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第4話 紅に染まる夜

「……あなた、今にも崩れそうね。」


 テムズの霧が薄れ、夜の潮騒だけが耳に残る。

   倉庫の残骸に背を預け、俺は呼吸を整えていた。


 傷は塞がっている。

   だが、身体の奥に黒い穴があいているような……そんな感覚がある。


 ──足りない。

   何かが、足りない。


「さっきの“血影”、よく耐えたわね。」

 ヴィオレットが傘を閉じ、こちらに歩み寄る。

   その赤い瞳が、静かに俺を射抜いていた。


「私の天賦に触れたの。

   代償として、“渇き”が始まる。そういう力よ。」

 .

 渇き──その言葉を聞いた瞬間、喉が焼けるように乾いた。


 鼻腔に、鉄と灰の匂い。

   目の奥で、なにかが脈動する。

   血を、求めている。


「教えて、レン。」


「……何を。」


「この二年、どうやって渇きを凌いできたの?」


 俺は目を伏せる。

「……血液パック。あと、動物の血も少し。」


 ほんの一拍の静寂。

   次の瞬間、ヴィオレットの唇が歪む。


「ああ、なるほどね。だから今にも倒れそうなの。」


「……黙れ。」


「動物の血? ふふっ、それじゃあ下等な雑食獣と変わらないわね。」


「……お前に何が分かる。」

 声が低くなる。怒りか、羞恥か、自分でもわからない。

   ただ、喉の奥がひりついて仕方なかった。


「この二年、お前は何もしなかった。

   俺を放っておいた。今さら口出すな。」


 ぶつけるように言い捨てる。

 彼女の視線が鋭くなった気がしたが、俺は構わず言葉を続けた。


「俺がどうやって生き延びたかなんて、お前には関係ない。」


「そうかしら?」

 静かに返ってくる声。

   けれど、その声には確かに、微かな寂しさが混じっていたように思えた。


「お前がいなくても、俺はここまで来た。……誰の助けも借りずにな。」


 鼻先に、血の匂いが入り込んでくる。

   熱く、甘く、刺すような香り。


 それが戦場の残り香か、それともヴィオレット自身のものか……

   判断できない。


   ただ、胃の奥がうずくような、圧倒的な“渇き”。


『もっと近くにある。触れられる。飲め。』


 頭の奥で、何かが囁く。

   心臓は止まっているはずなのに、今にも鼓動しそうな衝動がある。


 ヴィオレットは俺をじっと見つめていた。

   視線に憐れみはない。ただ、観察と──どこか、喜び。


「いいわ、レン。」

 彼女は微笑む。その笑みは、慈悲ではなく試練のようだった。


「──本物の“血”を、見せてあげる。」

 ヴィオレットは踵を返し、傘の石突を音もなく地に滑らせながら歩き出した。


 ──次の瞬間、世界が傾いた。

 足がもつれたと思った瞬間、視界が崩れ落ちた。

   光も、音も、すべてが遠ざかる。


「……あら。」

 遠ざかる意識の中で、ヴィオレットの声だけが妙に近かった。


「いいわ。今日は、ちゃんと“準備”してあるから。」


 ⬦ ⬦ ⬦


 目を覚ましたとき、空気が違っていた。


 普通の部屋の匂い。木の床と古い本のほのかな香り。

 空気が重く、胸が何か見えない重さで押し潰されているようだった。


 俺はソファに寝かされていた。

   全身がだるくて、起き上がるだけでも骨が軋む。


   ……最悪だ。


「起きたのね。」

 声がして、顔を向ける。

   ヴィオレットが椅子に座っていた。脚を組み、こちらを見下ろしている。

   赤い外套と銀髪。その姿だけで、空気が冷える気がした。


「……どこだ、ここ。」


「私の屋敷。郊外の静かな家よ。

   霧の中に沈んでいて、誰も干渉してこない。」


 彼女はテーブルの上の血液パックを指で押し、かすかに笑った。


「倒れたあなたに、これを飲ませたわ。

  “お気に入り”だったんでしょ? 薄くて冷たい、あの味。」


 俺は返事をしなかった。

   ただ、ソファから上体を起こし、天井を睨む。

   眩暈はもう引いていたが、胃の奥に何かが残っている。


「……勝手なことを。」

 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。


「ええ。勝手にしたわ。」


 あっさりとした返事。

   怒る気も失せる。

   体も、気持ちも、まだ芯まで戻っていない。


 ヴィオレットは紅茶を一口啜ったあと、ふっと視線を外した。


「でも、あなた自身が選んだ結果じゃないかしら?

   渇きに耐えて、力を拒んで、それでも復讐だけを抱えて――」


「……うるさい。」


 短く言い捨てる。

   彼女は構わず、話を続ける。


「“生きたい”って言ったでしょ?

   あの火の夜、あなたはまだ、何かを終わらせたくなかった。」


「……。」


 確かに、あの夜、俺は生を選んだ。

   でも、それが正しかったのか、いまはもう分からない。


「無理に立っていなくてもいいわよ。」

 ヴィオレットは立ち上がると、傘を手に取った。


「そろそろ、“逃げずに見るべきもの”があるの。」


「……は?」


「あなたが清算すべき、“もうひとつの夜”。

   連れていってあげる。」


 傘の石突が床を叩く音が、やけに響いた。


 俺は立ち上がる。

   本能は「行くな」と言っていたが、足は止まらなかった。


 ──俺は知っている。

   ヴィオレットが“何か”を仕掛けていることくらい、わかってる。


 けど……知りたい。

   あの夜から、どこで間違ったのか。

   俺の人生が、どこで終わって、どこで狂ったのか。


 俺は、無言でその背中を追った。

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