第23話 夜を待つものたち
車は山道の脇に静かに停まっていた。
エンジンは切られ、辺りには鳥の声すら届かない。
ただ時間だけが、緩やかに流れている。
煉は、遮光カーテンの裏で身を起こし日ていた。
前席との間の仕切りは閉じられ、ここはまるで独立した小さな箱庭のようだ。
「……もう着いたのか?」
暗がりの中、煉は低く声を投げた。
「え? 起きてたの?」
前席からリサのやや驚いた声が返ってくる。
「てっきり、吸血鬼って日中は強制的に寝るもんだと思ってたけど?」
「……普段ならな。日が昇ると身体がだるくなる。寝てないと回復力も落ちるし、頭も回らない」
煉はそう言いながら、自分の腕に視線を落とした。
その腕には――フェンリスが、ぴったりと抱きついていた。
まるで子犬のように煉の肩に頭を乗せ、両手で彼の腕を抱きしめて離さない。
呼吸は穏やかで、時折ふにゃっと甘えたように顔を擦り寄せてくる。
「……」
煉はもう抵抗するのをやめていた。
初めは何度か引き剥がそうとしたが、そのたびに彼女は寝ぼけたように「ぐるる……」と唸り、さらに強く腕を締め付けてきた。
(……こいつ、なんなんだ)
苛立ちではなく、ただ困惑だった。
だが、ふと頭に浮かぶ。
――あの血の記憶。逃げ惑い、傷だらけになり、咆哮し、繋がれた夜。
(……あのあと、俺の中の何かが……変わったか?)
ヴィオレットは言っていた。
「狼の血は毒よ」と。
実際、吸った直後は体中が焼けるように痛み、倒れ込むほどの衝撃があった。
けれど――それだけだった。
後遺症も、力の枯渇もない。
むしろ、今は不思議なほど頭が冴えている。
「……なに考えてるの?」
前席からリサの声が落ちてきた。
「いや、なんでもない」
煉は短く答え、ポケットからスマホを取り出す。
画面に表示された時刻と、日没の時間。
(……まだ、あと一時間はかかるか)
彼は息をつき、背にもたれた。
その瞬間、フェンリスが小さく寝返りを打ち、さらにぴたりと身を寄せてくる。
煉は一瞬だけ顔をしかめたが、何も言わなかった。
「……懐かしいわね、こうしてあんたと車の中で過ごすのも」
今度はリサの声が、少し柔らかくなっていた。
「前にそんなこと、あったか?」
煉は答えながら、目を閉じたまま問い返す。
「あったわよ。ほら、三年前。西郊外で連続失踪事件追ってた時。
人間の裏取引に吸血鬼が絡んでるって話で――」
リサは少し笑う。
「あのとき、あんたがまさか吸血鬼になるなんてね。皮肉なもんよ」
「……お前、あの時から変わってねえな」
「そう? まあ、あんたも似たようなもんだけど」
リサの声に、わずかな揺れがあった。
車内には再び沈黙が訪れる。
しかし、それは息苦しいものではなかった。
あの頃とは、すでに戻れない時間の向こう――
それでも、どこかに微かに繋がっている“夜”の匂いが、確かにあった。
日が沈み、空が群青色に染まる頃。
煉たちは車を降り、研究施設の外縁部――廃れた山道の奥、岩肌に隠れるように造られたコンクリート構造物を見下ろしていた。
かつてフェンリスが逃げた「出口」。
記憶に浮かんだ映像と、今目の前に広がる風景は、ほぼ一致していた。
「……こっちから侵入できそうだな」
煉が茂みに身を隠しながら、低く呟く。
「ただの山の倉庫にしか見えないけど、中は違うわけね」
リサが双眼鏡で周囲の監視カメラを確認しながら答える。
その背後で、フェンリスが大きな欠伸をした。
「ん~~……まだ眠い……」
「……お前、どれだけ寝れば起きるんだ」
煉は半ばあきれたように言った。
「まだ体力回復してないの。吸われたせいで」
フェンリスはじとっとした目で煉を睨むように言い返す。
「……あー……」
その瞬間、リサの視線がびくりと煉に向いた。
「……え、ちょっと待って。まさか、吸ったの? 彼女の血を?」
「……仕方なかったんだ。ヴィオレットに乗せられて……」
煉は頭をかくようにして苦笑する。
リサは一瞬あきれたようにため息をついたが、次には無言で煉の肩をぽんと叩いた。
「……あんたも、苦労してるのね」
「……まあな」
煉は小さく返し、再び前方に視線を戻す。
そのときだった。
「――ここだ」
フェンリスが、ふいにぴたりと立ち止まり、目を見開いた。
「ここ……間違いない。わたしがずっと苦しかった場所……あの音、あの臭い、あの……ッ!」
煉がすぐに問いかける。
「お前……どうしてここに連れて来られたんだ? もともと北部にいたんじゃ――」
「さあ? アマリリスがそう言ってただけでしょ?
ほら、キャッチコピー的なやつ。“北方から来た獣”って。格好いいでしょ?」
言いながら、フェンリスは肩をすくめて笑うが、目は笑っていなかった。
「それに、最初の記憶なんて、ここしかないよ。
気がついたら檻の中で、首に鎖つけられてて――」
彼女の声音が微かに震えた。
その直後。
「で、この人間は誰?」
フェンリスが煉の隣に立つリサを指差した。
「……え? 今さら?」
リサが目を瞬かせた。
「リサよ。人間側の協力者」
「ふうん……ふーん……」
フェンリスがまじまじとリサを見つめる。
「へぇ、案外かわい……」
――その瞬間だった。
フェンリスの表情が凍りついた。
地面に落ちていた、半ば土にまみれた「ある物」を見つけたのだ。
「この服……」
彼女の声は低く、かすれた。
それは、灰色の研究所用の作業服――
彼女の記憶に残る「監禁者たち」が着ていた、あの制服とまったく同じだった。
「ッッッ!!」
次の瞬間、フェンリスが駆け出した。
「おい、待て――!」
煉が声を上げるも間に合わず。
彼女は目にも留まらぬ速さで跳び出し、施設入口付近の警備員に襲いかかる。
「――ッ!?」
制服の男が叫ぶ間もなく、フェンリスの爪が唸り、男の首筋を叩き伏せた。
「……フェンリス!!」
リサが即座に拳銃を抜き、後を追う。
煉も走り出しながら、思わず息を呑んだ。
――彼女の怒りは、あまりにも本能的で、深かった。
(ここが……彼女の“夜”の始まりか)
彼の中で、静かに戦慄が走った。




