第26話 牙と血の檻
「こいつ……少し厄介かもしれないな」
煉は、唸るように言った。
赤い目を爛々と光らせた暴走体の狼人は、ただの獣ではない。
その気配は濁っていて、異常に膨れ上がった“殺気”に満ちていた。
「リサ、ここは俺とフェンリスでやる。お前は下がってろ」
「……またそうやって、人のこと後回しにするんだから」
リサはわずかに眉を寄せ、煉を見上げた。
けれど、口には出さなかった。
彼女は煉のそういうところを、誰よりも知っていた。
だから――ただ一つ、静かに頷いた。
「わかった。気をつけて。……無事で戻って」
煉は応えず、フェンリスの隣へと歩み出た。
「さて――こっからは、獣の時間だな」
フェンリスが低く笑い、喉の奥から音を立てる。
その瞬間――彼女の姿が、変貌する。
筋肉が膨張し、灰色の体毛が肩から全身へと広がっていく。
足元は完全に狼の四肢となり、牙が、骨ごと変形するように伸びる。
背丈は二メートルを超え、空気がその存在に怯えるように震えた。
「こっちも、全力でいくよ――クソ犬!」
暴走体とフェンリスが激突した。
壁が一瞬で砕け、ふたりの巨体が鉄の檻ごと隣室へと吹き飛ぶ。
「っ――!」
煉は瞬時にリサの肩を叩いた。
「今だ。資料を持って、退け! ここは俺が追う!」
リサは即座に走り出す。その背に、煉は迷いなく飛び込んでいった。
◇ ◇ ◇
瓦礫と煙に包まれた隣室――
床には鋼材がめり込み、壁には巨獣の爪痕が深く刻まれている。
フェンリスは吠えながら、暴走体と肉弾をぶつけ合っていた。
互いに爪が深く刺さり、血が噴き出しても――すぐに、再生する。
この戦いは、技術ではなく「どちらが先に力尽きるか」の勝負だった。
だが、煉は異変に気づく。
(……おかしい)
フェンリスの再生が――遅れている。
気配が、鈍ってきている。
煉の目が、その爪に向いた。
黒く鈍く光る、人工的な金属。
「……銀爪、か」
狼人の急所――“銀”。
フェンリスにとって、それは毒だった。
どれだけ自癒能力があろうと、銀を喰らえば追いつかない。
「フェンリス――!」
煉は一歩、前に出た。
視界に、フェンリスの左腕が弾け飛ぶ。
彼女の身体が揺らぎ、壁に叩きつけられる。
「……く、そ……っ」
フェンリスの唇がかすかに震えた。
「くそ……まだ終わってねぇ……!」
煉の奥歯がきしむ。
(――このままじゃ、持たない)
彼の中に、熱が灯る。
背を這うような、危うく高鳴る脈動。
血が騒ぐ。
(……来る。いつものやつだ)
この感覚を、煉はもう知っている。
“使う”と決めた時、心の奥で何かが目覚める――
それは、自分の中の“人間”が遠ざかっていく音。
(……だが、今は――)
迷いを押し殺すように、拳を握る。
その中で、紅の霧がほのかに立ち上る。
それは、「人間」ではなくなった者たちの、夜の死闘の始まりだった。
「フェンリス――下がれ。ここは、俺がやる」
その一歩を踏み出す直前。
背後から、かすれた声が飛んできた。
「……おい、吸血鬼」
フェンリスが、かすれた声で煉に言った。
「お前、銀に弱いんじゃなかったか? ……私より、よっぽど脆いだろ」
煉は振り返らなかった。
ただ静かに、一歩、前へ出る。
足元に広がる彼女の血――
その一滴を、指先で掬うように拾い上げた。
(……借りるぞ)
そして、ゆっくりと息を吸い込む。
紅。
彼の視界が赤い霧に包まれる――いや、違う。
これは霧ではない。
これは、意志だ。
霧は薄く、澄んでいた。
敵の気配が、鮮やかに立体的に浮かび上がる。
(――はっきりと、見える)
煉の身が、霧に溶ける。
衣服が揺らぎ、姿が掻き消えるように消えた。
「なっ……」
フェンリスが、目を見開く。
「お前……そこまで出来たのかよ。……競技場じゃ、手ぇ抜いてたな?」
肩の傷を押さえながら、笑うフェンリス。
だが、その目は真剣だった。
煉の気配が、暴走体の背後に移動する。
銀爪が振るわれる――しかし、それはただ霧を裂くだけ。
(……これはもう、“敵”だ)
煉の胸の奥に、静かな決意が宿る。
完全に理性を失い、銀の武器を備えたこの暴走体。
自分も、フェンリスも、長くは保たない。
(……生け捕りじゃ、無理だ)
(――仕留めるしかない)
そう呟いたとき、煉の手の中にはすでに一本の短剣が現れていた。
血族の印が刻まれたその刃――
ヴィオレットの血を媒介に打たれた、紅く淡く輝く銀の短剣。
次の瞬間、紅の一閃が、闇を裂いた――。
「――ッ!」
暴走体が咆哮するより早く、
煉の短剣が、暴走体の心臓を正確に貫いた。
鋼のような肉体が軋み、
刹那、暴走体が膝をつく。
闇が、静かに崩れた。
煉は立ったまま、深く息を吐いた。
その吐息は熱く、しかし、どこか冷えていた。
(……これが、“俺”の戦いか)
彼の背後、フェンリスがゆっくりと起き上がり、ぽつりと呟いた。
「……やっぱ、あんた、ただの子猫じゃねぇな」
煉は、答えなかった。
ただ前を向いたまま、静かに短剣を鞘に戻した。
――闇はまだ終わらない。
けれど今、確かにひとつの夜を、彼は乗り越えた。
瓦礫の散らばる廊下を、煉は静かに歩いた。
その腕の中には、小さくなったフェンリスの姿があった。
さっきまでの野性を剥き出しにした獣の姿は消え、
今はただ、血にまみれ、意識の途切れた――小さな少女のような姿に戻っていた。
彼女の呼吸は浅く、体温も下がっている。
だが、かすかに胸が上下していることが、まだ“生きている”ことを証明していた。
「……もう少しだ」
誰にともなく呟き、煉は夜の冷気を踏みしめて、地上への階段を上がる。
やがて、研究施設の出入り口――夜明け前の空が、かすかに光を帯び始めた頃。
彼は、待っていたリサの車の前にたどり着いた。
「おかえり」
リサの視線は煉の腕の中へと向かう。
「フェンリス……その傷、大丈夫なの?」
フェンリスは瞼をうっすらと開け、苦笑のような顔を浮かべて呟いた。
「平気……寝たら治る……あたし、そういう風に作られてるから……」
「……そう」
リサは優しく頷くと、後部座席を開けて煉に合図した。
煉は無言で頷き、そっとフェンリスを後部座席に寝かせる。
遮光シールドの内側――そこは、夜にしか生きられない者たちの“眠りの箱庭”。
彼はまだ乗り込まず、車の横に立ったまま、フェンリスの眠る後部座席を見つめていた。
リサは運転席に身を戻す前に、ふと足を止め、煉に向き直る。
「煉……」
リサの声音が、ほんの少しだけ、慎重だった。
それは彼女なりの“気遣い”の形。
「顔が……すごく疲れてる。大丈夫?」
煉はゆっくりと顔を上げた。
視線の先にあるのは、リサの茶色の瞳。
穏やかで、真っ直ぐなその光が、一瞬だけ、煉の胸を揺らす。
(……リサ。お前も――)
喉元まで込み上げた言葉を、煉は飲み込んだ。
(いつか、俺を裏切るのか……)
(エミリーも、カーライルも……信じていた。
それでも、結局は――それぞれの理由で、俺を裏切った)
あの夜の残滓が、血の奥に沈んだまま、今もなお感情の深部を鈍く抉り続けている。
これは、疑いではない。
――恐れだ。
信じるという行為そのものが、今の煉にはあまりにも脆く、危うく思えた。
誰かに心を預けることが、まるで足場のない空中を歩くように感じられる。
一歩踏み出すことさえ、怖い――そう思ってしまうほどに。
煉は、わずかに首を振った。
「……何でもない。少し、考え事をしてただけだ」
リサはその答えに、ほんの一瞬だけ眉を動かした。
けれど、それ以上何も聞かなかった。
代わりに、微かに頷いて、運転席へと戻る。
煉はようやく車内に滑り込み、そっと扉を閉める。
遮光ガラスの向こうで、外の空がわずかに白んでいく。
もうすぐ夜が明ける。
けれど、彼の中の闇は――まだ、晴れそうになかった。




