼ける。
心臓が止まっているのに、胸が痛む。
「……やめろ。」
「いいえ、ちゃんと見て。これは、あなたの“清算”よ。」
ヴィオレットが傘の先を音もなく床に滑らせながら言った。
「その女が、あなたを壊した。
なら、あなたも――壊し返せばいいじゃない。」
俺は彼女の顔を見る。
そこに残酷な喜びはなかった。
あるのはただ、観察者の静かな瞳。
この結果を、ただ“確かめようとしている”目だった。
ヴィオレットの意図に、ようやく気づいた。
──最初から、これが狙いだったんだ。
「……吸えない」
声がかすれる。全身が震えていた。
鼻腔に甘い匂いが満ちる。生きた血の、熱く濃密な香り。
喉が焼ける。胃が軋む。視界が霞む。
理性が警鐘を鳴らすのに、身体はもう従おうとしない。
ヴィオレットがエミリーの手を持ち上げ、爪でそっとなぞる。
「やめろ……!」
鋭い音と共に、手の甲に浅い傷が走り、すぐに血が滲んだ。
たった数滴。それだけで、部屋の空気が一変する。
生きた血。鉄の匂い。塩の熱。
まだ温もりを残す“命”の匂い。
「吸いなさい、レン。渇きは本能よ。否定しても消えない」
ヴィオレットの声が耳元で囁く。
「……一口だけなら」
言葉が出た瞬間、自分の声がひどく乾いていたことに気づく。
俺は、エミリーの手を取った。
冷たい指先。だが、血の匂いだけが異様に熱い。
唇を寄せ、舌先で血を舐めた――
その瞬間、熱が全身を駆け巡る。
たった一口。
それだけで、本能が目を覚ます。
甘い。熱い。濃い。
パックや獣の血では届かなかった“なにか”が、そこにある。
もっと。もっと欲しい。
「そんな優しさじゃ、いつまで経っても半端なままよ」
ヴィオレットが、エミリーの首を指差した。
「二年前、私があなたを起こした時みたいに。牙を、命に突き立ててみなさい」
喉が詰まる。あの夜、自分が“喰われた”記憶が甦る。
俺に同じことをしろと? エミリーに?
「彼女は俺を裏切った。けど……こんなやり方で、終わらせたくない」
震える声でそう言った。だが――
「終わらせたくない? なら、吸ってみなさい。彼女の血が、“真実”を教えてくれるわ」
……血が、真実を?
意味がわからなかった。
それでも――
俺が知りたいのは、ただひとつ。
彼女を……救えるのか。
「……吸えば、彼女を解放するんだな」
「ええ、約束するわ」
俺は、再び彼女の手を取る。
渇きが、理性を蝕む。ほんの一口。それで終わりだ――そう思った。
唇を寄せ、舐める。
指先から舌先へ――血が触れた瞬間、すべてが変わった。
熱。火傷のような熱が、喉を、胃を、魂を焦がす。
欲望が暴れ出す。
もっと。もっと――。
だが俺は、ギリギリのところで手を放す。
「……ダメだ。これ以上は――」
その時、ヴィオレットがエミリーの首を露わにし、再び囁く。
「レン、優しさは毒よ。本能を、解き放ちなさい」
「……くそっ……!」
俺の中の何かが、ついに切れた。
牙を剥き、彼女の首に突き立てる。
血が溢れ出す。
その瞬間、全身に衝撃が走る。
そして――視界が、白く塗りつぶされた。
押し寄せる、異なる記憶。
笑うエミリー。別の男の腕の中。
あの夜、俺が死んだ夜、彼女は涙も流さずに微笑んでいた。
「……っ、なぜだ……!」
裏切りの記憶が、血を通じて脳裏に刻み込まれる。
怒りと、痛みと、喪失と……
喉が裂けるほどの渇きが、理性を切り裂いていく。
……止まらない。
もっと。全部。飲まなきゃ。
「……っ!」
それでも――
「――もういいわ、レン」
ヴィオレットが強い力で、俺を引き剥がした。
口元から血が垂れ、息が乱れた。
俺は、その場に膝をついた。
「……っ! な、に……!」
息が切れる。
口元から、血が滴る。
胸が痛む。
心臓が――動いていた。
確かに、打っている。
ドクン、ドクンと。
止まっていたはずのそれが、いま鼓動を刻んでいた。
痛みと、歓びと、罪悪と、快楽。
すべてが混ざり合い、頭の奥で何かが壊れる音がした。
そのとき――
ヴィオレットが、音もなく俺に近づいてくる。
しゃがみ込み、彼女の手が俺の顎をそっと持ち上げた。
「……ほら、牙もちゃんと出せたのね。」
彼女の指が、俺の尖った牙に触れる。
なぞるように、その形を確かめながら、うっとりと笑った。
「立派だわ、レン。」
口元の血を指で拭い、そのまま自分の唇へ運ぶ。
舌先で静かに舐め取る様は、まるで儀式のようだった。
「……やめろ……」
「俺は……化け物だ……」
その言葉に、彼女はくすりと笑う。
「ふふ……ええ、そうね。
活きた血を吸ったら、死んだはずの心臓が動き出す化け物。
血を渇望し、快楽に抗えない存在。
それが、“私たち”。」
彼女は、俺の胸元に手を当てた。
「おかえりなさい、レン。
これが、あなたの“種族”。
あなたの“本能”。」
俺は視線をそらした。
胸の奥で、まだ心臟が鳴っている。
規則的ではない。むしろ、獣のように荒い。
でも、それが――生きている証だった。
「……お前は、最初からこうするつもりだったんだな。」
「もちろん。最初から、あなたに選ばせるつもりだった。」
「選ぶ、だと……?」
「ええ。“人間のまま死ぬ”か、“吸血鬼として生きる”か。」
血が喉を流れた感覚が、まだ残っていた。
熱くて、重くて、生々しすぎる。
これが……俺が“飲んだ”命。
しかも、自分が愛した女の。
――最低だ。
なのに、心臓は止まらない。
まだ興奮が残っている。
牙は引っ込まず、渇きの残響だけが耳に残っていた。
俺は立ち上がった。
重い体を引きずりながら、ヴィオレットを見た。
「……お前のやり方は、気に入らない。」
「ふふ。知ってるわ。」
「信じてるわけじゃない。
だが……俺には力が必要だ。」
「カーライルは……“使われた”だけだった。
あいつの背後に何があるのか、確かめなきゃならない。
このままじゃ……何も終わらない。」
ヴィオレットは目を細め、わずかに微笑んだ。
「いいわ。やっと“牙を研ぐ気”になったのね。」
「……だが忘れるな。俺はお前の玩具じゃない。
必要だから、学ぶだけだ。」
「ええ、もちろん。」
彼女はひとつ肩をすくめ、傘を手に取る。
「じゃあ、始めましょうか。
あなたの“夜”は、まだ始まったばかりなんだから。」
俺は一度だけ、エミリーに視線をやった。
彼女はまだ虚ろな目で、天井を見ていた。
過去は終わった。
だが、復讐は――まだ、これからだ。