第24話 檻の中で
研究施設――それは外から見る以上に、深く、古く、そして静かだった。
金属の通路に足音が反響する。
警備は最低限に抑えられており、それがかえって異様さを際立たせていた。
「……本当に稼働してるのか、ここ」
リサが小声で呟き、拳銃を両手で構えたまま先を窺う。
フェンリスはまるで本能のままに、残された扉を破り、ガラスを割り、金属製の檻を引き裂いていた。
「……暴れすぎじゃないか」
煉が、横目で彼女を見ながらぼそりと呟く。
「いいのよ。放っておきなさい」
リサは冷静に言った。
「……この様子を見るに、ここはすでに“表向き”には放棄された場所よ。警備も少ないし、最新のセキュリティも見当たらない。
たぶん、実験は別の場所に移されてるわ」
煉は黙って頷きながら、足元の器材に目を落とす。
金属の冷たい棚に並ぶ、試験管とラベルの剥げた薬品瓶。封の切られた記録ファイルの束。
どれも、少なくとも数週間は手入れされていない。
「……でも、完全に止まってはいない。痕跡が新しすぎる」
煉は指先で一枚のメモをつまみ上げ、焼け焦げた端をじっと見つめる。
「記録の一部は持ち帰れるかもしれない。回収できるだけ回収して――」
「待って、動いた」
フェンリスが唐突に鼻をひくつかせた。
「……生き残り?」
煉とリサは即座に顔を見合わせる。
「この匂い……!」
フェンリスは怒りを帯びた声で唸り、次の瞬間には通路の奥へ駆け出していた。
「おい、待て!」
煉とリサもすぐに後を追う。
廊下の先――倒れかけた金属棚の裏に、ひとりの男が隠れていた。
フェンリスはその前に立ち塞がり、爪を突きつける。
「動くな……!」
男が怯えたように両手を上げたそのときだった。
「……神城煉……?!」
男の目が見開かれ、震える声で煉の名を呼んだ。
煉の足が止まる。
男の顔が、薄暗い非常灯に照らされる。
その瞬間、煉の心臓がぎゅっと軋むように跳ねた。
「……お前……!」
その顔。
その声。
その目の奥に浮かんだ笑み。
それは――エミリーの血の記憶に焼き付いていた、“あの男”と、まったく同じだった。
(……こいつ……エミリーの……!)
あの夜、吸った血の中に流れ込んできた光景――
女の背中を抱く男の腕。
交わされた笑い声と、微かな吐息。
(なぜ……あのとき、あいつの中に――)
視界が赤く染まる。
怒りと混乱と、理解したくない感情が、煉の胸を締めつけた。
リサが、異変に気づいて声を上げる。
「煉!? しっかりしなさい!」
しかし――その一瞬の隙に、フェンリスが唸り声を上げ、男の脇腹へ鋭く爪を突き立てた。
「やめろッ!!」
煉の声が響く。
「……こいつは――殺すな」
煉がゆっくりと前に出てくる。その目に宿るのは、怒りとも悲しみともつかない、どこか凍てついた決意。
フェンリスは唸りながらも手を止める。男の脇腹からはじわじわと血が流れ、床に染みを広げていた。
煉はその前にしゃがみ込み、睨みつけるように男に顔を寄せた。
「……聞きたいことがある」
声は低く抑えられていたが、その奥に確かな熱がある。
「お前……エミリーと、どういう関係だった」
男の瞳がわずかに揺れる。だが、返ってきたのはかすれた吐息と、血の泡混じりのうめきだけだった。
口を開こうとしても、声にならない。
「……チッ」
煉は小さく舌打ちした。
(もう、時間がない……)
「仕方ない……なら、俺が“見る”しかない」
彼は拳を握りしめて立ち上がり、肩越しにリサへ振り返った。
「こいつの血を――俺が吸う」
「……!」
リサは驚いたように目を見開く。
煉は言葉を続ける。
「知りたい。エミリーがなぜ……裏切ったのか」
「……それが、俺の“死”の理由に繋がる気がするんだ」
そして、彼は男の首元に手を伸ばす――
(吸う。この血の奥に、答えがあるなら――)
煉は黙って男の首元に顔を近づけた。
肌の温度が急速に落ちている。けれど――まだ、間に合う。
「……すまないな。だが、これは俺のためだ」
低く呟き、牙を立てる。
皮膚を割り、血が流れ出す。
その瞬間――
世界が、反転した。
◆ ◆ ◆
視界が揺れる。
次の瞬間には、俺は「彼」の眼を通して世界を見ていた。
白い天井。
古い蛍光灯の、じんわりとした明かり。
横たわるベッドの感触。俺は……いや、彼は、シーツの上に寝転んでいる。
視線の先。
バスローブ――いや、タオル一枚を身体に巻いた女が立っていた。
エミリー。
濡れた髪から水滴を落としながら、いつもの笑顔でこちらを見ていた。
「……ねえ、もういい加減にしようよ」
声が出る。
けれど、それは俺のものじゃない。
低く、吐き捨てるような男の声。
「いつまで“あの神城煉”のそばにいる気だ?」
エミリーは一瞬、目を細めた。
だがすぐに、肩をすくめてベッドの縁に腰を下ろす。
「しょうがないでしょ。あれ、任務なんだから」
男は息を吐く。
苛立ちが滲んでいる。
「……あんな奴と一緒にいるの、気が狂いそうだって言ってただろ?」
「まあ、確かにちょっと鬱陶しいときもあるけど……」
エミリーはわざとらしく唇を尖らせた。
「でも、顔は悪くないし。意外と丁寧だし。……それに、ベッドの相性も悪くなかったよ?」
「っ……」
「ふふ、嫉妬?」
エミリーはからかうように笑いながら、タオルの端を少しだけ整え、肩を揺らす。
その無防備な仕草に、男の視線が一瞬だけ逸れた。
そして――ベッド脇のテーブルにあった、一冊のファイルへと目を向ける。
「……お前も、任務のことばっかりじゃないか」
男が立ち上がる。
次の瞬間、視界が揺れる。
肩を引かれる感触。タオルの匂い。
エミリーの身体が、すぐそばに――
――そこで、視界が崩れた。
音が遠ざかっていく。
赤い霧のような、感情の残響だけが胸に焼きついたまま――




